ささみサラダ・二鉢目

「どうしたい、つぐみよ」


「なにかあったのかっ。

 なんでも包みかくさずに、この兄に相談してみろ」


 ひばりはカレー皿からあふれそうなルーを指先ですくって、その指をくわえながら居間にもどった。


「どうかしたのぉ、つぐみちゃん。

 あっ、ホントはもっとカレーライスをいただきたかったのね。

 じゃあ、仕方ないからぁ、少しだけおすそ分け」


 つぐみは三人の顔を交互に見ながら苦笑する。


「そんな深刻な顔をしないでよ、みんな。

 それにひばり、スプーン一杯だけわけてもらっても、あまり嬉しくないし」


 つぐみは横からカレーライスの乗ったスプーンを指さした。

 ひばりは残念そうな顔をしながら、そのスプーンを自分の口元に運ぶ。


「おにいちゃん、そんな血相を変えるようなお話じゃないのよ」


「お、おう、そうか。

 わかった。

 じゃあ言ってみなよ」


 片膝立ちしていた彦一ひこいちは、再び畳に置いた座布団の上に腰を降ろす。


「わたしももう二十歳だしさ。

 そろそろ」


「まさか、け、結婚!」


「だからあ、おにいちゃん。

 なぜそう飛躍するのよ。

 違います。

 今まではね、毎月おうちからお小遣いをいただいていたんだけど」


「ありゃおまえ、茂根もねの野郎が家に振りこんでくる銭から出してるからよ。

 遠慮するこたあねえぜ。

 なあ、彦」


「うん。

 お店もなんとか家族四人が暮らしていけるお金は、稼がせてもらっているしな。

 なんだ、お小遣いが足りないのか。

 それなら増額しよう、うん」


 つぐみは頭を下げる。


「ありがとう、おにいちゃん。

 お昼は毎日おにいちゃんがお弁当を持たせてくれるし、お小遣いの範囲で充分毎月賄えてるんだけどね。

 お金よりもさ、そろそろ社会勉強を兼ねて、アルバイトをしてみようかな、なんて考えてるわけ」

 

 彦一は文太ぶんたと顔を見合わす。


「アルバイト?」


「うん。

 研究室の子たちは、ほぼ全員がアルバイトをしてるの。

 家庭教師やコンビニとか、色々ね」


 彦一は腕を組んだ。


「いいんじゃねえか、おい。

 つぐみだって、もう成人なんだからよ。

 そろそろ社会へ出て、労働することの面白さに厳しさを学んでもな」


 文太はかたわらに置いた一升瓶から、常温のお酒をコップに注ぐ。


「つぐみちゃんならぁ、妹のあたしから見てもぉ、かなり美人さんだからぁ、きっと指名がたっくさん入る売れっ子になるかもー」


 ひばりの一言に、彦一の妄想が膨らみ始めた。

 

 指名?

 売れっ子?

 そ、それってガールズバーとかキャバクラのことか?

 たしかにつぐみはおかあさまに似て、すごく美人だ。

 でも待て。

 夜の世界へ入っていったら、どうなるよ。

 最初は蝶よ花よともてはやされてお金を稼いだとしても、そのうち年齢が進むともに、ナンバーワンから転落していって、しまいには風俗の闇世界へといざなわれていく。


「ダ、ダメだ!

 にいちゃんは許さないっ」


「もう、ひばり!

 なんでわたしがホステスのアルバイトをしなきゃいけないわけ?

 だからあ、おにいちゃんが変な妄想世界に突入しちゃったじゃない」


「えーっ。

 家庭教師の世界でもぉ、ご指名や売れっ子先生っているじゃないのー」


 つぐみは、鼻の穴を広げ憤慨している彦一に顔を向ける。


「おにいちゃん、違うんだから。

 その変な妄想世界から現実にもどってちょうだい」


 彦一はハッと我に返る。


「ああ、そうだよな。

 一級建築士を目指すつぐみが、夜の世界の住人になるなってありえねえな。

 すまん」


 素直に頭を下げた。


「だからね。

 もちろん勉強が本分だけど、週に一回か二回くらいなら時間はとれるし、どこかで募集している求人に応募しようかなって思うの」


 つぐみはスプーンを置いた。


「いいでしょ、おにいちゃん。

 おじいちゃんは賛成してくれてるし。

 メーコー大の学生なら、家庭教師の口は結構あるし」


 メーコー大とは、つぐみが通う国立ナゴヤ工業大学のことである。


「家庭教師か。

 うーん」


 ここで彦一は、再び妄想の世界へいざなわれていく。


 相手が女子高生や女子中学生ならまだしも、思春期まっしぐらな男子生徒だったらどうよ。

 それに、もし相手先の旦那がつぐみの可愛さに見惚みとれて、万が一手を出されたら、どうするのよ。


「おにいちゃん、また変なこと想像してるでしょ」


 つぐみは宙を見据える彦一を指さした。


「よし、決めた。

 つぐみさ、うちでアルバイトしろよ」


「うちって、ここ?」


 つぐみは台所にある、お店へ続くドアを指さした。


「そう、『焼き鳥まいど』で週に二回」


 ひばりが眉根を下げる。


「えーっ、つぐみちゃんが焼くのぉ?

 大丈夫かなあ」


 つぐみはひばりをキッとにらむ。


「ひばりね、わたしだって『焼きの文太』の血を引いているんだよ」


 彦一は首を横にふった。


「あっ、いや、お客さんに提供できるだけの串を焼こうと思ったら、最低でも五年はかかる。

 だから、俺のアシスタントってことで、皿洗いや鶏ごはんに鶏スープのオーダーに対応してくれたらいいよ」


「まあ、わたしは社会勉強で外の空気を吸わなきゃって思っていたけど。

 最初はやっぱり緊張しちゃうし、うちで慣れてから他のアルバイトしようかな」


 つぐみの言葉に文太はうなずいた。


「そうしな、つぐみ」


「うん、じゃあうちで働かせていただくことに決めちゃおっと」


 ひばりはいつのまにか、きれいにカレー皿の残りをたいらげている。


「なんならぁ、あたしもお手伝いしようかなあ」


「ひばりはダメだよ、未成年でしょ。

 うちはお酒を提供するんだから。

 それよりもだ、しっかり勉強して保護者会で先生から褒められるくらいだったら、にいちゃんは嬉しいけどな」


「わっかりましたあ」


 彦一は微笑んだ。


「そういえばよ。

 たしか、ばあさんか、かあちゃんかが手伝ってくれるときに着ていた、仕事着ってなかったか、彦よ」


「ああ、そういえば赤い作務衣さむえが押入れにしまってあるわ。

 多分ナフタリン臭がプンプンするだろうから、明日にでも洗濯し直しておくか」


「おにいちゃん、よろしくお願いします。

 それと、わたしがその二回入るときには、夕ご飯やお弁当の仕込みも手伝わせて」


「つぐみちゃんってぇ、お料理できたっけ」


「失礼な、ひばり。

 わたしだって目玉焼きくらいお茶の子さいさいってなものよ」


 口元を尖らすつぐみに、彦一は苦笑する。


「お茶の子さいさいって、いつの時代の言葉だよ。

 そうだな、家の分ならお願いしょうか。

 そろそろ家庭料理の基本くらいは、教えておこうと思っていたしさ」

 

 こうしてつぐみは講義のない週の二日、お店を手伝うことになった。


 ~~♡♡~~


 焼き場から上がる煙。

 彦一は富蔵とみぞうに経緯を話した。


「あらまあ、そうだったのね。

 偉いわねえ、つぐみちゃん。

 あっ、彦さま。

 生の大追加と、あとはお任せで、二十本くらい焼いてくださるかしら」


「あいよっ。

 今日はせせりやハツが一番お薦めだから、大目に焼くよ」

 

 彦一はウインクする。

 つぐみは洗い物を終え、コンロで明日のお弁当用に玉子焼きに取り掛かっていた。

 ボールで溶いた卵を懸命にかき回す。


「ああっ、つぐみ!

 あまりかき回したらダメだよ。

 泡立てないように軽く混ぜてさ、白身は箸ですくって切るようにして馴染ませるんだ」


「そうなの?

 わたしは適当にかき混ぜて、フライパンで焼いてるものだと思ってたわ」


「白身を泡立てちゃうとね、ふっくら仕上がりにくくなるんだ。

 それに泡が多いと、破れやすくなってしまうからさ」


 ふたりのやりとりをカウンターで眺める富蔵。


「彦さまって、本当にご母堂のようねえ。

 これで天国のおかあさまたちも、ひと安心ってところよ」


 彦一は焼き場に注意をはらいながらも、きっちり妹に料理を伝授する。

 ガラッとお店の入り口が開く。

 すかさず「まいど!」と、兄妹は息の合った挨拶をするのであった。

                                  つづく

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