不器用父ちゃん(3)

新しい家探しと幼稚園の送迎を始めて一ヶ月が経った。

 思っていた以上に大変だった。

 幼稚園の送り迎えのために、朝、就業時間前に捌いていた仕事ができなくなったし、残業もできなくなった。残った仕事が溜まって、休日出勤をした。

 休日出勤をしたのは、結婚して初めてのことだった。幸恵と文博に頭を下げて、竜也の面倒をお願いした。

「大丈夫なの?」と幸恵に心配顔で言われた。

「慣れれば、大丈夫ですよ」と、笑顔で応えた。しかし、心の中は穏やかではなかった。

いま、掃除や料理など家のことは幸恵がやってくれている。竜也と二人で住むことになると、さらにそれも増えることになる。

考えただけで、ゾッとした。

無性に甘いものを体が欲していた。甘いものよりしょっぱいものが好きで、普段なら絶対に食べたいと思わないのに。

デスクでチョコレートを食べていると、芹沢に話しかけられた。しっかりと、手には資料が握られている。

また、仕事が増えた。

「課長、最近、疲れてませんか?」

「いや、そんなことはないよ。心配かけて、ごめんな」

「自分たちにできる仕事は、どんどん任せてください。課長は、一人で抱え込みすぎです」

「ありがとう」

 芹沢は照れ臭そうに、鼻の下を掻いて、「これ、お願いします」と資料を渡すと、逃げるように席に戻っていった。

 いい部下を持ったと思う。

 健太郎は、若くして出世したため、なんでも自分でやってしまう傾向にあった。それは、自分でもわかっていた。

 机に積まれた資料の山に目をやった。

 家のことを考えなくて良ければ、仕事がどれだけあってもこなす余裕があった。

 でも、これからは、それじゃダメだ。

最近、家にも仕事を持ち帰っていた。新しい家探しは、まったく手をつけられていなかった。

 芹沢が置いていった資料は、電機メーカーのショールームのデザインだった。まだ、始動したばかりのプロジェクトで、健太郎が目を通すのは、もっとチームで形にしてからでも問題ないと感じた。

 他にも、似たような案件は多くあった。健太郎ではなくてチームリーダーがやるべき仕事を健太郎がすることで、チームリーダーの役割が薄くなっていた。

 課長になる前、健太郎もチームリーダーを担っていた。当時の課長は、仕事ができる人ではなかった。ただ目を通して決裁をするだけ。課長からアイデアをもらったことは一度もなかった。

 だから、自分が課長になったときは、課員ともっとコミュニケーションを取ろうと、よく口を出していた。

課長の健太郎が意見を言うことで、反論しづらい空気を作ってしまっていた。でも、現場の仕事が楽しくて、健太郎の頭はそこまで回らなかった。しかも、健太郎の案が失敗することもなかった。

課長になって二年。気づけばいまの体制になってしまっていた。

 まずは、チームリーダーの仕事の洗い出しからだ、と仕事の分配を考え始めたときだった。

携帯に着信が入った。知らない番号からだった。

 廊下に出て、電話に出る。

「はい、もしもし」

「あ、竜也くんのお父様ですか?私、○○幼稚園の木下と申します」

 ああ、そうだった。幼稚園の連絡先を自分の携帯番号に変更したんだった、と思い出す。

「どうも。何かありましたでしょうか?」

「はい、竜也くんが熱を出しまして。お迎えにくることは可能でしょうか」

「え?熱?竜也は大丈夫なんですか?」

 慌てる健太郎と裏腹に木下先生の声は落ち着いていた。

「大丈夫ですよ。まだ微熱程度ですので、安静にしていれば明日には下がると思います。では、お待ちしてますね」

「あ、ちょ、」

 木下先生は、健太郎の返事を待たずに電話を切った。

 困ったなあ。

 溜まった仕事のことを考えると、会社を抜けられるような状態ではなかった。

 健太郎は、幸恵に連絡をした。

「あら、健太郎くん。どうしたの?」

「すみません、お義母さん。実は、幼稚園から電話がありまして、竜也が熱を出したみたいなんです。申し訳ないですが、お迎えを頼んでもよろしいでしょうか」

「そうなのね。わかったわ」

 幸恵は何事もなかったかのような声で、あっさりと了解した。

「竜也はよく熱を出すのでしょうか」

「んー。子供はね、熱を出しやすいのよ。最近涼しくなってきたしね。心配しなくても大丈夫よ。安心して仕事をしてね」

「ご迷惑をおかけします」

 健太郎は、電話越しにも関わらず、頭を下げた。

 電話を切って、スマホを力なく手に握る。

 幼稚園については、送り迎えのことしか頭になかった。幼稚園や学校に呼び出される場合もあることも念頭に置かなくてはならない。

 はあ、とため息が漏れた。

 ちょうど、江上が前を通った。

「何かトラブルがありましたか?」

「あ、いや、すまない。仕事じゃなくて、家のことでな」

 うまく笑ったつもりだった。力ない表情になったのが自分でもわかった。

「そういえば、課長、引っ越されるって言ってましたね。新しい家は見つかりましたか?」

「いや、それがな」健太郎はさらに力なく言った。「まだ、探せてないんだよ」

 江上は、悟ったように何度か頷いた後、なにかを思い出したような顔をした。

「お子さん、まだ小さかったですよね。新しい家、どの辺りがいいとか希望はありますか?」

「いや、会社に三十分以内で来れたら、どこでもいいかなって考えてるよ。どこかいい物件、知っているのか?」

「はい。賃貸じゃなくて分譲なんですけど、北千住に新しいマンションが建つんですよ。近くには大きな公園もあって、、お子さんにとっても良さそうな場所でしたよ」

 家を買うという考えは健太郎にはなかった。都心の賃貸ばかり探していたが、北千住なら電車で二十分ほどだし、乗り換えも不要だ。立地も悪くない。賃貸に家賃を払い続けるなら、家を買うのもそんなに金額的にも変わらなくなる。

「なんていうマンションだい?」

「えっと、名前を忘れてしまったので、後で確認して連絡します」

「わかった、頼む。先月引っ越した家を探すときに見つけたのか?」

「あ、いえ、違います」江上は困ったような顔で首を振る。「友人が、その家を購入するみたいでして」

「そうなんだな。江上は、どの辺りに引越したんだ?」

 何気なく訊いた。

 ただの世間話のつもりだった。

 江上の顔が、言いにくそうに歪んだ。

「あ、えっと、セクハラだった?ごめん、言わなくていいから」

 健太郎は、訊いてはいけないことを訊いてしまったようだ、と慌てた。江上は健太郎より七つ下で、まだ二十八歳だ。結婚しているとはいえ、上司に家の場所は教えたくないのだろう。

「違うんです。ごめんなさい。日比谷に家を借りて引っ越しました」

「え?すごいな」思わず感嘆の声が出た。健太郎も、何軒か見たが、日比谷で二人暮らしなら、家賃も相当高いはずだ。「二LDKかい?家賃はいくらくらい?」

 江上は、周りの様子を伺いながら、声を潜めて言った。

「私、別居してるんです」

 え?

 声にならないほど、驚いた。おそらく、健太郎の顔は目が見開かれ、戸惑っていたに違いない。

 江上がぎこちなく微笑んだ。 

「いずれきっとわかっちゃうと思うんですけど、いまはまだ内緒でお願いします」

「あ、ああ。もちろんだ。だれにも言わない」

「お願いします」

 江上はお辞儀をすると、「じゃあ、私先に戻りますね」と事務所の中へ入っていってしまった。

 結婚してから別居をするなんて、健太郎には考えられなかった。健太郎も沙織がバリバリに働いていたため共働きだった。どんなに忙しくても、平日の二十二時までには家に帰って二人でコーヒーを飲むのが日課だった。休日は、必ず家族で過ごすことにしていた。

 いろんな夫婦の形があるなあ、としみじみ感じた。きっと、子供がいればまた違う形になるのだろう。

 現に、ただ竜也の幼稚園の送り迎えを引き受けただけで、健太郎にも心境の変化があった。新しい奥さんを探すのも悪くないと思うようになっていた。あんなに、沙織以外の女性なんて考えられなかったのに。

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