第33話『Lullaby ~5人目の能力者~』
母の、優しいその声。
美しい子守唄。
私がそのお腹の中に誕生した時から、聴きなれた声。
その心地よい波動。
私はその声を聴いて、安らぐ。
部屋の暗さからくる不安も、たった一人の不安も——
その歌声を聴くと、私の心は静まる。
……お母さん。大好き。
いつまでもいつまでも、私の大好きな母さんでいてね。
ある日を境に優しい母は変わった。
父の蒸発。借金。恐ろしい取立て。
ドアへの落書き。玄関に撒かれる汚物・ゴミ・糞尿。
ガンガン蹴りつけられるドア。怒号。
「払えんのやったらソープに沈めたらあああ! 覚悟しとけや」
どうしたらいいか分からず、泣き崩れる母。
こういう時にどこに頼ったらいいか分からない、世間知らずの母。
一人で問題を抱え込み、ノイローゼ気味になってついに——
「やめてぇ やめてぇ お母さあああん」
三歳になる妹が口から泡を噴いている。
明らかに死にかけている。
私は妹の首をしめ続ける母に、渾身の体当たりを試みた。
ゆっくりとこちらを振り向いた母の顔が、今でも忘れられない。
ガラス玉だった。
瞳が。
……お母さん?
まさか私のこと忘れたの?
その目は、私を娘と認識している目ではなかった。
私は、とっさに思った。
殺される。
お母さんに。
殴られた私は、宙を飛んだ。
精神異常の極みにあった母の腕力は、大人の男並だった。
頬骨が砕けた。
おもちゃの人形のようにグッタリした妹をブン投げると——
母は、私の体に馬乗りになった。
氷のような母の両眼が、無慈悲に私を見下ろした。
母の手には、逆手に握られた包丁が。
ついにそれが振り上げられ、窓から差し込む夕日が刃身に反射した。
……バイバイ。優しかったお母さん。
(1998年9月28日 新聞記事より抜粋)
『母親による虐待 3歳児死亡』
東京都品川区で昨日午後5時頃、近所でひどい虐待が行われているとの通報があり、警察官が急行した。
事件があったのは、犯人の鳥井和子(34)宅。
犯人の次女の綾香ちゃん(3歳)が絞殺死体で発見され、長女の夏美ちゃん(12歳)を刃物でまさに刺そうとしていた現場を、格闘の末警察官が夏美ちゃんの身柄を確保した。しかし、母親は観念したのか所持していた刃物で自らの腹部を突き刺し、病院に運ばれたが30分後に死亡が確認された。
調べによると、犯人の夫は多額の借金を残して蒸発しており、生活苦からかなり精神的に追いつめられていたことが判明した。近所に親しい知り合いも相談する友人もなかったことが、事件を未然に防ぐことを困難としていた一因である。
(以下、省略)
……私ったら、今何をした?
娘が、目の前でグッタリしている。
手のひらには、血。
娘の口からも、血が流れている。
もしかして、殴ったの?
平手じゃなく、こぶしで。
思わず、カッとなった。
泣きやまないから叩いた。
それは、反射的にだった。
考えてやったことではない。
手が、まるで意思を持つ生き物のように動いたのだ。
皮肉にも目的は達した。泣きやむ、という——
しかし、娘は泣くどころではない恐ろしい状態にいたのだ。
響くパトカーのサイレン。
娘は救急車に乗せられ、救急病院へ。
私は、警官に手錠をかけられた。
「署まで、ご同行いただけますか」
私は、泣いた。
警官が見ていようが、近所の野次馬の人垣が騒ごうが、構わない。
泣きに泣いた。
やっぱり、私には子どもを愛する資格がないのだろうか。
男を見る目のなさというものは遺伝するものなのか、夫とは不和の末に離婚し、私は今シングルマザーである。
母に殺されかけ、そして妹と母を一瞬にして失った私。
カウンセリングを受け続け、立ち直ったつもりでいたのだけれど——
やっぱり、子殺しの母親の血は受け継がれているのだろうか。
私は呪いの子なのだろうか。
母親にされたようにしか、子に成すことができないのか。
裁判の結果。
私の過去など様々な事情が酌量され、実刑は免れた。
しかし、執行猶予3年がついた。
娘は、児童相談所の緊急一時保護を受けていた。
向こうが安心と認めない限り、私は娘には会えないらしい。
仕方がないな、と思った。
私は、口をついて出てきた子守唄に苦笑した。
死んだ母が、優しかった時に歌ってくれた歌——
愛したいのに、愛せない。
好きなのに、憎い。
傷付けたくないのに、傷付けずにはいられない。
ある日、私のもとへ奇妙な来客があった。
長身で、高そうなスーツを着こなした美人だった。
応接間で向かい合って座る。
「わたくし、こういう者ですの」
S区児童相談所 特別相談員 佐伯貴子
名刺には、そうあった。
「ああ。児談所の方——」
佐伯さんは強烈な臭いのする手提げ袋をデン、とテーブルに置いた。
「これ、お土産ですの。551のある時とないときではお話の弾み具合も違いますからねぇ! オーッホッホ」
551の蓬莱のブタまんとギョーザは、確かにうまそうだった。
何だか、ヘンな相談員だ。
フツーはもっと、深刻なムードになるはずだ。
だって、虐待のことや、娘とのこれからを話し合うわけだから。
なのに初対面でブタまんとギョーザをつっつき合ってー。
「ああっ、ラー油とカラシが袖にぃぃ! クッソ、このシャネルのスーツ高かったのにいいい!」
方向性が違うというだけで、この人もかなり戦闘的な人種と見た。
「娘さん、あなたに会いたがっていますよ」
佐伯さんは、ブタまんを食べる手を止めることもなく喋る。
私は、心臓にくさびを打たれたように固まった。
「本当——、ですか?」
「ホントもホント。インディアンがウソなどつくものですか」
……誰がインディアンやねん。
佐伯さんは、ブタまんにこれでもか、というくらいにカラシを塗りつけていた。
見ているこちらの口が、ムズムズしてくる。
「そうよねぇ。脳震盪を起し、前歯が折れて鼻の骨まで折れてあわや出血多量死寸前ってとこまで行ったのにねぇ。普通そんな鬼ママ、トラウマになって会いたくなんかなくなるよねぇ」
言うことに遠慮のない人だ。でも、事実その通りだったのだ。
私の心の中に、疑問符が渦巻いた。
どうして?
どうして、私のような悪魔に会いたいと言ってくれるの?
「これ、お見せしとかないとね」
佐伯さんはカバンから、画用紙の束を取り出した。
「娘さんが、保護されている先で書いた絵です」
……おいおい。カラシのついた指で触ると、その黄色がぁ!
私は、カラシ付き画用紙を受け取って、絵を眺めた。
どの絵も、同じ構図・同じ内容が描かれていた。
大きな家をバックに、私と娘が手をつないで。
「ママ」 「わたし」 と、人物の上に字が書いてある。
そして、画用紙のてっぺんには大きな字で、
ママ大好き
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお」
恥も外聞も捨てて、私は床に突っ伏して慟哭した。
泣き声というよりは獣の咆哮に近い叫びが、室内を満たす。
一方の佐伯さんには気まずい様子など微塵もなく、三個目のブタまんに手を伸ばしていた。
「児童相談所を含め、すべての機関のすべての人間が、あなたと娘さんが会うことに反対をしています。ま、普通当然といえば当然ですわね。時期尚早と思われても、仕方のないことです」
さっきから、ひとつだけ気になる。
もしかしたら私の思い過ごしかもしれないが……
「来週、私と保護監察官の立会いのもと、母子の面会を許可します。何かあったら、私が社会的責任を負います」
やっぱりだ。
佐伯さんは私ではなく、さっきから私を通り越してその後の壁辺りを、ジロジロと見つめてばかりいるのだ。
「どうして私のために、そこまでしてくださるんですか」
この時点で、ブタまんもギョーザも全部なくなっていた。
……お土産だ、と言って持ってきたほうが三分の二を平らげてるじゃん!
「私ね、実は見えるんです」
エッ?
佐伯さんがなぜ私の背後ばかり見ていたのかの、答えとなる一言が出た。
「背後霊。私ね……霊能力があるんです」
娘との面会当日。
場所は、自宅。
佐伯さんは、また551を手土産にやってきた。
今度は、アイスキャンデーだ。
「やっほー。前回はギョーザで失敗したわ。あなたんとこの次にも回るところがあったんだけどね、どうもニンニク臭かったみたいでね! オホホホホ」
「…………。」
「今回は無難な線でおさめたわよ。どんなもんですか!」
あとで気合入れて食べましょうね! と鼻息も荒い。
美人で、服装も洗練されたその見かけと言動が極端につり合っていないのが、この佐伯さんの魅力である。
ごつい男性の保護監察官につれられて、娘が部屋に入ってきた。
「……ママ」
8ヶ月ぶりに見る我が娘の顔。
ニコッと笑うと、あるべき前歯が二本ない。
幸い折れたのは乳歯で、いつか大人の歯がきちんと生えて元通りになるだろうとのことだった。
それでも、私の中の罪悪感はうずき、呼吸が苦しくなった。
「行くわよ」
佐伯さんは私の真横に座り、手を握ってきた。
その瞬間、私の見えていた世界が変わった。
極彩色の陽炎のようなものが、部屋中に揺らめく。
佐伯さんの目が、怪しい光を放つ。
「ワイズマンズ・サイト!(賢者の目)」
佐伯さんの力が、私にも流れ込んできた。
私の霊眼が開けた。
……お母さん!
それだけではなかった。
その横には——
首を絞められ、3歳で逝った妹。
娘の真後ろで、その二人が手をつないで立っている。
信じられなかった。
「この二人仲直りさせるの、大変でした」
佐伯さんは、ちょっと苦笑した。
「でもね。あなたがこの呪いの連鎖から、呪いの呪縛から解放されるためにはね、お母さんと妹さんの和解は絶対に必要なことだったんです」
目の前の娘と保護監察官の二人は、私たち二人の会話が何のことなのか分からず、キョトンとして聞いている。
真如懺賽紅妙 詔隼結宙鉾献 纏衣経辿稜舜
鎮宅
一魂浄誓の儀
祝覇盛の時に阿夜して見る神の
態雅の時に遠津美世麗を彷徨えり
指で空を切って不思議な図形を描いた佐伯さんは、不思議な呪文のようなものを唱えだした。
すると、驚くべきことが起った。
母が膝をかがめて、妹の目線にまで下がると——
歌いながら、妹を優しく抱きしめたのだ。
歌はもちろん、母が昔歌ってくれたあの子守歌。
「これって、モーツアルトの子守唄よねぇ。いい歌」
佐伯さんはうっとりとそのメロディーに耳を傾けていた。
死者の歌声が聞こえているのは、もちろん佐伯さんと私の二人だけ。
私は、はっきりと見た。
心の中で、バリンと音を立てて分厚いガラスの壁が粉々に砕け散った。
後から後から、涙がボロボロと頬を伝う。
……あの優しかったお母さんが、帰ってきたよ。
お母さん。
また妹と三人で、仲良く暮らそ。
私の娘もいるから、四人だね。
私はたまらず、娘に抱きついた。
佐伯さんの手を離した瞬間、母も妹も見えなくなった。
でも、もう見えなくていい。
分かるから。
痛いほど、その愛が分かるから。
そして目の前の娘の愛。
こんな母でもなお愛し慕ってくれる、その愛。
これほどの愛に、私は出会ったことがない。
「お母さあああああん!」
娘も何かを感じ取ってくれたのだろう。
私は力の限り、娘を抱いた。
もう、離さないよ。
もう、傷付けないよ。
全力で、あなたを守る。
あなたを苦しめるすべてのものの前に、立ちはだかってみせる——
「おっしゃ。法の名の下に、私が認めここに宣告します。然るべき手続きを経て、二ヶ月以内に親子での生活を認めます。ささ、そうと決まればアイスキャンデーの時間よねぇ」
佐伯さんは、キッチンの冷蔵庫へと走る。
一番食べたそうにしてるのは、佐伯さんだった。
和やかなムードで、皆アイスキャンデーにかじりつきながら談笑した。
「佐伯さんって、すごいチカラをお持ちなんですね」
すでに二本目に手をつけている佐伯さんは、豪快に笑った。
「私なんて、まだまだよ。麗子、っていう妹がいるんですけどね、もっと桁違いの能力を使えるんですよ! 今度、連れて来ましょうか?」
私は、いいですと言って遠慮した。
この佐伯さんでさえ常識外れの濃いキャラクターなのに、それ以上すごい妹さんなんて来られた日には……
何にせよ、ありがと。佐伯さん。
私は、万感の思いを込めて、娘を抱き寄せた。
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