第31話『風が教えてくれた』
風が、吹く。
どこからか。
どこから来て、どこへ行くの?
優しい風よ
力強き風よ
私たちに何をささやきかけて
何を教えてくれようとしているの?
気持ちのよい土曜日の午後。
高校教師・佐伯麗子は女子生徒を乗せた車椅子を押して、のどかな昼の散歩を楽しんでいた。
まばらに浮かぶ綿菓子のようなかわいらしい雲の隙間から、優しく暖かい日の光が降り注いでいる。
「今日もいい天気ですわねぇ、乃亜ちゃん」
乃亜と呼ばれた車椅子上の少女は、にっこりと笑顔を浮かべて空を仰いだ。
別に、足が悪いから車椅子に乗っているわけではない。
彼女の眼球は、はたから見てもその焦点が合っておらず——
風景ではなく、何かもっと遠くにあるものを見つめようとしているように思えるのだった。
乃亜は目が見えない。そして、音が聞こえない。
でも、世界は乃亜に優しかった。
大気は、母のように優しく彼女を包む。
光は、彼女を照らしその暖かさを体中に伝える。
風は、彼女の良き話相手であった。
もちろん、友は自然だけではない。
乃亜は視力と聴力を失って以来、不思議な力を持つようになった。
それは、人の心の思いを見抜けるという能力。
いわゆる、『心眼』と呼ばれるものである。
彼女の前では、人は何をどう取り繕おうが無駄なのである。
乃亜は、やはり人とは違う特殊な能力を持つ三人に出会い、そして見出され、人々を救うために立ち上がったのだ。
今車椅子を押してくれている麗子もまた、能力者の一人であった。
「当たった~~~!」
家の玄関の前で、郵便受けにあった自分宛の郵便物を開封した羽田昇(のぼる)は、中から薄っぺらい紙を引き出すと、穴が開くのではないかと思えるほどに凝視した後、喜びのあまりガッツポーズを取った。
「よっしゃあああああ!」
昇は喜びを抑えきれず、それを全身で表現しようとして、奇妙な踊りを始めた。
思わず目を背けたくなるようなひどい踊りだが、無理やりにその様子を例えるとするならば『インディアンが焚き火の周りで、ヘンな雄叫びを上げて踊り狂っている』様子に似ていた。
その時、前の道を通りがかった女子高生の二人組は、道の壁際にササッと身を寄せて、足早に通り過ぎた。
……あの人、ヤバそ。
幸せの美酒に酔いしれていた昇は、通行人にドン引きされていることなどどこ吹く風で、心はすでに来月に開かれるコンサートに飛んでいた。
昇の元に届いたのは、『藍田由香里』という歌手のコンサートチケットだった。
しかもそれは、ただのコンサートではない。
ファンクラブの会員限定、しかもたった50名だけが招待され、一方的に提供される歌を聴くだけでなく、かなり間近に接することができるという、いわば『内輪パーティ』的性格を持った、ファン垂涎の企画なのだ。
藍田由香里は、日本では知らぬ者とてない、芸能界に彗星のように現れた実力派シンガーである。もともとアイドル路線で売っていたが、歌に力を入れてアーティストとしての方向性に転向。
そして、それが大当たりとなった。
抽選で50名のところへ、3万人の応募が殺到。これに当選するというのは、ある意味宝くじに当たるのに似ている。
ファンでない者にとってはただの紙切れ同然だが、昇にとってはこの上ないお宝であった。ドロンボー一味にとっての 『ドクロストーン』 のようなものか。
昇は由香里のデビュー当時からのファンだったから、彼の名前のごとく『天にも昇る』心境であった。
しかし、運命の神様はどうもいたずら好きであるらしい。
風が、吹いた。
どこからか。
そして、チケットを片手に有頂天になって跳ね回っていた昇の手のひらから、一陣の強風が紙をさらっていった。
「ま、マジかよぅ!」
チケットは木の葉のように軽々と巻き上げられ、空へ——
「待て~~~~~~!」
待てと言って待ってくれるのなら、こんな楽なことはない。
しかし、映画でもドラマでもそうであるように、追っ手が待てと言っても、逃げていく者は決して止まることはない。
チケットは、昇をあざ笑うかのようにさらに遠くへ。
「お前がなくなったら、オレの人生は終わりだああああああ」
それはちょっと、大げさである。
でも、それくらいに昇のファン熱は半端ではない、ということなのだろう。
こういう焦りの中にいる時、人というものは得てしてマイナスな発想ばかりが頭をかすめるものである。
このまま見失ったらどうしよう。川に落ちたらどうしよう。
追いかけてる途中の道で信号が赤になって、待っている間に見えない所まで飛んでいってしまったらどうしよう——
「ああっ、車にひかれるのはいやだよおおお」
オイオイ、信号無視してでも追う気なのかい! ファン魂もそこまでいくと見上げたものである。
昇は追跡の息を弾ませて、さらにチケットを追って街を疾走するのだった。
「乃亜ちゃん。そんな笑わなくても」
盲目の少女は、さっきからクスクスと笑っていた。
さっきまで吹いていた心地よい風がぱったりとやんで、無風状態になってしまったのだ。それを物足りない、と思った麗子は、能力で町全体に風を起こした。
麗子は、風の精霊と契約を交わした『風使い』である。
だから、風を起こすくらいの芸当は彼女にとって簡単なことであった。
普段は悪を追い詰めることにしか使わない能力も、こういう茶目っ気ある使い方もできるのである。
しかし、麗子は自分のしたことのせいで、恐ろしい迷惑をこうむった者がいるということを知る由もなかった。
空の少し高いところに、ヒラヒラと一枚の紙切れが漂っている。
22歳の高校教師である麗子だったが、『佐伯グループ』の会長の娘、という途方もない大金持ち一家の令嬢として育ってきた麗子には、妙に子供っぽい一面があった。そしてそれは、この時にも発揮されてしまった。
「いっちょ、射撃訓練でもやりますかねっ」
麗子の眼球が、エメラルドグリーンに光る。
それは、彼女が風の精の力を使おうとしているしるしである。
……風の声、大地の唄。
空の眷族、万物の理を司る精霊よ。今、我が声に耳を傾けよ——
上空に浮かぶ標的に真っ直ぐ差し出した指先から、まばゆい電流が放たれた。
ライトニング・ブラスト!
電撃波は空を切り裂き、ヒラヒラと上空を舞う紙切れに命中。
高熱を含んだその電気に触れた紙は、ひとたまりもなく消滅した。
黒焦げになった紙の切れ端が、ポトリと歩道に落ちる。
「ア゛——ッ!」
駆け寄ってきた昇の大絶叫が響き渡る。
「チケットがあああ、僕のチケットがあああ!」
麗子と乃亜の目の前で、ガックリと膝をついて呆然とする昇。
「燃え尽きた。真っ白な灰になっちまったぜ……」
場の空気を読まない麗子は、トンチンカンなことを口にした。
「それって、あしたのジョーのモノマネですの?」
「何だ、あのブルジョワ先生じゃんかよ」
麗子は、昇の高校での古典の先生だった。
「まぁ。お褒めに預かって光栄ですわ。オーッホッホ」
……誰もほめてない。
飛んできた紙切れが何だったのか、それがどれだけ大事なものだったのかを昇から聞かされた麗子は、気まずそうに頭をかいた。
「それは申し訳ないことをしましたわね。実はこの子からそれはマズイよ、って止められてたんですけどね、ちょっと間に合わなくって」
車椅子の少女は、楽しそうにクスクスと笑う。
はかなげな印象だが、色白のかわいい子だ。
「センセ、その子は……?」
制服から、同じ学校の女子だということは昇にも分かった。
「ああ、二年の君は知らないっか。この子は早崎乃亜ちゃんっていって、一年の子。目が見えないし耳も聴こえなくなったんだけど、これからも高校で頑張るんだって」
見えていないはずの目で、しっかりと昇の立っている方向を捉えて、思わず吸い込まれそうな笑顔を見せる。
乃亜を見て、昇の心の中に何だかポワンとした暖かい感情が芽生えた。
経験のない自らの情の流れに面食らった昇は、内心の動揺を隠そうとして麗子にしゃべりかけた。
「……ところで、オレのチケットどうしてくれるのさ!」
オーッホッホ、という麗子のブルジョワ笑いが炸裂した。
「そんなもの、軽く弁償してあげますわよ。っていうか、由香里ちゃんに会えればいいんだったら、会わせてさしあげますわよ。わたくしの友人が、ちょうど由香里ちゃんと浅からぬ仲ですからね」
「マジっすか!」
さすが、麗子の人脈は広い。
昇は喜んだ。彼としても、50人の中の一人として会うよりも、一対一で会わせてもらえるのだとしたら、さらに願ったり叶ったりである。
「……それよりも」
パッチリとしたきれいな瞳をクリクリと躍らせる麗子。
麗子がこういう目をする時は、たいがい何か腹に一物ある時である。
「交代よ。あなた、乃亜ちゃんの車椅子を押してあげなさい」
「いいっ!?」
乃亜の頬が、赤らんだ。
まるで乃亜には会話がきこえているかのようであるが、この場合はちょっと違う。
ただ、麗子とはエスパー仲間同士だから、テレパシーによって会話が彼女に筒抜けなだけである。
「どうせヒマでしょ。私たちに一日付き合いなさいっ」
「……はぁ」
有無を言わさぬ麗子の口調に、昇は車椅子に近寄った。
「そうそう、まず自己紹介してあげなさい」
昇は、ある当然のことで戸惑った。
「あのさ。聴こえない子に、どうやって自己紹介すれば?」
何でもないことのように、麗子は言い放った。
「簡単なこと。乃亜ちゃんの手のひらに指で字を書いてあげなさい」
「……マジっすか」
今度は、昇と乃亜の二人共が赤くなった。
……ぼくは……はだのぼる。よろしくね
車椅子の前にしゃがんで、昇は優しく乃亜の手を取る。
伝えたい内容を、ゆっくりと指で文字にしてつづる。
「よろしく」
目の見えない乃亜は、昇の手を両手で優しく包み込んだ。
情報を得られる感覚器官の限られた乃亜は、まるでそこから相手のことを知ろうとしているようでもあった。
「……せんぱい、いいひと。優しい、ひと」
焦点の合わない目で、そう言って見つめられた昇は、心臓がドキドキした。
再び、彼は乃亜の手のひらに指を走らせた。
……それじゃ、きょうはこれから、たのしいところにいこうか
三人は、それから長い散歩をした。
楽しく会話しながら、賑やかな街を歩いた。
乃亜は全身で、周囲の世界を感じて、取り込んでいるみたいだ。
心から、楽しそうな顔をしていた。
麗子も、世間ずれしたことを言いまくって、二人の失笑を買っていた。
途中、ファミレスに入って食事を取った。
独力で食事が困難な乃亜の横で、昇が食事の介助をした。
おかずやごはんの位置を知らせ、手をつかんできちんとスプーンを口に運べるようにしてやる。乃亜は箸を使うのが困難なので、切り分けたりする必要のあるものは、昇がナイフで切る。
相手に全幅の信頼を置いていないと、任せられないことである。
乃亜は、昇を心の中に受け入れているようだった。
独身でまだ男のいない麗子は、ハァッとテーブルに肘をついて一言。
「……あんたたち、似合いの夫婦ね」
「たのし、かった」
あっという間に楽しい時間も過ぎ、夕方になった。
麗子は、乃亜を自宅に送り届けるため、車椅子の押し役を交代した。
声帯は問題ないのであろうが、自分の言ってることが音で確認できないもどかしさのせいか、かなりたどたどしいしゃべり方だった。
「オレも楽しかったよ。じゃあな」
「センパイ」
昇が体の向きを変えかけた瞬間、乃亜の声が彼をその場に縛り付けた。
「……こっちに、きて」
聞く者が抗えないような、切なる声であった。
「あっ? ああ」
昇はドギマギして、車椅子の近くに立った。
「もっと、そばに」
乃亜の消え入りそうな声。
「エ?」
その時、乃亜は車椅子から立ち上がった。
手を前に出して、フラフラと何かを手探りしている。
「ホラ、あんたを捜してるのよ。つかまえてやんなさい」
麗子の声にハッと反応して、昇は乃亜の前に立った。
目の前に昇がいることを確信した乃亜は、彼の胸に飛び込んだ。
反射的に、昇は彼女をしっかりと抱いた。
「また、あした」
物は見えないが、真実を見通す乃亜の瞳は、涙に濡れていた。
「できたら、あしたもあさっても」
真っ直ぐに昇を見上げる目に、彼は思わず答えた。
「あ……ああ」
脇で、麗子はちょっとうらやましそうな表情を浮かべた。
「乃亜ちゃんにはね、人の思ってることや考えてることが深いところまで分かるの。その彼女が心開いたんだから、あなた人としても男としても、もっと自信をお持ちなさいな」
風が、吹く。
どこからか。
オレンジ色の太陽と夕暮れの西風は、二人を包む。
この時すでに、歌手の藍田由香里のことは、昇の頭になかった。
あったのはただ、これから乃亜とどんな楽しい思い出を作ろうか、ということ。
乃亜が今心で叫んでることは、本人とエスパーの麗子にしか分からなかった。
でも、そのうち昇にも言われる日が来るだろう。
……ずっとずっと一緒にいようね。
あなたのことが、好き。
※歌手・藍田由香里が登場する多作品
『Miss D.J.」(短編小説)
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