第10話『命の代価』

 軽いめまいを覚えて額を押さえた光代は、しばらくミシンを操る手を止めた。

 体が、地面からフワッと浮き上がるような感覚に襲われた。

 頭のてっぺんが、突き抜けるように痺れる。

 なぜだか分からないが、彼女はそれまでの自分の一生を早送りのビデオのように、駆け足で思い出していた。



 ……人は、死ぬ時にそれまでの人生が走馬灯のようにフラッシュバックするって聞いたことがあるわ。

 それじゃあ私、死ぬのかな。



 そんなことを考えながらも、不思議なことに光代の心は凪いだ水面のように穏やかだった。

 死への恐怖は一切なかった。

 ただ心残りだったのは、命を懸けて守ってきた8人の子どもたちの行く末だった。



 霧野光代が養護施設の 『親のない子ども』 という存在を意識しだしたのは、小学校六年生の時だった。

 その時、クラスメイトのある男の子がかなり乱暴な子で、ちょっとしたことでもすぐに腹を立て、喧嘩沙汰を起こすような子だった。悪質ないたずらをすることも多く、光代も何度か被害に遭った。

 その子は、周囲から嫌われれば嫌われるほど、ますますそのような振る舞いをエスカレートさせていった。

 ある時、小学生の全国作文コンクールで、先生が学校を代表してひとつの作品を送ったと生徒に告げた。そしてその作者は、驚いたことにその男の子の作品だった。

 先生は、本人の許可を取った上で、その作文を授業中に読み上げた。



 おれにはおとうちゃんがおらへんねん

 おかあちゃんもおらへんねん

 どこへ行ったんやろな

 気が付いたら、もうおれへんかってん

 みんなにはおるのになぁ



 施設では、職員のせんせがよくしてくれるけど

 それでもなんかさびしいねん

 どないしたらええんか分からんようになって

 むちゃくちゃすんねん

 友達どつくし、いいつけも破る

 でもな、好きでやってるんちゃうねん

 やりたくないのになんでやってまうのやろ

 だれか教えてほしい



 怒らへんから帰ってきてや

 今までおれほっといてどこ行ってたん、とか責めへんから

 いつでもええから

 会いたいなぁ

 生きとったら、どっかにおるんやったら会いたいなぁ

 会えんでも、せめてどっかで幸せにしとってくれたらいいなぁ

 時々でええから

 おれみたいなんもそういえばどっかで生んだなぁ

 …なんて思い出してくれたらそれでええ



 それだけや

 ほんま、頼むわ



 その少年の両親は蒸発しており、養護施設から学校に通ってきているということは知っていた。

『ああ、だからこんなにひねくれてるのか』

 光代は、その程度にしか彼のことを認識していなかった。

 でも、光代はこの作文に心を打たれた。

 うわべは嫌われ者を演じている彼の、むき出しの心を見た気がした。



 大人になった光代は保育士の資格をとり、養護施設に職員として潜り込んでいた。

 決して夢や希望、やる気だけでは勤まらない。

 何せ、相手は心に闇を抱える生身の人間なのだ。

 ある種仕方のないことだが、職員には両親揃って何の不自由もなく育ってきた者が多い。

 だから、気持ちを十分に汲んでやれないことも多い。

「これ以上、どうしてあげたらいい、っていうの!?」

 養護の仕事に絶望感と限界を感じ、辞めていく若い子もいる。

 しかし、光代は負けなかった。どんなに理不尽な仕打ちを、子どもたちから受けても。

 そんな子どもたちの鉄の鎧の下には、真の愛情への枯渇と熱望があることを見つめ続けた。



 光代は、ある中学校と施設との合同イベントが組まれた時に知り合った男性教師と恋に落ちた。

 二年後には結婚。光代は養護施設を退職した。

 夫は優しく人間的にもできた人物で、光代は幸せだった。

 しかしただ一点、問題があった。

 それは、夫婦になかなか子どもが授からないことであった。



 光代は不妊治療センターに通ったりもしたが、そのゆえに光代の体調が思わしくなくなるのを見た夫は、光代と相談してあることを決めた。

 夫は、光代が元養護施設の職員であり、親のない子というものに特別の思い入れがあることを理解していたから、こう提案することができた。

「じゃあ児童福祉法にある『里親制度』を利用して、子どもを引き取って育てるというのはどうだい? 」

 普通なら、なかなか言えないことである。それだけでも、この夫の懐の深さが知れるというものである。



 初めは、3歳の男児・悠馬と小学二年の女児・祐子を預かった。

 二人の子どもは、じきに光代たちになついて、本当にその家の子のように笑って過ごすようになった。

 しかし。

 時々ボランティアで戻る古巣の養護施設は、昔とは違った大きな問題を抱えるようになっていた。

 最近の親の質の低下に伴い、預けられる子どもたちの数が、以前よりもかなり増えた。

 また福祉制度の不備からくる人員不足、低い給与体系が引き起こす職員の士気の低下。

 時代の流れか新人職員の質も低下し、施設内でも虐待や、女児へのレイプなどの不祥事が起こるようになっていた。

 夫婦は相談して、家屋を増築。見るに見かねた児童5人を施設から引き受け、家庭に招き入れた。

 8人の子どもたちと、光代夫婦。

 生活はギリギリだったが、仲むつまじく愛情たっぷりに、子どもたちは育てられた。



 しかし。

 突然、光代の夫はこの世を去った。死因は、急性心不全。

 悲しみに暮れながらも、光代はそれを過労死として夫の職場である中学校側を訴えたが、決定的な証拠を欠き因果関係が十分に立証されなかったため、労災が下りなかった。

 決定を不服として弁護士を雇い争うこともできたが、途方もないお金がかかる。明日子どもたちに食べさせる食費を悩む生活なのに、そんなことできるわけがない。



 光代は、悲しみと絶望のあまり死にたくなったが、彼女は歯を食いしばって踏みとどまった。

「私が死んだら、あの子たちは……」

 そう。もうこの世には光代しか頼りにする者がない8人の子どもたちのためにも、彼女はここで倒れるわけにはいかなかった。



 食費や家賃、光熱費や子どもたちの給食費をまかなうために光代は、昼はパート保育士として無認可の保育施設で働いた。そして少しでも手すきの時間を有効に使うため、縫製の内職を始めた。

 裁縫に関しては腕のよかった光代のもとには、近所からも子供服を作って欲しいという依頼があった。

 光代は、その依頼をこなすことで、皮肉にもなかなか自分の子どもたちに構ってあげられなくなった。

 参観日にも行ってやれなかった。たまの日曜日に、遊びに連れて行ってもやれない。

 それどころか、十分なお小遣いも上げられない。



 一番年上の祐子は、もうこの時中学二年になっていた。でも、流行の服や好きな歌手のCDを買えるだけのお金がないのだ。周りの子たちに比べて何も持っていない彼女は、学校で貧乏人とからかわれ、いじめを受けるようになった。

 それでも祐子は家ではそんなことはまったく顔には出さず、年下の兄弟たちの世話を焼いた。

 光代は来る日も来る日も、ミシンに向かい続けた。



 そんな彼女が唯一我が子らにしてやれることー。

 それは、よそからの依頼の片手間に作る、手作りの服だった。

 上着やスカート、ズボン。冬にはセーターやマフラー、ニット帽まで——。

 光代は、子どもたち一人ひとりの顔を思い浮かべながら、ミシンを駆る。

 彼女が唯一してやれるそのプレゼントを、ミシンから生み出していくのであった。



 最近、どうも立ちくらみが多くなっていた。

 何だか、体調が優れないなぁとも感じていた。

 でも、生活がかかっている。

 自分だけじゃなく、8人の子どもたちの毎日のごはんが、かかっている。

 事情が変わったからと、子どもたちを再び施設へ送り返すことはできる。

 でも、光代は例え死んでもそれだけは嫌だった。 

 どんなにモノがなくたって、愛して見守る親のいない生活を思えばはるかに良いものだ——

 そういう確信が、光代にはあったからだ。

 しかし光代は今、長く苦しかった人生のマラソンを走り終えようとしていた。



「……ごめんね」

 光代は、椅子から落ちた。

 バタリと、床に倒れこむ。



 クモ膜下出血——



 彼女の最後の動作は、目に涙を浮かべることだった。

 そして、静かに息をひきとった。

 主人を失ったミシンだけが、いつまでもカタカタ針を上下させていた。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 下校途中の高校生、藤岡美奈子は思わず目を見張った。

 今、目の前を通過した中学生の女の子の背後に、ぴったりとくっついて歩く者がいるのだ。

 そしてそれは、生きた人間ではない。



 美奈子は、高校生にして最強の能力を持つESP(エスパー)である。

 念動力・透視力・テレパシー・サイコメトリー・予知……

 彼女はそれらの世に認知されている諸能力以外にも、さらに不思議な力の可能性を秘めていた。

 彼女の常人離れした目は、ふつう見えるはずのない霊体を捕らえることができた。

「ちょっと待って!」

 美奈子は、今しがたすれ違った女の子の背中に声をかける。

 彼女が中学生と分かったのは、美奈子自身がかつて通っていた母校のセーラー服を着ていたからだ。

「……えっと、何でしょうか?」

 見知らぬ高校生に呼び止められた少女は、少し警戒するような表情を浮かべる。

 急なことで、相手にどう説明したらいいのか迷った美奈子は、サイコメトリー(物体に触れることにより、そこに残された人の記憶を読み取る能力)でもっと情報を得るために、少女の肩にそっと触れた。

「…………!」

 常識で考えれば、同性であるとはいえ突飛で失礼な行動に当たるだろう。

 案の上、その少女はビックリして一歩後ずさった。

 一方で美奈子は、この少女の抱えるすべての事情を読み取った。

 名前は霧野祐子。そして彼女の後ろについて歩く女性の正体は——

「祐子ちゃん、気を確かに持って聞いてちょうだい」

 美奈子は祐子の両肩をつかみ、真剣な眼差しを彼女の瞳に注いだ。

「ど、どうして私の名前を?」

 面識のない人間から突然名前を呼ばれて驚いた祐子だったが、その次に美奈子から語られた言葉は、そんなことを気にさせないほどの衝撃的な話だった。

「あなたのお母さん代わりの人の……命が危ないのよ!」

 すでに亡くなっていると分かっていたが、さすがにそれは言えなかった。



「お母さん!」

 木造の平屋建ての引き戸を、祐子は力任せに開ける。

 そして、靴を捨てるように脱いで奥の間に駆けた。

 美奈子も、靴を脱いで後に続いた。

 開け放たれたふすまの向こうには、肌が土気色になって、冷たく横たわる8人の孤児の親、光代。

 8人兄弟の一番上のお姉さんの祐子は、苦労の果てに命を奪われた母の亡骸の前で、床を叩いて泣いた。泣くというよりは、悲鳴を上げていると言ってもよかった。

 祐子は体のあちこちに擦り傷ができるのにも構わず、受け止めきれない苦痛にそこら中を転げまわった。



 美奈子はそっと死体に近付き、薄幸な女性の亡骸の上半身を抱き上げた。

 自分の額を、死体の額とピッタリくっつける。

「…………!」

 この瞬間、光代の一生が美奈子の小さな胸になだれ込んできた。報われずとも、最後まで身寄りのない子どもを愛し尽くしたひとりの女性の生き様に、美奈子の胸は裂けた。

「ぎゃああああああああああああああ」

 美奈子は天井を仰いで吼えた。

 あまりにも、あまりにも理不尽なその生涯——

 どうして、死ななければならなかったのか。

 どうして、こんないい人がこんな残酷な運命に巻き込まれなければならないの!?

 美奈子は死体にしがみつき、まるで自分の母が亡くなったかのように嘆き悲しんだ。



 泣いても泣いても、涙が止まらない。

 そこへ、他の兄弟たちも家に帰ってきた。

 そして、大好きな『お母さん』がもう動かないことを知って、皆泣いた。

 一番末の小さな子は、死というものがよく分からず、必死に美奈子の抱く光代の死体を揺すり続けていた。もしかしたら、また起きるかもしれないと思ったのであろう。



 これも何かの縁だと思って、美奈子は長女の祐子と協力して、葬儀の準備など事務的な手続きに着手した。

 光代の両親は、すでに亡くなっていた。

 親戚達も、孤児を8人も預かるなどした光代にあきれて、親戚づきあいを断っていたらしい。

 協力してくれるどころか、電話すら途中で切られた。

 どうやら彼らにしたら『自業自得』ということらしい。

 何とか、光代がかつて勤めていた養護施設の職員達の協力で、葬儀の手はずを整えることができた。

 そして近所の教会の厚意で、死体を引きとって格安で式を行ってもらえることになった。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 夜になった。

 8人の兄弟と美奈子は、教会の小さな礼拝堂で、棺に安置された死体を前に泣いた。

 長女の祐子と長男の悠馬は、生前に光代が作った子供服や手袋、マフラーの数々を泣きながら見せてくれた。

 今の子は、どちらかというと母の手作りの服など、恥ずかしくて敬遠するだろう。

 きれいな店で売られているような、はやりの服がいいだろうに——

 それでもこの子たちは、本当に光代の思いやりに心から感謝していた。

 美奈子は、祐子たちに低い、そして恐ろしい声で言った。

「ちょっと、私を一人にしてちょうだい」




 誰もいなくなった教会の礼拝堂で、美奈子は光代の死体と向き合った。

 彼女は、ある禁断の技を使おうとしていた。

 かつて彼女は、死霊術(ネクロマンシー)の最終奥義を使ったことがある。

ケイトという名の能力者を生き返らせるために。

 レイズ・デッド……そう、一度死んだ者を生き返らせる、という自然の摂理にまったく反する恐ろしい技だ。生者が下手に使うと、恐ろしい代償を支払わされる可能性があると言われている。

 それでも、美奈子の心に迷いはなかった。

 彼女の頭は、光代を救う以外のことはもう考えられなくなっていたのだ。

 棺に横たわる光代の死体に、そっと右手を置く。

 そして、念を集中させて、体中の気という気をすべて一点に集中させる。

 今回は、死体の状態が前回よりも悪い。ゆえに、レイズ・デッド以上のエネルギーが要る。

 できる。思いがあれば、できないことはない——

 美奈子が覚悟を決めたとたんに、彼女の体の周りを乳白色の光の粒子が飛び交う。

 礼拝堂の中は、まるで昼間でもあるかのような明るい光で満たされた。



「ディバイン・リザレクション!」



 美奈子の目が、真っ赤に燃えた。




 しかし、次の瞬間——

 建物全体が、グラッと揺れた。

 直下型の大地震でも襲ったかのように、教会堂の壁がそして椅子が……ガタガタと揺れた。

 美奈子の頭上に、真っ黒な雲のようなものが一瞬にして広がり、その中からこの世のものとは思えない恐ろしい声が聞こえてきた。



 ……おい、そこの人間。

 お前は今、自分が何をしようとしてるか分かってるのだろうな?



 物理宇宙の法則を破るのだから、次元を超えた何者かに干渉されることは覚悟していた美奈子だった。彼女は、声の主へ冷静に返答した。

「分かってます」

 地響きと建物の揺れが収まった。

 雲のような闇の中に、クワッと見開かれた巨大な『目』が現れた。



 ……我は、冥界を司る者。

 人間よ、我がお前たちに正体をさらすなどということはあってはならないことだ。

 しかし、お前があり得ない力を使ってこのことをしようとするのでー

 仕方なく、二千年ぶりに人間に姿を現したのだぞ。



 ただの女子高生に過ぎなかった美奈子だったが、能力を使っているうちにいつかはこういう存在とも付き合わなければならないだろう、と覚悟はしていた。

「この人を生き返らせるのに、何か問題があるんなら言ってください」

 美奈子は怖気ずくことなく、凛とした声を張り上げた。



 ……定命(じょうみょう)の者は、その寿命を全うすることこそが定められたルールなのだ。

 それに従うことが、この世界の自然界の理(ことわり)なのだ。いくら、理不尽なことがあろうが納得いかなかろうが、だ。

 お前は、それに逆らおうとしているのだ。自分の住まう宇宙の法則に盾突こうとしているのだ。

 どうしてもやると言うなら、宇宙の法則を捻じ曲げることによる『代償』を支払ってもらわねばならん。

 それにお前は以前に一度、死人をよみがえらせているな。

 あの時は、まだ死の瞬間からほとんど時間が経過しておらず、致命傷となった傷のヒールに使う反物理の力も、最小限で済んだ。しかし今度は、死後かなりの時間が経過している。

 ケガなどではなく、かなり体の内部が蝕まれた結果としての必然的な死だ。

 お金を少し借りたら、返済は少しで済む。しかし大金を借りたなら、当然返済も大金——

 私の言ってる意味が、分かるな?



 冥界の使者の声が、礼拝堂を振るわせる。

「それじゃあ、この人を助けるのに私は何を支払わなくちゃいけない?」

 美奈子の質問に答えるように、空中に回転する円盤のようなものが現れた。

 その円盤の外周は、触れるものを切り裂く鋭い刃になっているようだ。



 ……お前の右足をもらおう



 無情にも、冥界からの声は言い放った。



 ……当然、やめたっていいんだぞ。

 それなら私はそのまま、大人しく帰るとしよう。

 もともと、この女はお前にとってはただの他人にすぎぬではないか。

 体の一部を失ってまで助ける価値がどこにあるというのだ?



 足を失う、と聞いてさすがに美奈子はひるんだ。

 でも、ここで何もせずに引き下がる気など毛頭なかった。

 美奈子は、片足を失って過ごす残りの人生を思って、自分のために少しだけ泣いた。

 そして、その後で苦渋の決断を自分に強いた。

 今、強いたという表現を使ったが——

 本当は、心からそうしたいだけなのかもしれない。

「いいわ。さっさと持っていってちょうだい」

 闇は、しばらく声を発さなかった。



 ……な、何だと!?



 三次元時間にして六千年の歳を経た死神だったが、美奈子の答えに驚嘆した。

 美奈子の姿に、やはり二千年ほどまえに美奈子と同じことをし、やはり同じように代償を支払うことを惜しまなかったイエシュアという名の男のことを思い出した。

 彼はそんなに人のために尽くしたのに、最後は周囲の無理解のせいではりつけの刑に処されていた。

 もちろん、人類歴史上には、行った行為だけのことで言えば、美奈子よりもっとすごい人物はいくらでもいる。他人のため、祖国のため、あるいは思想信条のため……体の一部どころか命さえ犠牲にするような人間はごまんといた。

 冥界の使者は考えた。ソイツらとこの二人の違いは、どこにあるのだろう?

 どうして、二千年前の男とこの美奈子だけが、特別に目についたのだろう?

 この二人だけに、死者を蘇らせる能力があった、ということはもちろんある。冥界の使者は、美奈子のいる世界を創造した主人をよく知っている。その主人の設計では、そのような能力を持てる者がでるような可能性を設けていないはずなのだ。

 ……コイツらは、一体何者だ? もしかしたら、人間界の創造主とは別の……いや、もっと上位の存在に関係がある?



 ……本当に、いいと言うんだな?



 念を押すように、冥界の使者の声は美奈子に迫ってくる。

 彼女には今、8人の子どもたちの声が、その悲痛な叫びがその胸に聞こえる。

 生きるに値するものは、生きるべきだ。そして、私にそうさせられる力があるなら、使うべきだ。

 そう結論付けた美奈子の心は決まった。

 次の返答をしたら、もう後戻りはできないだろう。

 美奈子は無言で、首を縦に振った。



 それまで空中を静止していた光る円盤が、急にうなりを上げ、恐ろしい速さで回転しながら美奈子に迫ってきた。

 アッと思う間もなく、美奈子の体はバランスを失った。

 美奈子を支えるべき右足は、スッパリと切断されてすでに主人から離れ、ゴロゴロと音を立てて礼拝堂の椅子に激突した。

 水道の蛇口でもひねったかのように、足の付け根から血が噴き出した。

 仰向けにひっくり返った美奈子は、自らの血の海に寝転んだ。

 彼女のはいていた制服のスカートは、血の紅に染まった。

「いやあああああああああああああああああああああああ」

 ショック状態に陥った美奈子は、自らの絶叫のうちに意識を失った。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 

 


 ……気が付いたか。



 美奈子は、ゆっくりと目を開けた。

 闇が開け、礼拝堂の天井がおぼろげに見えてきた。

 ヨイショッ、と上半身を起こした美奈子は、信じられないものを見た。

 足が、つながっている。

 足を切断された時の血の海も、きれいに消えている。



 ……あれは幻影だ。お前を試したのだ。



 冥界の使者の声は、語り続ける。



 ……人間よ。お前は見上げたものである。

 私は長い時の流れを生きているが、お前のような人間にはそうお目にかかっていない。

 今、お前の願いを聞き届けて、この女の魂を送り返す。

 ただし、さっき言ったように、タダというわけにもいかぬ。

 さすがに足をとることはせぬが、特別にお前の左手の薬指でよしとしよう。



 突然、光代の棺を茜色の光の帯が包んだ。

 柔らかいその光は30秒あまりをかけてまばゆい光になってゆきー

 そしてその後同じだけの時間をかけて、次第に消えていった。



 ……ミナコ、と言ったな。お前のことは覚えておくぞ——



 それっきり、空中の雲は消え去り、声もしなくなった。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 



 目を開けた光代は、ゆっくりと花に覆われた棺の中から起き上がった。

 頭痛がするらしく、こめかみを指で押さえながら美奈子に尋ねる。

「こ、ここは? 私ったら、どうしちゃったのかしら?」

 止まらない涙を袖で拭き取りながら、美奈子は光代を見て、ニッコリと笑った。

「おかえりなさい」



 祐子を始めとする子どもたちは、それこそ気も狂わんばかりに喜んだ。

 このあり得ない奇跡は、その後周囲の世界に様々な波紋を呼ぶことになるが、この物語でそれを描くことはさして重要ではないと思われるので、割愛する。

 美奈子は冥界の使者が言ったように、その日を境に左手の薬指が石のように固まってしまった。

 もはや土気色に変色し、まったく動かなくなった。

 指を失うというのは文字通りなくなるということではなく、『機能を失う』ということだったようだ。多少の不便はあったが、それで死すべき命が生き、8人の孤児たちが救われたのを思うとうれしかった。

 美奈子は時々、暇を見つけては光代の家に行って裁縫を学び、手伝った。

 子ども達に勉強を教えたり、一緒に遊んだりもするようになった。



 辛いことや泣きたいことがあった時。

 美奈子はもう動くことのない左手の薬指をじっと見つめるようになった。

 すると涙がひいてゆき、自然に笑顔がこぼれるのだ。


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