第7話
『なあ、寒くないの?』
『寒い。でも助手席はイヤだ』
『さすがに車で襲ったりしないって』
『そういうこと言うヤツの隣に座りたくない』
昼間、基を助手席に乗せて走った道を、理は環の軽トラの荷台で毛布に包まって戻っていた。
「ばば様。理と年越しがしたいので、蕎麦食べ終わったら借りていっていいですか?」
基を神納家まで送ってきた環は、理の祖母、紅葉にそう言って理を拉致する許可を求めた。理が反論する間もなく紅葉は了承してしまい、なんとか逃げ果せようと画策した理の努力も虚しく、日付が変わるまであと数時間の真っ暗な山道を連行されている。
蕎麦を食べている間、実家以外で年越しをしたことがないからしてみたいというふざけた理由でこの犯行に至ったと語ったのは基だ。呆れて言葉も出なかったし、人選に頭痛がしたし、それを放って理の実家で美味しくごはんをいただいてるから頑張れ!と数時間前に親友だなんだとほざいていたとは思えないことを言った基が恨めしかった。
頑なに助手席に乗りたがらない理に、じゃあ荷台でいいから毛布被って電話で話してと言ったのは環だ。どうして環がそこまでして理を連れ出したがるのか、分かるような、分かりたくないような複雑な気持ちで理は荷台に乗り込んだ。
こっそりと背後の窓を覗き見れば、スピーカーモードで朝飯用にってもらった弁当楽しみだねなどと呑気にのたまう環の後頭部が見える。
軽トラの荷台から見える環の後頭部と耳と顎のラインは、十年前と変わらない。理はトクンと心臓が跳ねたのを無視して正面を向いた。
年末だから、こんな時間でもまだいくつか残っている民家の明かりが遠くに見える。それすらも見えなくなって、山道を登り始めた頃、ふと軽トラが止まった。窓が開く音がして、うわ、さっむ!と環が叫ぶ。
「なあ、電話切った?」
「あ?」
シートベルトも外して荷台まで顔を覗かせて環が問う。考え事をしていて話はろくに聞いていなかったが、さすがに通話は切っていない。
手元の携帯を見ると確かに通話は切れていて、ついでに圏外表示が出ていた。
「山道入ったから電波こなくなったんだろ」
「理んちはちゃんと電波くるじゃん」
「あんな小屋で電波なかったら流石になんかあった時危ないだろ、元々ばば様のだし。仕事もするから家にはアンテナとか色々あんだよ」
「ふーん」
拗ねたような声を出して、環は頭を引っ込めた。軽トラが再び山道を登り始める。
息が白い。ため息の先まで視線で追えば、木々の間から満天の星空が見えた。大学に行くために家を出た妹は、帰ってくる度に空が広い、夜空が明るいとはしゃぐ。そんなものだろうか。
比較対象がない理にとって、観光客が絶賛する空もいつもの空だ。いくら広かろうが、星が多かろうが、何をしてくれるでもない。ただただ、自分の小ささを教えてくれるだけだった。
軽トラが止まる。気付けばもう三日は帰らない予定だった我が家に着いていた。エンジン音が止み、尻の下の振動も止まった。毛布を剥いだらこれ以上に寒いことがわかりきっていて、家には入りたいが動きたくない。
バン、とドアの開閉音が響き、環が助手席側から顔を出した。
「おいで」
降りるのに手を貸そう、と差し出された手を数秒眺めた理は、黙って毛布から抜け出し、運転席側から一人で降りた。ジーパンのポケットから鍵を出しながら玄関に向かう。ついてくる環の気配を警戒しながら慣れた手付きで開錠し、近付き過ぎる前に室内に入って距離を取る。
基は理を猫のようだと言うし、環も同感だと思うが、今日はハムスターか何かかと思いながらその背を追った。ハムスターを狙う猫の気分なのかもしれない。
「ストーブ付けて」
「うん。あ、お茶入れるならおれアレがいい」
「は?牛乳ねえし」
「ばば様がくれたよ?」
「マジか……」
環が掲げた見覚えのある柄の風呂敷に、理は片手で顔を覆った。カウンターまで運ばれたそれを受け取り、風呂敷を広げると牛乳が入った瓶が顔を出し、みかんがころころと躍り出る。
いくら県の特産の一つだからといって他に選択肢はないのかと、理は毎年一度は思うことを今年もまた思うのだった。
「みかん食うか?」
「え、いい……基に付き合って食べ過ぎたからしばらくみかんいらない」
「基に付き合うって馬鹿かおまえ……」
「箱みかん半分になったよ」
「みかん食いに来たのかあいつ」
「向こうはみかん作ってないからなー。いつだっけ、冬に来たら一箱分は食べ貯めるつもりでいるとか言ってた気がする」
「腐るよりいいけどよ……うちにいたら二箱分くらいいくんじゃないか?」
牛乳を入れた鍋を火にかけて、茶葉を出そうと棚に手を伸ばした時、視線を感じて振り向くとカウンターに肘をついた環が理を見ていた。急に居た堪れなくなり、眉間と口元にしわを寄せて表情を隠すように作業台に向かう。
「せっかく二人っきりなのに、他の男の話続ける?」
「妙な言い回ししないでくれる?」
「眉間のしわ取れなくなっちゃうよ?」
「もう諦めてる」
「諦めるには早いだろ。な、笑ってみ?」
「俺、おまえの遊びに付き合うために拉致られたの?」
「遊びじゃないよ。真剣に口説いてんの」
「おまえが俺を口説くことのどこが遊びじゃないんだ」
沸騰直前の牛乳に茶葉が舞い、ふわりと香りが立つ。じわりと茶葉が開いて琥珀に染まり始める鍋の中を睨むように見つめながら、理は自分の心が閉じていくのを感じていた。
暖まりきらない部屋の冷たい空気が肺を刺す。息がし難い。閉じていく心が悲鳴を上げているようだ。
そんな理の後ろ姿を、環は黙って見ていた。理は気持ちを素直に吐き出さない。考え過ぎて、傷付けないようにと選んだ言葉が人を傷つけることが間々あった。
それに気付く度に理の心が萎縮していくようで、環は意識して気にしていない風を装ってきた。環だけは、何を言っても離れたりしないと知っていてほしかった。
――それが、いけなかったのかな。
環にとって、理は大事な幼なじみで、兄弟のように育った親友で、愛おしい人だ。けれど、今回ばかりは、環も理を甘やかしてやれない。真意を言葉にしてもらわなければ引き下がれない。
たとえそれで理を泣かせることになっても。
「おれが嫌いとかキモチワルイとかは分かるんだけどさ、おれの気持ち否定すんのはどうなの?」
「……キモチワルイなんて、言ってないだろ」
「でも、おれがしたこともすることもなかったことにするじゃん」
ガチャン、と音を立てて理がコンロの火を止めた。聞きたくないという意思表示のようだ。
駄々をこねる子どものようだと、理は内心自分を嗤っていた。
守りたかったものがあったのに、それは理が理のままでは守れないものだった。だからずっと偽り続けて、自分自身さえ騙し続けて、ちゃんと忘れていたのに。
「微妙に距離置いて、オレのことめちゃくちゃ気にしてんのは分かるけど、どうやってなかったことにしようって考えてんじゃないの?ハッキリ言われるより結構クんだけど」
沈黙は肯定だ。
黙ったまま、理は鍋からマグカップへミルクティーを移す。二人分のそれへそれぞれひと匙ハチミツを入れて混ぜながら、理は基の言葉を思い出していた。
なあ、本当に変わらないものなんてあるのかな。俺は怖くて仕方ないよ。大切な人を失うのが怖くて、傷付けるしかできない自分が大嫌いだ。
マグカップを握ると、冷え切った指先にじわりと熱が伝わってしびれるようだった。ゆっくりと振り返り、一つを差し出す。
「おまえはひどいヤツだな。ずっと隠して、忘れようとしてたのに。人が必死で守ってたつもりのものを、暴いて否定して楽しいかよ」
「理?」
カウンターに二人分のマグカップを置いた理は、目の前にあった環の胸ぐらを掴んで引き寄せた。至近距離で見つめた先、環の目の中の自分はただ不安に揺れる子どものような顔をしている。
「なんで!」
半ば自棄になって、理は叫んでいた。身体中で叫んだ拍子に溢れそうになるものを必死に抑えつけて、懸命に呼吸を繰り返して、絞り出すように言葉を吐く。
「おまえは、普通に生きられるのに――なんで、俺なんだよ……!」
二十六年傍で生きて、初めて知る理の表情と、声と、ぶつけられる心に、環の心臓がドクンと脈打った。
衝動のまま伸ばされた環の手を拒絶するように、理の言葉が環を殴る。
「俺で遊ぶのは、もう勘弁してくれ。頼むから、これ以上踏み込んで来んな」
理の頬に触れそうだった環の左手が固まる。あと数センチの所に見えない壁があるようだ。
それは理が子供の頃から築いて、誰にも見えないように、悟られないように守ってきた壁だった。理自身の心と、相手を傷つけないための悲しい砦だ。
友達なら、ずっと近くにいられると思っていた。友達でいるための距離だった。いつだって、壁も距離も軽く飛び越えて来る環が怖かった。
顔を上げていられずに、理は項垂れる。環の胸ぐらを掴んでいた手は、縋るように震えていた。
「……理。顔上げて」
「触んなって!……ん、ぅ!?」
環の手を振り払おうとした理の手を抑え込んで、環は理に口付けた。パニックになった理の抵抗が止むまで、角度を変えて食むように薄い唇に触れる。舐めてやると、ビクリと体を震わせて大人しくなった。
全身を緊張させて、嵐が去るのを待っているようだ。引き結ばれた唇が痛々しい。
「……ねえ、いやだった?きもちわるい?」
息が触れる距離で聞いても、理はうっすらと目を開けるだけだ。やり過ぎたか、と少しだけ離れると、首まで真っ赤になっているのが見えた。
「……――くるしい」
その赤だけでも、目の毒だったのに。小さく漏らされた理の声と、涙の膜が張った目に睨まれて、環の中で何かが切れた。
「――カウンター邪魔。ベッド行こう。ベッド」
「……は、あ!?」
カウンターに置かれた二つのマグカップからくゆる湯気に見送られて、理は環に引きずられるように階段を上った。理がやっとの思いで叫んだ待ても止めろも聞いちゃいない。
二階の右手奥の理の寝室に辿り着く直前、理が目にしたのは環の赤く染まった首と耳だった。
「な、なんでおまえがあか、う、わぁっ!」
バタンと扉が閉まったかと思うと、理は部屋に入った勢いのままベッドに放り出された。状況を理解する間もなく、ジャッとカーテンが開けられて星明かりで室内がうっすらと照らされる。
窓辺で振り向いた環は逆光の中で微笑んでいて、理はその今まで見たことがないくらい優しい目に呑まれてしまった。逃げるなら最後のチャンスだったのだと理解した時には、環の長い腕に抱きしめられている。
どうして、泣きたくなるのだろう。
悲しいではなく嬉しいと、凍てついた心が融けていくようにじんじんと、内に秘めていた熱を思い出す。
駄目だ、環は普通に生きるのだから、手を伸ばしてはいけない。そう思うのに、理は寄せられる唇を拒めない。自己嫌悪で吐いたことさえあるのに、触れられるという現実は甘美で、もっとと求めてしまいそうになる。
腰を抱き、頬を撫でる環の手に縋りそうになる体を必死で押しとどめて、腰かけた布団を握りしめた。ぎゅっと目を閉じて、口を引き結んで、夢が覚めるのを待つ。
傍にいる未来を捨てられずにずっと諦めていたものを目の前にして、理は向こう岸のない一本橋を渡っている気分だった。
「っ⁉な、なん!んぅう⁉︎」
いきなり服越しに性器を掴まれた理が悲鳴を上げる。悲鳴を上げたことで開いた理の口に、環はすかさず舌を入れた。歯列をなぞり、舌先を突いて、どうにか逃げようとする理の舌を追いかける。
少しずつ深くなる口付けに喘ぐ理の声を吞み込むように、環はキスを続けてやわやわと理の一物を撫でた。反応しかけていたものが、徐々に意識して立ち上がり始める。
「あ、ぅ……ん、んぅ……!」
固く閉ざされた唇を開かせるために少し驚かせたいだけだったが、効果は環の想定以上だった。
口を閉ざす隙を与えずに口内を味わえば、応えはなくても小さな嬌声が漏れた。舌が絡まる度に肩が震え、布団を握りしめていた手はいつの間にか下肢に触れる手を止めさせようとして失敗したかのように環の腕に添えられて小さく震えている。
手の中の性器は萎えることもなく、服越しの刺激がもどかしいのか、時折自ら擦り付けようとしては怖気付くように動きを止める。初々しい反応が環を煽った。
飲み込みきれなかった唾液が理の口から溢れて顎を伝うのと同じ速度でベッドへ押し倒す。
「悪いけど、このまま抱くよ。風呂はあとで入れてやるから我慢して」
「な……おま、言ってる意味わかってんのか⁉俺は」
「男とか女とかどうでもいいから。おれは理がかわいい」
星明かりの薄闇の中でさえ、理の顔が朱にそまっているのがよく見えた。素直じゃない理の言葉はアテにならない。この反応が答えだ。
三度口付け、手の中でドクンと息づいた理をもう一撫でしてベルトに手をかける。
「やめろ、マジ……ぅ、ん……た、まき……ヤダ……て、っあ!」
弱々しく手首を掴んだり、じたばたと言うにも大人しい動きで足を動かしたりして抵抗する理が、キスの合間に往生際悪く中断を請う。
口付けて服越しに少しさわっただけでこれだけ反応して見せて、聞いたこともない鼻にかかった艶っぽい声を出しているくせによく言う、と環は全く取り合わない。
ベルトを外して前をくつろげ、右手でズボンをずり下げて左手をシャツの下の素肌へ忍ばせた時、理が初めて環に手を伸ばした。
「こわい」
「……⁉」
理の手は環の首に巻きつき、虚を突かれて動きの止まった環にぎゅうと抱きつく。
耳元に小さく小さく落とされた、二十年近く理の口から聞くことのなかった単語に環の思考がパニックを起こした。先ほどまでの勢いはどこにいったのか、小さく震えながら環にしがみつく理を前にして体が動かない。
頬に感じる理の体温が熱い。見えないけれど、きっと身体中まっかになっているだろう。
耳のすぐ傍でドクドクと脈打っているのがわかって、同時に自分の鼓動の速さも自覚した。柄にもなく緊張している。
動かない環の身体に、理は別の恐怖を抱いて腕に力を込めた。
触れられるのは怖い。けれど、やっぱり無理と拒絶されたらきっと耐えられない。
どうしたらいい。どうしてこんなことに。
恐怖や不安や戸惑いが、触れたところから伝わって混ざって溶けていく。許容量を超えて今にも泣き出しそうな理を抱きしめて、環は腹に力を込めて体を起こす。
「っ!……まき?」
ぐい、と引っ張られるように態勢が変わった。環の膝に中途半端に乗り上げて向かい合い、ぱちくりと瞬いて惚けている理に、環が微笑んだ。
「覆いかぶさってんのが怖いのかと思って。どう?」
「そ、そういうことじゃ」
「心配しなくてもいきなりツっこんだりしないよ?一応調べたし」
「しら……!?」
「当たり前だろ。理傷つけたらどーすんの」
環に微笑まれて、知らず弛緩していた理の瞳が凍り付いた。続けられた言葉は届いていないのか、俯いてしまった理の顔を環が覗き込む。
寄せられた眉間の皺と歪んだ口元が面白くない。どうしてそんな後悔しているような顔をする。それは何に対する後悔だ。
「心配しなくても、ほら、ちゃんとゴムもローションも買ってきたし」
「……は、え?――なんてとこになんつーもん入れてんだおまえ⁉」
腕を通したままだったジャケットのポケットから出された包装のままのそれらに、理が顔を上げた。至近距離で、しばらくぶりに視線が絡む。
驚きで眉間の皺が消えたことに満足した環がふわと笑えば、理はすぐさま顔ごと視線を逸らした。首に回されたままの腕の先、首の後ろでジャケットの襟が握り込まれる。
見当違いの後悔よりも、羞恥に震える方がずっといい。先ほど触れた熱と速い鼓動を思い出す。
優しくしてやりたい。でもきっと、ただ艶めいた空気だけでは要らない不安に呑まれてしまう。
「なに、もしかして調べようとしてゲイビ見て怖じ気づいたとかそんな」
だったら、いつも通りに軽口を叩いてぎゃーぎゃー騒ぎながら互いの体温を確かめればいい。傍にいる。大切に想っている。言わなくても解ることはたくさんある。
子どもっぽい挑発にムキになって反論すると、思っていた。
「…………」
「マジか」
「む、昔の話だ!つかこんなもん書面の知識で充分、だろ……」
まさか冗談のつもりが図星をついて黙らせることになるとは思わなかった。
「え、でも魔法使いじゃなイタイ!」
「ンなわけあるか!俺だって経験、くらい……」
いくら浮ついた噂一つなかったとしても、一番傍にいた自分も知らない何かくらいあっておかしくない年齢だと思っていた環は、恐らく悪くない。悪くはないが、事実は頭突きという実力行使で黙らせねば理の理性が保てないものだった。
額の鈍痛を耐えて顔を上げた先で環が見たのは、自分の体を抱いて小さくなっている理の姿で、無意識に腕の付け根を掴んで顔を上げさせていた。驚きに見開かれた目は焦点が定まらずに揺れている。
「顔青いんだけど」
「こ、んな暗いのに顔色なんて」
「暗くてもわかるくらいひどい顔してる」
「……」
環は自分の声が低くなっていくのを認識していた。理の不安を煽ってしまっているのが解ったが、拘束から逃れようと身じろいだ体を放すつもりは毛頭なかった。
「理。話終わるまでなんもしないから顔見て話して」
理が怯える姿など、そう拝めるものではない。環は、はらわたが煮えくり返る、という表現をもう少しで体感できそうだと思った。
自分の知らない何かが理に深い傷を負わせた事実が、どうしようもなく不快で面白くない。
「……黙秘」
「この状況でそんなん許すと思ってんの?口だと適当に誤摩化すだろ。顔見ないと本当かどうかわかんないからちゃんと見せて」
「いやだ」
「理。そんな怖がんなくてもキライになったりしないよ。怒ってもない」
「それは嘘だ」
「本当だよ。何に怒るかは話聞いてから決める」
「怒ってんじゃねーか!」
「おれの機嫌の取り方は理が一番よく知ってるだろ。お茶いれる時間くらいは我慢できるよ」
「そんなおっかねー顔してるヤツの話信じられるか」
「身体で宥めてくれてもいいんだよ?」
環をまっすぐに見られない理が曝している首筋を舐め上げる。理はビクリと震えて身を引くが、環は逃がさず耳の後ろに音を出して口付け、耳たぶを食む。
終いには耳の穴に舌を入れられそうになって、理は白旗を上げた。力一杯腕を伸ばして距離をとる。
「あ、アレだ……その、ちょっと……襲われかけたことが」
若気の至りだ。そんな一言で片付けられるほど軽いトラウマではなかったが、他に言いようもなかった。
二十歳になって間もない頃だ。高校を出て実家の工房で修行する日々は充実していたが、毎日のように隣にいた環に会う頻度が激減したことに慣れてしまったことに魔が差した。
認めたくなくても、寂しかったのかもしれない。
地元ではすぐに噂になってしまうから、他県に行く用事があった時に繁華街へ足を伸ばした。飲み慣れない酒を飲んで、フラフラになって、知らない男に押し倒された時、それが環でない事実に思考が絶望と恐怖に染まった。半狂乱になって暴れて逃げて、独り、駅のトイレに籠って泣いた。
環じゃなきゃ嫌だと思った自分が嫌悪を通り越して哀れになり、嘲笑と涙が止まらなかった。
なるべく思い出したくない過去であるし、一生環にも他の誰にも話す気はない。ないが、うつむいて見えない位置にある環の顔が恐ろしく綺麗に笑った気配に、理は総毛立つ。
「……へえ?」
「だからその顔コワイって!未遂だ!殴って逃げた!」
誰にも言わず墓まで持っていくという決意が粉砕されるイメージを必死に振り払う。本当に、これ以上言う気はない。
言いたくないし、言ったら言ったでその後の環の行動など想像もしたくなかった。環は執着するものこそ少ないが、大事なものに対する支配欲が強い。庇護下も置いたものに害を加えようとするものは徹底的なまでに排除する。
「言わないって決めてるなら、死ぬまで言わないでね。おれも犯罪者にはなりたくないし」
ひどく面白くなさそうに言って、環は理の頬に手を添えて額を合わせた。親指で下唇を撫でられて、自然と理の瞼が降りる。
人生で、一番優しくてあたたかなキスをした。触れて、食んで、少しずつ深く、心を交換するように口付けた。
キスも、体を他人の手が撫で回すのも、本当に環なら嫌だと思わないんだなと、理は改めて自分の単純さを嗤った。
いくら蓋をして、鍵をかけて、見ないフリをしても無意味だった。好きな人に触れられてしまえば、凍てついたと思っていた心も簡単に熱を持って溢れだす。
隠すことも棄てることもできないと、抱えていくしかないんだと気付いて開き直ってしまえば、少しだけ息苦しさが軽くなった気がした。
こうして甘く優しいキスをして、一時だけでも環が共に抱えてくれるなら、きっと大丈夫。
「……まき。もう、いいよ」
「理?」
「もう逃げても無駄なのは解った。……ちゃんと抱いてほしいから、準備してくる。ちょっと、待ってて」
ドキドキと心臓がうるさい。声は震えていたかもしれない。
それでも、環が嬉しそうにうんと頷くのを見て、理は幸せだと思った。
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