喫茶「花田屋」へようこそ!

時津彼方

喫茶「花田屋」へようこそ!

第1章 喫茶「花田屋」へようこそ!

第1話 ひとだすけ ー 花田由美

「由美ー、暗くなってきたからカーテン閉めといてよね」


 廊下から母の声がする。


「はーい」


 私は目処がついたら閉めようと思い、絵を描き続けた。


「閉めたー?」


 母の声が再び廊下にこだました。


「はいはい閉めた閉めたー」


 私は適当に返してからペンを置き、窓辺まで歩いた。

 ここは私の自室だ。とはいえ、タンスと机とベッドがパズルのように敷き詰められて、床は猫の額ほどの面積だ。壁には数個のカバンとアウターがかけられていたのと、小学生の頃に描いた絵が飾ってあった。壁掛時計はもう六時を指していた。

 カーテンに手をかけた時、窓の外の風景が見えた。生まれたときからずっと見てきた景色が広がっていた。とはいえ見えるのは、隣のアパートと、それと自分の家の間の路地と、その路地の入り口から見える家の前の道路だ。別に、きれいな朝日やしっとりする夕日が見えるわけでもない。そもそも私の窓は北向きだ。大海原やお花畑が見えるわけでもない。いや、そんなこと考える私の頭の中がお花畑か。


「日が短くなってきたな……ん?」


 路地にキョロキョロしている人影が見えた。私と同じ、高校生のようだ。どうやら誰かを尋ねに来たのだが、どの部屋に住んでいるのかわからないのだろう。手元を見てはアパートを見て、を繰り返して首を傾げている。今どき悩むときに本当に首を傾げる人がいるのだろうか。

 私はカーテンを閉め、壁にかけたアウターを一つとって、階段を下りた。


「お母さん、ちょっと外行ってくる」


「こんな時間に?」


「こんな時間に。大丈夫、家の周りだけだから」


 行ってらっしゃいの声に押され、私は外に出た。

 すれ違った渇いた空気は、私の首筋をそっと撫でた。


***


「あのー」


「あ、ええと。頼まれごとで……え、花田さん?」


 路地にいたのは、同じクラスの男子だった。


「倉田くんじゃん。どしたのー?」


「花田さんこそ、どうしてここに?」


「私の家、ここだからね。私の部屋があそこで、カーテン閉めるときにここの路地が見えて、困ったそうだったから」


 私は指さした窓を見て、カーテンは閉めたものの窓を開けっぱなしにしていたことに気づいた。彼は少し気にしているようだったけど、あとで閉めておくから、と言って話を戻した。


「で、何したらいいの? 力仕事なら無理だけど」


「えーと、この人を探してて」


 メモ用紙を見ると、彼の叔母さんの家がここの近くにいるらしい。どうやらおつかいを頼まれたようだ。


「ここに来るのは初めてなの?」


「何回か通りかかったことがあるぐらいで、ほとんど知らない。このアパートってことはわかったけど、どこがおばさんの部屋なのかわからなくて」


「ここのアパートの表札は、ちょっと特殊なところにあってね……」


と、私がアパートの中に入ろうとすると、彼は遠慮がちに「いや、悪いよ。がんばって探すから」と言った。私はそれを


「いいんだよ、遠慮しなくても。私も好きでここまで来てるんだから」


と言葉で制し、一階の一番道路に近いところの部屋の前に立った。そして、ドアノブに手をかけた。


「ごめんくださーい」


「え、勝手に入ってだいじょ……あれ、誰もいない」


 ドアを開け、すぐ横のスイッチを押すと、鉄のさびた匂いと小さな仕事場に迎えられた。すべての家具が鉄製で、天井にぶら下がっているのは、珍しくなった蛍光灯だ。


「ここね、アパートの大家さんの仕事スペースなの。で、あそこにたくさん札がかかってるでしょ? あれに載ってる名前と部屋番を見て、部屋を訪ねるの」


「めんどくさっ」


「仕方ないよ。ここのアパートの方針だもん」


 それでもアパートの部屋番すら書いていないメモ書きは、何の意味があったのか、いささか疑問に思った。


「えーと……あった。二階の、一番奥の部屋」


「あ、ありがとう。じゃあ行ってくる」


「いってらっしゃい」


 私は手を振る彼を見送った。電気を消して外に出ると、長い夜に迎えられた。


***


 ごめんくださーい、と半ばよそよそしく家に入ると、ほのかにコーヒーの匂いがした。


「さっきもだけど、勝手口から入ってきてよ」


 母がカウンターから注意を飛ばしてきたが、コーヒーを引く音にほとんどかき消されていて、聞き取るのに精いっぱいだった。


「いいじゃん。もうこの時間じゃ誰も来ないでしょ」


 私は大声で返した。

 私の家は喫茶店を経営している。カウンターの奥のドアを開けると、一般的な二階建ての家につながっている。なので、私の家の敷地は少し大きいからお金持ちに思われがちだ。でも、私はそんなに裕福な生活をさせてもらえない。今後の貯金とかを考えたらそれが普通らしい。


「あ、今からちょっと外にいってくるから。砂糖のストック切らしちゃって」


「わかった」


「あとコーヒー豆も追加で買ってこないといけないから、一時間ぐらい、店番よろしく」


と、私の母はそそくさと店の入り口から出ていった。


「どの口が言ってんだか。てかコーヒー放置すんなし」


 私は倉庫からとってきたエプロンをつけ、コーヒーミルの取っ手を回しながら、スマホを眺めた。


『今週末遊ぼー』


 友達からのチャットだ。


『いいよ。駅に何時に集合?』と送ったところで店のドアが開いて、上に取り付けていた鈴がチリーンと鳴った。私は慌ててスマホをエプロンのポッケに突っ込んで、「いらっしゃいませー」とよそ行きの作った声で返し、入り口を見た。


「えーと、どうも」


 倉田くんがかごいっぱいのりんごを持って立っていた。

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