第2話 縮まらない距離(主にだれかのせいで)
それから僕は放課後の図書室でカコとちょくちょく出くわすようになった。
僕が図書室に行くと、いつも指を差しながら書架に並んだ本の背表紙を眺めているカコの姿がある。もしかしたら、今までもただ気づかなかっただけで、僕らは意外とすれ違っていたのかもしれない。
カコは僕が話しかけると決まってちょっとびっくりしたような顔をして、それから少しうつむく。顔にかかった艶やかな黒髪を耳にかけ、そして上目遣いで「こんにちは、鈴木くん」と、消え入りそうな声で恥ずかし気に答えるまでがワンセット。
それでも、少しずつ変化はある。
今日は「こんにちは、鈴木くん」のあとに、はにかむような笑顔を見せてくれた。目下の目標は「霞さん」「鈴木くん」という呼び方を「カコ」「イチロー」に変えること。リア充な連中は最初っからこれができるからずるいよな。定木のようにリア充じゃないのにやるヤツもいるけど。
カコはものすごい読書家なんだと思っていたけど、そうじゃなくって、僕が読んだ本ばかりを探して読んでいるようだった。変な本率が高くてなんだか申し訳ない。そう言うと、カコは「別に変な本でも、面白くなくてもいいの」と慌てたように言った。
「だって、その本の話ができるのは鈴木くんと私だけだから」
「えっ……それってどういう意味……」
「あっ、ううん、違うの。その、誰も知らない本だけど、私たちだけが――私たちは知ってるから、見つけてあげられて良かったんじゃないかな、て」
カコはしどろもどろに答える。なんだか言ってることが矛盾しているような気がする。僕らだけが知ってるよりみんなに知ってもらった方がいいんじゃないかと思うけれど、あたふたしているカコの様子を見るとなんだか気の毒になって突っ込めなかった。
「ねえ、霞さんが見つけた本も教えてよ。僕もそれを読んでみたい」
「え? どうして?」
カコはきょとんとして訊き返す。
「だってさ、僕も霞さんがどんな本読むのか知りたいし」
「どうしてそんなことを知りたいの?」
「どうしてって……」
僕は言葉に窮した。そんなにおかしなことかな。普通のことだと思うけど、面と向かって訊かれるとちょっと気恥ずかしい。
「そりゃあ、霞さんのこと、もっと知りたいじゃん? せっかく、知り合……友達になったんだし」
「私は……私のことは鈴木くんには、あんまり知られたくない」
ぐはっ。
予想外の返答が直球で返ってきた。しかもビーンボールなみの危険球で。
なんでそこまで言われるの、僕。
「それに……私、本は読まないもの。あっ、鈴木くんが読んだ本は別よ」
「へ、へぇ……そうなんだ」
カコは恥ずかしそうに微笑む。その、子犬を思わせるような笑顔に僕はすっかり訳が分からなくなってしまった。どう見ても好意がありそうじゃないか。なのに、どうしてあんなことを言ったんだろう。
ひょっとして聞き間違いかな。
「鈴木くん?」
目の前にはカコが小首を傾げて僕の顔を覗き込んでいた。
やっぱりさっきのはなんかの間違いだ。僕は思いきって言ってみる。
「あーえーっと、その、霞さんのこと、カコって呼んでもいいかな? 霞さんも僕のこと……」
そのときだった。突然、本が雪崩のように僕の頭上に落ちてきた。
「うわっ」
「だ、大丈夫鈴木くん」
「どうしたの?」
音を聞きつけて司書の先生がやってきた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「ええ、大丈夫です」
「あら……棚板が外れてるわね。それほどの重さがあるとは思えないけど……取り付けが甘かったのかしら」
先生が首をひねる。ちょっとびっくりはしたけれど、本が降ってきたくらいじゃ怪我もしない。カコは僕が無事なことを確認すると、ふぅ、と安堵の息をついて訊いた。
「鈴木くん、ちょっと聞き取れなかったんだけど、さっきなんて言ったの?」
「……なんでもないよ」
気勢を削がれた僕はそう言うしかなかった。
*
完全下校時刻が近づき、僕はカコと一緒に図書室を出た。
さっきはつい有耶無耶にしちゃったけど、このまま一緒に下校、これならいける。いけるぞ。入学してから女の子と一緒に帰ることなんて一度もなかったけれど、これは自然な流れだ。
定木に言われるまで気にしたこともなかったけれど、確かにあいつの言うとおりカコの顔はすごく整っている。ちょっとばかり黒髪ストレートが重たく野暮ったい感じはあるけれども、素材はクラス一というのも納得だ。
それに、いろいろ話してみると、段々カコが可愛く思えてきた。何考えてるかわかんないところはあるけれど、恥ずかしがったり、小動物を思わせる仕草も愛らしい。
それに、僕の読んだ本ばかり読むなんて、これは僕に好意を持っているとしか思えない。少なくとも、興味は持っているはずだ。
ただ、引っかかるのはあの言葉。
――私は……鈴木くんには私のこと、あんまり知られたくない。
やっぱり、あれはなんかの間違いだろう。そうじゃなかったら、コンプレックスとか、知られたくない秘密……性癖とか? があるってことかもしれない。
性癖、性癖かぁ。女子高生が隠したがる性癖ってなんだ?
ああ、そうか。腐女子って言うんだっけ? 男子高校生の股間の成長譚である『転スク』とか日常系ほのぼのBL『量子力学ボーイ』を読むくらいだし、ありえそうな気がしてきた。
でも、それくらいどうってことないんじゃないか? 潔癖で婚前交渉なんか考えらえません、っていうお堅い女の子より、それくらい奔放な方が付き合って楽しいような気がする。
でも、腐女子がどうして僕に興味を持つんだ?
あれ? まさか?
まさか、僕と定木をカップリングしてたりしないよね? 定木を振ったのは、僕と定木を妄想の中であんなこんなしてるから、て話じゃないよね?
僕は思わずぶるっと身震いする。
「あの、さ、霞さん」
「な、なに?」
教室に戻る渡り廊下で、僕は隣を歩くカコに恐る恐る訊く。カコは焦ったように答えると、ぎこちなく僕の方を振り返った。緊張しているのか、顔が赤い。
「BL好きなの?」
「びー……える?」
初めて聞く単語であるかのように訊き返すカコ。
「ボーイズ・ラブ。ほら、『量子力学ボーイ』の帯にも書いてあったでしょ。男の子同士の恋愛」
「ああ、BLってそういう意味なんだ……。ごめんなさい、その……興味は……ないかも」
「いやいや謝らなくっていいから。むしろありがとう」
カコは不思議そうに小首をかしげる。
いい感じ……かどうかはわからないけれど、僕らは自然と話しながら廊下を歩いていく。
いいぞ。
この流れで話を続けながら教室に戻り、鞄を取ってそのまま学校を出るだけ、それだけだ。それだけで、気が付いたらいつの間にか一緒に下校しているという寸法だ。渡り廊下を渡り切り、そのまままっすぐ行くと昇降口に続く階段がある。左に折れると僕らの教室だ。
「遅いよー、カコ」
そこには茶髪のギャル、三浦ミクがいた。足元には二人分の鞄。
「もう遅いからカコの鞄持ってきといたよ」
「ありがと、ミク。じゃね、鈴木くん。また明日」
「あ、うん。また明日。三浦さんも」
突然のアクシデントに、僕はむなしく二人を見送ることしかできなかった。
二人は僕に笑顔を向けて階段を下りていった。ミクの笑顔は勝ち誇ったもののように見えたけど、きっと気のせいだろう。
僕はため息をついて左に折れた。
*
翌日。
「よしっ」
僕は昨日果たせなかったミッションを、今日こそ完遂するつもりで気合いを入れた。
一つ、互いに「カコ」「イチロー」と呼び合うこと。
一つ、一緒に下校すること。
昨日はどちらも直前になって邪魔が入ったけれど、状況は決して悪くない。僕にとってラッキーだったことは、どちらも僕のアプローチがカコに認識されていないということだ。提案して却下されたんだったら、昨日の今日はさすがに性急すぎる。
ホームルームが終わり、クラスメイトたちが三々五々席を立つ。僕はカコが図書室のある中央棟に向かったのを見て、廊下に出た。
「イチロー」
僕を呼び止める声に振り返ると、ミクがいた。ギャル巻きのミディアムボブを揺らして駆け寄ってくる。渾名呼びなんて、コミュ強は平気で距離縮めてくるよな。友達かと勘違いしちゃうじゃないか。
「なに?」
「あんたのこと、さっき先生が探してたよ」
「僕を? なんだろ」
「さあ。なんだか急いでたみたいだったから、さっさと行った方がいいんじゃない?」
「そっか。ありがと」
意外に親切なんだな。なんかギャルって肉食っぽいし、話しかけても「ああン? あーし、今忙しいんだけどー」とか言いながら髪を巻いているような怖いイメージがあったんだよな。僕は少しばかり持っていた偏見を反省した。
踵を返して職員室に向かう。
担任は職員室にはいなかった。隣席の先生に訊ねると「弓道部の部活に行ったんじゃないかな」ということだった。
僕は仕方なく、弓道場に向かう。なんかもう明日でもいいんじゃないかという気もするけど、「ああン? あーしが言ったのに行かなかったって、どういうことだよ」ってミクに言われそうな気がする。そもそもギャルって怖いんだよ。肉食っぽいし。
でも、結局のところ担任が僕を呼んだ理由は大したことじゃなかった。夏休みの連絡先届けが出てないから、今週中には出せよ、って話だった。
「はぁ……三浦さんに急いでるみたいだって聞いたんですけど」
「あー、あいつに伝えたのが今朝だったからなー。大方、伝え忘れてたのに気づいて焦ったんだろ。ギャルも可愛いところあるな。ははは」
大人のこういう感覚はよくわからない。自分が忘れてたことの責任を人に押しつけるなんて、全然可愛いなんて思えない。ともかく、僕は先生に頭を下げると図書室に急いだ。
カコの姿はなかった。
教室に戻ってみたけれど、カコの席に置いてあった鞄もない。どうやら帰ってしまったようだった。
仕方ない。ミッションは明日に延期しよう。
そうして、僕はカコと二人きりになれないまま、一週間が過ぎてしまったのだった。
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