20  魂の魅力


     たましいの魅力




(・・・・・)

 通りの両側でにぎやかな明かりを放っている看板群の中を涼介は少し早足で歩きながら、吹き抜ける冷たい夜風に頬を叩かれていた。

「しょうがない」

 涼介はカラオケボックスの中で恭子に見せた自分のぬるさを棚に上げた。そして携帯電話を取り出し、恭子とのやり取りの最中に受信していたメールを開いた。


     ■受信メール■

     もしも~し!!今ドコ??

     応答せよ!!

     早く来なさい!!

     ■エリカ 2003/10/10 21:35■


(やっぱりか・・・)

 涼介は納得と共に、メールの返信画面ではなく着信履歴に残るエリカを開いた。

(・・・・・)

 発信ボタンを押した後、左耳でエリカの声を待った。

「・・・もしもし・・・お疲れ・・・ごめんごめん・・・そう・・・悪かった・・・今向かってるから・・・そうだな、後5分ぐらいかな・・・」

 エリカに早く会いたいと思っている正直な足取りのまま、涼介はおどりそうになる声を理性で押さえ付けていた。

 連休を控えた金曜日、10時を過ぎた小倉の目抜めぬきは店を変えて楽しもうとする人達であふれていた。

 堺町公園の脇に並ぶ露天では黒いベロアの上に並ぶイミテーションが通りのアクセントとなっていた。小文字通りには当たり前の様にタクシーが二重駐車をしていた。

(・・・・・)

 涼介ははやる気持ちを押さえながら信号待ちをする人波にまぎれていた。

 横断歩道を渡り、1分も歩けばエリカの待つBARがあった。

 涼介は既に二次会での出来事をほうむっていた。

(エリカなのかな・・・)

 涼介は10年前のあの日、マキと待ち合わせをした〝司〟まで歩いた数分間を思い出していた。そして愛し続ける事も守り抜く事も出来ず、忘れる事など出来ない女性となったマキとエリカを心の中で重ね合わせていた。


(誰だろう・・・)

 エリカの待つBARが在る通りへ出る最後の角を曲がった時、涼介の胸に振動が伝わって来ていた。

 エリカではないと瞬間に感じていた。

 涼介は足取りを変える事無く、Yシャツのポケットに在る携帯電話に触る事無く歩き続けていた。

 目の前にはエリカの居るBARのネオンが迫っていた。

 メールの送り主には今の涼介を立ち止まらせる程の威力も魅力もなかった。


(・・・・・)

 涼介は枕木まくらぎを敷き詰めた狭い階段を昇り、ちた様に造られた無垢板むくいたを縦に並べた質感のある扉を開けた。

 店内へつながるコンクリートが打ち放されたアプローチには晩秋を先取るライティングがほどこされていた。

(・・・・・)

 涼介はカウンターが見渡せる場所までゆっくり歩き、L字にかたどられたカウンターに座る十人程の人影を見ていた。

「待ち合わせですか?」

 貫禄のある、支配人という言葉を連想させる身形みなりの男性が涼介の後ろから声を掛けて来た。

「ええ」

 涼介は初めて見るスタッフにそう言って、カウンターに座っているはずのエリカを探した。

 涼介は闇を演出する光の中で静かに揺れる人影から、見覚えのある背中に焦点を合わす事が出来なかった。

 別のスタッフが涼介の席を用意していた。

(しょうがない、メールを打とう)

 涼介はそう考えながら用意された席に向かおうとした時、L字カウンター中央の窪み辺り座っていた女性の横顔を一瞬目に映した。

 涼介は見惚みとれていた。

「・・・すみません」

 微笑みを取り戻した涼介は洗練された優雅さを放つ女性の後ろ姿から視線を外し、自分の後ろに立っていたスタッフにそう言って席への案内を断った。


「お疲れ」

 涼介は上品な黒のスレンダードレスをまとった女性の肩先にそっと近づき、そう声を掛けた。

「・・・遅い」

「ごめんな」

「・・・ま、いっか」

 エリカは柔らかい瞳で涼介を見上げていた。

「隣に座ってもいいかな?」

 エリカの優艶ゆうえんな一面に初めて触れていた涼介は、降参している気持ちを悟られまいと気障きざに振る舞った。

「許そう」

 エリカは笑った。

「・・・気付かなかったよ」

「暗すぎて?」

「エリ」

「何?」

「美人だな」

「・・・遅い」

「・・・そうだな・・・悪かった」

「そうじゃない、気付くのが」

「・・・ははっ・・・ごめんな」

 二人の間の空気はなめらかに融合していた。

 エリカは笑い、涼介は根こそぎエリカにさらわれようとしている自分の心に手も足も出さず傍観ぼうかんしていた。

「それ、何?」

 涼介はエリカの前で静かにたたずむ、色もグラスもシンプルなカクテルの名前を聞いた。

「ダイキリ」

「やるじゃん・・・」

 選んだカクテルも気が利いている事に、涼介はエリカを美しいと思っていた。

 エリカはエレガントだった。カーゴやローライズ、タイトなカットソーやアウターをセットアップしコーディネートしている時とは別人の様な気品や聡明さを漂わせていた。

「ね、乾杯しよ」

 エリカは自分のグラスを持ち上げた。

 涼介の前にはラムバックが運ばれて来ていた。

「OK・・・じゃ、今夜のエッチに」

 涼介は自分のグラスを持ってそう言った。

「ははっ」

 エリカは照れ笑いを浮かべていた。

 二人のグラスは他の誰にも邪魔の出来ない距離を更に縮め、き通る音を一度立てた。


 エリカは涼介が見せる態度や仕草、選ぶ言葉や駆け引きに居心地の良さを感じ、同年代では無理かもしれない距離感を気に入っていた。

 エリカは男性を選択する側に居る女性だった。それは理想の恋愛を追う事を許される資質と魅力を持っている事を意味していた。故にエリカは涼介と知り合ってからも何人かの男性とセックスをしていた。しかしその度に涼介の洗練された立ち居振る舞いや、自分のを崩さない涼介の落ち着きに魅力を感じていた。

 途中で抜け出した今夜の合コンでも、エリカはとろける様な優しさを都会的に振る舞う格好良い男性達に出会っていた。しかしエリカはその場面場面で涼介の持つウイットやクールさに思いをせている自分が居る事に気付いていた。

「何か今日のリョウ、格好良いね」

「おっ、どうした?急に・・・それは愛の告白ってやつか?・・・それとも何か欲しい物でもあるのか?」

「んー・・・どっちでしょう?・・・」

 エリカは肩をすくめた。

「いいよ、言ってみ」

「あらっ!」

「・・・で?」

「んと、じゃぁねぇ・・・エルメスのガムケース」

「・・・了解」

 涼介は穏やかな笑顔でエリカを見つめていた。

 午後11時を過ぎた店内は更に照明が落とされていた。

 二人の前にはアルコールランプの灯が揺れていた。

 壁際にさり気なく置かれたピアノは、誰の手も借りずに綺麗なメロディを奏でていた。

「何か良いよね、こういうの。こんな時間が毎日の嫌な出来事忘れさせてくれるよね」

「相手が俺でも?」

「もちろん」

 エリカは涼介を愛している事実を実感していた。

「・・・ねっ」

 エリカは涼介を見つめた。

「?・・・」

「さっきのは愛の告白だったんだよ」

「・・・じゃぁ、乾杯」

 涼介はマキと別れて以来、未だ見ぬ女性とエリカが重なりつつある現実を実感していた。


 BARを出た二人は細い路地を歩いていた。

 路地の両側に雑然と立ち並んでいる店の看板や、ビルの壁や窓に張り付いたネオン管は多彩な光を二人の体に降り注いでいた。

「なぁエリ、ゼノンの逆説って知ってる?」

 涼介はエリカに切り出した。

「何?それ」

 エリカは涼介の右腕をつかまえていた。

「昔、イデアを追求するストア派の哲学者がいてね」

「??・・・ちゃんと日本語で喋ってよ」

 エリカは涼介を見上げた。

「ははっ、了解・・・じゃあさ、エリが俺にキスしたいと思ったとするさ、でもキスをするには先ず俺の唇までの距離を半分縮めなきゃいけないだろ?」

「うん!」

 エリカはそう言って、涼介の右腕に抱きついた。

「いいかい、そうすると今二人の唇は50センチから25センチに近づいた訳だよ、な?」

 涼介はエリカの瞳を優しく見つめていた。

「うん!!」

 エリカはそう言った後、今度は左の頬を涼介の肩に預けた。

「でもさ、エリが俺にキスをする為にはさ、今ある25センチの距離を取り敢えずまた半分縮めなきゃだろ?」

「うんうん!」

「って事は、今二人の唇の距離は12センチぐらいになってる訳だよ」

 涼介はそう言って立ち止まり、エリカに向き合う事を誘った。

「・・・・・」

 エリカは名残惜なごりおしそうな瞳で涼介を見つめたまま、涼介の体から離れた。

「さすがにそれ位の距離になるとさ、エリがキスしたがってるって俺も気付く訳さ」

 二人は路地の中央で向き合っていた。

 涼介は笑顔で頷いたエリカを優しく見つめていた。

 エリカは茶目っ気たっぷりにかかとを二、三度浮かせ、キスをせがむ仕草を見せ始めていた。

「・・・でもエリが俺の唇を奪うにはさ、今ある距離をまた半分縮める事が先決じゃない」

 涼介はそう言いながらエリカの肩に両手を掛けた。

「・・・・・」

 エリカはキスを待っていた。

「・・・そうなるとさぁ、キスまでの距離には必ず半分の地点が永遠に存在してる訳だから、どんなにエリが俺の唇を奪いたくってもゼノンさんの許可が下りないんだよな」

 涼介はエリカを優しく見つめていた。

 エリカは微笑を浮かべ、待っていた。

「・・・ま、そういう事かな」

 涼介は割と大袈裟おおげさにエリカの両肩に掛けた手を離し、優しい笑顔のまま、さらりときびすを返して歩き始めた。

「えーっ、キスしてくんないのー!」

 エリカはその場で少しねた顔と声を涼介の背中に投けた。

 涼介はゆっくりと歩いていた。

「・・・ねぇってば!」

 エリカは拗ねた声に甘さを混ぜ、もう一度涼介の背中に投げた。

 涼介は立ち止まり、振り向いた。

 エリカは拗ねた顔のまま、振り向いた涼介のもとへ歩き始めた。

 涼介は愛を捧げる女性を悟った瞳でエリカを見つめ、エリカを待っていた。

 音の無い時間が路上の二人に流れていた。

 涼介の胸に飛び込んだエリカの唇と、エリカを受け止めた涼介の唇は愛情を深くお互いに伝え合っていた。

 エリカの両腕は涼介の首に絡まり、涼介はエリカを強く抱きしめていた。

 二人は心に仕舞しまい切れない大切な想いを、何度も何度も重ねる唇で伝え合っていた。

「・・・な、でもキスは出来るんだよ」

「当たり前じゃん・・・」

 エリカはうるんだ瞳を涼介に見られまいと小さくあごを引き、声を少し震わせながら照れていた。

 二人はお互いの魂に情熱を注ぎ合い、魅力を放ち合い、心を美しく輝かせていた。

 路地の両側から降り注ぐネオンの光は、二人を引き立てる役に徹していた。

「半分の地点の人・・・名前何てったっけ・・・」

「ゼノンだよ」

 二人はお互いを強く抱きしめ、エリカは頬を涼介の胸にうずめていた。

「・・・そのゼノンさんって人、持てるでしょ?」

 エリカは恥らう心を隠す様に涼介を見上げた。

 涼介は微笑みながらエリカを包んでいた腕をゆっくりとほどき、右肘みぎひじをエリカの前にそっと差し出して〝腕を組んで下さい〟という素振りを見せた。

 エリカはその仕草に微笑み、わざと得意顔を作り涼介の腕に全身で巻き付いた。

 夜空の低い位置にはオレンジ色の月が出ていた。

 真っ直ぐ延びる路地の遠く先には、リーガロイヤルホテル小倉の明かりが見えていた。

 二人は路上をいろどる景色に抱かれながら体を寄せて歩き始めていた。

 夜風はいでいた。

 二人の背中には言葉ではなく心で会話を交わせる男女の暖かさがあふれていた。


 虚飾きょしょくの無い愛情をぶつけ合い、情熱をかてに路地の主役を務めた二人はタクシーのテールランプが連なる199号線に出ていた。

「乗るよ」

「うん」

 二人にはそれ以上の会話は無かったが、心と体の行き先は同じだった。


「ちょっと待ってて」

 エリカは涼介にそう言ってタクシーから降りた。

(・・・・・)

 涼介はまぶし過ぎる明かりの中に消えて行ったエリカから視線を離し、考え始めていた。

 市街から抜け出そうとしていたタクシーは、平和通りバス停のそばにあるマツモトキヨシの前でハザードランプを点滅させていた。

(・・・・・)

 涼介は携帯電話をYシャツのポケットから取り出した。


     ■受信メール■

     リョウスケ、楽しく飲んでそうだね。

     メールも電話もないからちょっとショック(‘_`)

     私も一緒に飲みたい。。。

     ■まゆみ 2003/10/10 22:09■



     ■受信メール■

     ワイン飲んだら眠くなっちゃった。

     もう寝ますzzz

     今日はラ・フランスだったのかな?私(^_^)

     ちゃんと家に帰ってね!

     じゃ、明日(^_^)

     おやすみ

     ■まゆみ 2003/10/10 23:45■


「洋梨()か・・・」

 涼介はBARに入る前もBARを出た直後に受信していたメールもまゆみだった事に納得していた。

 まゆみは二通のメールに、何をどう足掻あがいても来ないだろう涼介からの連絡を見越した自棄じきと、ささやかな批判と抵抗と願いを乗せていた。

 涼介は考えていた。夜が明けて日が昇れば涼介が指定したまゆみとのデートの日だった。

(・・・・・)

 涼介は再び携帯電話を取り出し、まゆみに送信するメールを作り始めた。


〝コンコン〟

 涼介はタクシーの窓を叩く音に、泳いでいた目の焦点を強引に合わせられた。

「お待たせっ」

 車内に漂い始めていた重い空気を明るい声と共に乗り込んで来たエリカが動かした。

 涼介の鼻先に、動いた空気に乗ったエリカの甘い香りが届いていた。

「ごめん、待たせちゃったね」

 エリカは涼介が左手で握っていた携帯電話をさり気なく畳み、スーツのポケットにそっと仕舞った事に気付いていなかった。

「全然・・・じゃ、お願いします」

 涼介は運転手にそう言い、まゆみ宛に作ったメールの送信も、保存もさせてくれなかったエリカの香りに感謝していた。

 タクシーに乗り込む前から涼介はすでに待ち合わせまで12時間を切っているまゆみとのデートは延期だと決め、その報告を何時いつまゆみにすべきかをずっと考えていた。そしてタクシーの中での一人きりの時間という予期せぬ形で訪れたチャンスを最大限利用しようと携帯電話に手を掛けていた。しかし突然で、しかも制限時間のあるチャンスでは説得力のある延期の理由を探せず、戯言たわごとの様な理由と謝罪を送信画面に打ち込んでいた。そして涼介はわずかな時間を有効利用し、心でくすぶっていた懸案を処理出来るだろう文章を一応完成させたという安堵感がもたらす客観と冷静で、文章の中に断腸だんちょうの思いをもっと強くじ込むべきかどうか考え始めていた。しかし涼介に訪れた客観と冷静は文章を推敲すいこうしている頭の片隅に、今夜このタイミングでまゆみにメールを送信すれば、これから過ごすエリカとの時間にまゆみが介在してしまうかもしれない事実を気付かせ、焦り、迷う事となっていた。

 自分を愛する事が最優先だとする涼介のぬるくみにくい心は、エリカの香りをきっかけにして今夜起こり得るまゆみとの現実を先送りにする決断を下していた。

 涼介はまゆみの恋心をもてあそないがしろにしていた。それは涼介にとって魂の魅力に準じた決断であり、辻褄つじつまの合った美学だった。




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