9 ぬるい代償
ぬるい
(ふぅ・・・)
マキの事を思い出し続けながら新幹線を降りた涼介は、出そうになる
深夜だというのにホームには残暑を物語る生ぬるい夏の風が渡っていた。
涼介の周りには足早に歩く人が
(何であんな風になっちまったんだろう・・・結婚するのが当たり前で安心してたのかな・・・)
涼介は会社の
(マキが一番大切だって気持ち伝えてるつもりになっちゃってたんだろうな・・・)
地下駐車場に
(・・・確かに深く考えずにいい気になって遊んじゃってたし・・・)
涼介はハザードランプを点滅させた。
「ぬるい」
車に乗り込む前に、涼介はそう自分に投げた。
(・・・・・)
涼介は自分の恋愛の行き着く先を照らそうとする様にヘッドライトを点けた。
深夜の地下駐車場にエンジンのアイドリング音が響いていた。
(しかしマキに対する気持ちはぬるくなかったぞ・・・)
涼介はハンドルを握ったまま、マキとの事を考え続けていた。
〝ドン〟
ハンドルを叩いた音が一度、鈍く車内に響いた。
(何を
涼介は深い
(・・・
駐車場出入り口のシャッターを開き、車を路上に放り出す前に涼介は更にそう自分に吐き捨てた。
涼介は
(本当にまた会えると思ってんのかよ・・・会ってどうすんだよ・・・でも会わなきゃ駄目なんだよ・・・)
涼介は
(・・・・・)
涼介は車を走らせながらコンソールボックス辺りを
涼介の心の中には新幹線に乗り込んだ時からずっとサザンの曲が流れ続けていた。
(運命・・・宿命・・・辛いもんだな・・・)
涼介は考えていた。世の中を
モノレールの
小倉市街から抜ける大通りは昼間の渋滞が嘘の様な路面をナトリウム灯が照らしていた。
交差点の信号は5ブロック先まで全て青を光らせていた。
涼介はマキの
▽
ザ・ホテル横浜でマキの21歳の誕生日を祝った次の年、社会人3年目を迎えていた涼介は新たに
仕事や環境に対する慣れが生んだ涼介の心の余裕は時間を都合する手順を覚えていた。しかしその事実は、同時にマキに対して
マキは涼介に
涼介は二人の関係に危機的状況など無いとたかを
マキは涼介との幸せな結末を常に想い描いていた。
涼介はマキとの間に幸せな結末が来る事を当たり前だと捉えていた。
生活を自分中心に回していた涼介は、就職活動という理由でマキがアルバイトを7月に辞めていた事に
マキはレストランで涼介と同じ時間を共有出来ない事実の重さに耐えられなくなっていた。
涼介はマキの強がりを見抜けないでいた。そして二人の時間を後回しにしていた。しかしマキは涼介に明るく
夏を迎え様としていた。
マキは不安と期待と、時間を持って夏を待っていた。
マキは夏が好きだった。
二人の恋は夏に始まっていた。
マキは夏が二人の局面を変えてくれると信じていた。悲しい事など想像出来なかった、出逢った年の8月に戻れると信じていた。
涼介のマキに対する慢心は、10月に新規オープンするレストランの準備で多忙だという理由だけでマキとの時間を
マキは涼介の夏の休暇を待っていた。
涼介の夏は仕事が優先されていた。
マキは同じ時間軸を持つ異性や大学の友人達に大学生活最後の夏を
マキは持てた。マキを取り巻く異性の中には涼介の存在を知りながら積極的にアプローチして来る者も居た。
マキの涼介に対する想いは揺れていた。そして不安を隠す為の明るさを目立たせながら
マキは空白のままのカレンダーを
マキにとっては暑くて長い夏、二人の間に電話越しの会話が増えていた。電話口の涼介は
マキは涼介の部屋へ行きたい気持ちを行動に移せない日々を送っていた。
涼介は一日の終わりに5分だけでもマキが部屋に居て欲しいと、自分勝手な願望だけを
夏が終わる頃、マキは深夜に一度だけ衝動的に涼介の部屋へ行った事があった。涼介は留守だった。途方に暮れたマキは自宅に戻って涼介からの電話を待つよりも、涼介の部屋で涼介自身を待つ事を選んでいた。されどマキのその選択は、
秋が来ていた。
10月にマキがカレンダーに記入した〝涼介〟の名前は二度だけだった。
二人は出逢った頃の様に〝好きだ〟という気持ちを上手く伝えられず
〝慣れ〟は二人のあらゆる場面に顔を覗かせ始め、その場を上手く切り抜ける要領を二人に与えていた。同時に〝慣れ〟は愛情を妥協する気持ちも二人に与えていた。
涼介は二人の現状を楽観していた。
マキは二人が築き続けて来た恋愛そのものに疑問符を付け様とする弱気な心に苦しんでいた。
△
「・・・あいつ、今どんな生活してんのかな・・・」
涼介は運転しながら
(子供いんのかな・・・あいつの事だからバリバリ仕事してんだろうな・・・ふーっ・・・)
涼介は視線を遠くに置いたまま
「もう10年なのに・・・やべぇな・・・」
涼介は脱力感に襲われていた。
(・・・あの広告代理店にまだいんのかなぁ・・・)
涼介はそれでも〝あの日〟に戻ろうとしていた。
▽
二人の恋愛関係は三度目のクリスマスを迎える前に終止符が打たれていた。
夏が過ぎた頃から涼介が誘う二人のデートは何時も
11月の半ば、二人で過ごす時間や愛情表現を淡々と流そうとする涼介の態度にはっきりと文句を言ったマキに、涼介は何時もなら見せない様な投げ
涼介にとってマキの言い分は図星だった。涼介の直観的で受動的な態度をマキは理性という真偽を識別するナイフで整然と
涼介は醜い姿を見せた事に対する罪悪感を日々募らせていた。
マキは涼介に言い様の無い切なさを感じ始めていた。
11月の終り、涼介は反省している気持ちを伝える為にマキを仲直りの食事に誘っていた。しかしそれにも
12月を迎えていた。
仕事の都合に因ってマキとのデートを何度も何度も押し流していた涼介はその都度電話でマキに謝っていた。しかし涼介と出来るだけ長く一緒に居たいとするマキの心は、電話を通して聞こえる涼介の自戒や反省の言葉の
結局二人の仲直りの日は12月二回目の日曜日迄ずれ込む事となっていた。それは涼介にとって遅く、マキには遠過ぎた。
涼介は少しだけ不安な気持ちを抱えていた。しかし涼介の心の中に
涼介は夏以来続いている二人の感情の食い違いを恋愛中に必ず何度か訪れる筈の倦怠期の様な物だと捉えていた。だとしたら二人の関係は
涼介は自身の中にある
マキは涼介に流されまいと思っていた。
「寒ぃなぁ」
12月12日の夜、涼介は本牧の裏通りをマキのお気に入りの店まで歩いていた。
待ち合わせ場所は涼介の自宅から程近い〝
涼介はマキと出逢う前から〝
「雪でも降んじゃねぇか?・・・」
ブルゾンのポケットに両手を突っ込んだまま四つ角を右に曲がり、涼介は月を探しながら50m程の車一台がやっと通れる筋に入っていた。
筋の先は幹線道路の本牧通りと交わり、その筋の中央辺りに一箇所だけ明るく光る場所があった。
「まさか満席って事は無いよな・・・」
涼介の耳に本牧通りを走る車の乾いたエンジン音がより大きく届いていた。
「こんばんは!」
涼介は
「はい、いらっしゃい!・・・おうっ!いらっしゃい!久し振りだねぇ!」
声の主が涼介だと分かった板さんは嬉しそうにそう言った。
「今日は一人かい?」
板さんは涼介に向かって続け様にそう聞いた。
二人は常連になっていた。週に何度も通っていた頃もあった。
「いえ、後で来ます」
「そうかい、じゃぁ奥だね・・・はい二名さん座敷っ、ビール持ってって!」
板さんの声は軽やかに店内に響いた。
「・・・・・」
涼介は変わらない板さんの元気な声に
「うめぇー!!」
座敷でマキを待つ時の
「うめぇよ」
涼介はビールを一段と美味しく感じていた。そして半年近く前には同じ場所で
「さて、と」
涼介はメニューを広げた。
「はーい、いらっしゃい!久し振りだねぇ!奥に居るよっ!」
涼介の耳に、板さんの声が届いて来た。
(・・・・・)
涼介はメニューを見ながら顔を
「お待たせーっ!」
「おう、お疲れ!」
涼介は存在感たっぷりに目の中に飛び込んで来たマキを綺麗だと感じていた。
「待った!?」
「いや、俺も今来たばかりだよ」
マキの笑顔は涼介の心を根こそぎ出逢った頃に引き戻していた。
「そう」
座敷に上がったマキはマフラーを解きながら笑顔を弾けさせていた。
「何飲む?」
涼介は聞いた。
「・・・相変わらず、やるじゃんって感じだねっ」
マキはコートを脱ぎ、嬉しそうに涼介を見つめながら素直な気持ちを口にした。
「何言ってんだよ・・・何にすんの?」
「もう生頼んで来ちゃった」
マキの笑顔には
涼介は3週間振りに見るマキの姿にときめいていた。目の前には初めて逢った日を思い出させるマキが居た。そして涼介は、ときめきの中に存在する得体の知れない〝何か〟から忘れ掛けていたものを思い出す様に命じられていた。
マキは涼介を見た時、涼介への愛情が体中から
「広告代理店に就職が内定したんだってな、美由紀から聞いたよ、おめでとう。」
「ありがと」
マキは嬉しそうに照れた。
「お待たせっ!」
生ビールを持った板さんが座敷に上がろうとしていた。
「マキちゃん、ちょっと見ない間に一段と綺麗になったねぇ」
「えーっ、そんなぁ・・・」
「いやいや綺麗だよ・・・」
板さんはマキにそう言った後、涼介の方を向いた。
「あんた、マキちゃん大切にしなきゃ罰当たるよっ・・・
板さんは機嫌が良さそうだった。座敷を出る前に二人に見せた笑顔がそれを物語っていた。
「板さんがビール持って来るなんて初めてじゃねぇーか?」
「そうだっけ?」
二人は顔を見合わせた。
「・・・マキの事が好きなんだよ」
涼介はそう言って自分のグラスにビールを注ごうとした。
「あら、嬉しっ・・・私って、やるじゃん」
マキはおどけた。
「ああ、ほんとにやる・・・」
マキは涼介が喋り終わらない先に、グラスに注がれたビールを横取りして飲み始めた。
「おいおい、生来てんじゃん」
「美味しーっ!」
「・・・まったく」
涼介は困った笑顔でマキを受け入れていた。
「注文決まったら呼びなっ!」
姿の見えないカウンターから板さんの声が聞こえて来た。
「はーいっ・・・じゃ、乾杯だね」
マキはそう答えた後、涼介のグラスにビールを注ぎ始めた。
「・・・・・」
涼介は優しい瞳でマキを見つめていた。
「よしっ」
マキは両手で持っていたビールをテーブルに置き、ジョッキを右手に持った。
「じゃ、乾ぱ・・」
「ねねっ、もうだいぶ飲んじゃってる?」
マキは涼介の言葉を
「・・・いや、これで二杯目だよ」
「そっか、いい感じだねっ」
「いい感じだねって、な・・」
「乾杯っ!」
マキは涼介のグラスを鳴らした。
「まったくお前ってヤツは・・・」
涼介は笑っていた。
「・・・・・」
生ビールを飲みながら、マキの瞳は涼介に微笑み掛けていた。
「美味しいーっ!」
「な、美味いだろ?俺と居ると」
「うん」
「あれ?・・・素直じゃんか」
「でしょ!」
マキは久し振りに見る涼介の笑顔に、涼介の全てに
「久し振りだね、ここに来るの」
「そうだよな、来てなかったもんな」
涼介はマキの作るリズムに心地良く包まれていた。
「・・・久し振りだね」
差し向かっている涼介にマキはもう一度、今度は少し真面目な声でそう言った。
「ん?」
「・・・私達」
「・・・そう?」
涼介はマキの問いに対して過去はそれ程重要ではないという意思表示をした。
「会いたかった?」
マキは
「もちろんさ」
「・・・会いたかった?」
マキは楽しそうに意地悪くもう一度聞いた。
「決まってんじゃない!」
涼介は
「お待ちどうさまでした」
身を乗り出していたマキは仲居さんの声に反応し、体を元に戻した。
「うわぁ、美味しそう!」
運ばれて来た料理はマキの大好きな物だった。
「ありがと、食べたかったんだぁ、キンキの煮付けと掻き揚げ」
「だろ!!だと思って先に注文しといたんだよ」
二人は三週間分の想いを素直に
マキはずっと笑顔だった。
涼介はマキの笑顔に愛しさを感じていた。そして出逢った日からずっと、マキの笑顔が強い自分を作る原動力になっていた事を思い出していた。
涼介は直感していた。今マキに〝愛してる〟と言葉で心を伝えるべきだと直感していた。しかし同時に涼介はその直感を静観出来る程、二人の間に充実した時間が流れている事実を客観していた。
マキは待っていた。マキは自身の心を
マキはずっと笑顔だった。涼介にはマキのその笑顔が二人の恋愛に
「ははっ、何だよそれ」
「いいじゃん、そんな事もあんのっ!」
二人の間には他愛の無い会話が続いていた。
マキは笑顔のままだった。
涼介はマキの笑顔に、想いを形にする事を
涼介は今夜マキに半年近く続いた二人のぎくしゃくした関係を反省し、
二人の間には会話が続いていた。
マキは相変わらず、ずっと笑顔のままだった。
涼介はマキが見せる仕草に神経を
ぬるい姿だった。
涼介はマキへ贈るべき永遠の愛を心で握っていた。しかしその思いを
マキは涼介に力強く心を
涼介は考えていた。そして涼介は今夜マキに実行出来ない優しさや思いやりの代償が、計り知れない物ではないという結論を出そうとしていた。
(まぁ、いいか・・・)
涼介は心底愛する、守るべきマキに伝える大切な一言を封印し、生涯で最後かもしれない
マキの瞳には涼介の楽しそうな姿が映っていた。
マキは愛する涼介ならば必ず会話の
マキの瞳には涼介の楽しそうな姿が映り続けていた。
マキは涼介の笑顔に、最良の女性はあなたでは無いという結論を突き付けられているのではないかと思い込み始めていた。そしてその思いはマキの全身に失望という、心から取り出す予定の無かった感情を徐々に伝達していた。
マキの瞳には涼介の喋り続ける姿が映っていた。
(リョウ・・・)
マキは空しい結末に耐える為の勇気に火を点け様としていた。
冷静になってはいけない場面でマキは情熱の灯を消していた。そして
マキはずっと笑顔だった。しかしマキの心には
「ほんと美味しいね、
「だよな・・・
「・・・うん」
「やっぱ日本酒だよな」
涼介はマキにそう言った後、隣の座卓を片付けに来ていた仲居さんに声を掛けた。
「んーと、それじゃ・・・」
涼介はメニューを見ながら仲居さんに注文を始めた。
「ふぅ・・・」
マキは涼介に気付かれない様に天井に向かって息を一つ吐いた。
「・・・はい、それでお願いします」
涼介は仲居さんにそう言ってメニューを閉じ、グラスに残っていたビールを飲もうとしていた。
マキは涼介を見つめていた。
二人の間には、会話の休憩の様な時間が流れていた。
涼介にとっては何でもない、極普通の穏やかな沈黙だった。
マキにとっては、もう後へは引けない沈黙だった。
「・・・
「分かるよ、それ・・・てかさ、俺達にピッタリの様な気がしないか?・・・落ち着くしさ・・・そうそう、今年のクリスマスなん・・」
「別れたい?」
「ん!?・・・今何ってった?」
「・・・別れたい?」
「おいおい、何だよ突然」
涼介は面食らっていた。
「別れたい??」
「どうしたんだよ急に・・・酔ってんのか?」
「酔ってないよ・・・」
マキは首を横に振りながら涼介に優しい笑顔を向けた。
「・・・あのさ、別れたい訳ないじゃない」
涼介はマキの突然の問い掛けに、何をどう処理すればいいのか困惑していた。
「・・・・・」
マキは黙っていた。
「・・・・・」
涼介は喋る言葉が出て来なかった。
「・・・別れよっか」
マキは自分が作った沈黙に責任を持つ為に思いを言葉にした。
「お待たせしました」
座敷の入り口で仲居さんの声が聞こえた。
「・・・あのさぁ、マキ、本気で言ってんの?」
「お酒来たよ」
マキは笑顔で会話を止めた。
「・・・・・」
涼介はマキを見つめていた。
「・・・・・」
マキは
「・・・はい」
マキは涼介に
「・・・マキ、冗談だよな?」
「冗談なんかじゃないよ・・・」
マキは座卓に置かれたままになっている涼介のお
「ねぇ、何で突然そんな事いうの?・・・訳分かんねぇし・・・てか、何か俺の事試してんのか?」
涼介は少し語気を強めてそう言った。
「・・・・・」
マキは涼介を正面で見つめていた。
「・・・・・」
涼介はマキの視線から逃げる様に煙草に手を伸ばした。
「・・・終りにするなら、今だよね」
「今だよねって、なぁマキ、おかしいぞお前・・・」
涼介の目は訴えていた。
「そうかなぁ・・・」
「そうだよ」
涼介の声に力が入った。
「・・・それだけ?・・・」
マキは二人の恋愛を終りにしたくないという思いを瞳に込めて涼介を見つめていた。
「それだけって?」
「・・・それだけ・・・なんだ・・・」
「ああ・・・それだけだよ・・・」
「・・・・・」
マキは肩から息を逃がした。
「・・・・・」
涼介は
「・・・じゃぁ・・・別れよ」
「じゃぁ別れよってさぁ・・・本当に本気で言ってんのか?」
混乱で舞い上がった涼介の心は
「・・・本気だよ」
マキは笑顔に乗ろうとする哀しさをぎりぎりの所で押さえた。
「どうしちゃったんだよ、お前・・・」
「・・・・・」
マキは涼介のその問い掛けには答えず、座ったままマフラーを巻き始めた。
「勘弁してくれよ・・・」
涼介はマキへの愛情を言葉にする事が出来ないでいた。
「・・・なぁ、マキ・・・」
涼介は今夜が二人の未来を決める大切な夜だと直感しておきながら、一度心の隅に
涼介は唯、マキを目で追っていた。
マキはコートを着終わっていた。
涼介は煙草の火を消そうとしていた。
愛を伝えて欲しいとマキは心で
涼介は灰皿の中で消え残る煙を横に、再び煙草を吸おうとしていた。
「・・・・・」
マキは涼介の無言に、
二人はほんの少しだけ意地を張り、
マキは来年から始まる未知の環境に飛び込む前に、今夜涼介に二人の間に何ヶ月も続いた嫌な流れを断ち切って欲しいと願っていた。
涼介は今夜、幸せを
マキはごく
涼介は煙草を
マキは耐えていた。
二人はお互いの気持ちを察し合い、自身の感情を譲る選択肢を閉じたまま、愛という名の
「・・・・・」
涼介は愛するマキに、今、伝えなければならない大切な言葉を口にするより、その切なる想いを今夜どの場面から切り出しても構わなかった事を振り返り、自分を責める
涼介は愛情の幅を甘く見積もっていた。
マキは愛情の深さを決め付けていた。
「・・・じゃあ・・・ねっ・・・」
マキは笑顔を振り絞って席を立ち、二人の間に続いていた長い沈黙を区切った。
「じゃあねって、マキさぁ・・・」
涼介は立ち上がったマキを
「・・・・・」
マキはゆっくりと
涼介は言葉を選んでいた。
背中に出そうになる辛い気持ちをマキは堪えていた。
涼介は黙ったままだった。
マキは振り返えらなかった。
(・・・じゃあねじゃねぇよな・・・まったく・・・)
涼介はマキへの愛情を
「何かあったの?」
何も言わず飛び出して行ったマキを心配していた板さんは、支払いを済ませ様とレジに来ていた涼介に立ち入った。
「いや、別に、何でもないです・・・」
涼介は笑顔を作れなかった。
「そう・・・なら、いいんだけど・・・」
板さんはマキの涙を心に
「ごちそうさまでした」
「あいよっ、有難うございましたっ」
「どうも」
涼介は
「・・・・・」
店を出て行こうとする涼介の背中に、板さんは何かを伝えたい視線をずっと送っていた。
「ふーっ・・・」
(・・・クリスマスまで何とかなるかなぁ・・・)
涼介は月を探しながら心の中でそう
「・・・大丈夫だよな・・・」
涼介は冷たくなって来た両手をポケットに突っ込み、自分自身にそう問い掛け、再び頭上を見渡した。
月の出ていない寒い夜だった。
涼介は何時かの寒い冬の夜、青く澄んだ輝きを放っていた月に照らされ、マキと寄り添いビデオショップまで歩いた時の二人の
「・・・大丈夫大丈夫」
涼介は見えない月と自分に向かってそう言った。それはマキの決心を
〝
あの夜、愛するマキに素直な気持ちを伝えなかった事は大きな誤りだったと涼介は気付いていた。しかしその後マキに心を寄せる事を
涼介はクリスマスを一人で過ごした。そして涼介は一つの年が終わろうとしている
涼介はマキを惜しみなく奪わなければならない事を理解しているにも
涼介は年が明けて
美由紀はマキの親友であり、涼介は美由紀と親しくしていた。
「佐久間さん!」
美由紀は涼介の後ろ姿に声を掛けた。
涼介はその声に気付かず改札を出ようとしていた。
「佐久間さん!!」
美由紀は真顔で二度目の声を出した。
「・・・おう、久し振りだね、元気?」
涼介は歩く速度を緩めながら自分を呼ぶ声の方へ
「元気ぃじゃないですよ!マキと全然会ってないんですか!?」
美由紀は挨拶を省いてまで事の重大さを声に乗せた。
「まぁ・・・ね」
涼介は少したじろいだが、まだ落ち着いていた。
「まぁねって、別れるんですか!」
美由紀は
「・・・別れるっ・・」
「マキは本気だったんですよ!・・・何で?・・・この前私ん家でめちゃめちゃ泣いたんだから!!」
美由紀の叫び声は構内に響いていた。
「・・・・・」
涼介は美由紀の声に乗ったマキの事実に、言葉にしようとしていたマキへの思いを心に押し戻されていた。
「何でなんですか!・・・佐久間さん!・・何でなんですか!!」
「・・・・・」
美由紀の強い瞳に涼介は天を仰いだ。
「リョウのお陰で優しくなれるんだよって、リョウが居るから強くなれるんだよって、私、何時もそんな話聞かされてたのに・・・この前突然私ん家に来て・・・あんなマキの姿初めて見たんだから!」
「・・・・・」
気持ちを
「何で電話ぐらいしてあげないんですか!!」
美由紀は更に訴えた。
「・・・・・」
涼介は美由紀の直情に心を切り裂かれ様としていた。
「ねぇ!何で!!」
「・・・・・」
涼介は美由紀を直視出来なくなっていた。
涼介は心の中で眠らせていたマキへの深い想いを、突然美由紀に荒々しく叩き起されていた。そして目の醒めた〝マキへの愛情を
「・・・・・」
美由紀は瞳で涼介を叩いていた。
「・・・・・」
涼介は喋れなかった。美由紀に声を掛けられた後、美由紀の勢いに気持が
北風の強い午後だった。
美由紀は木枯らしの様な風に髪を乱されながら訴え続けていた。涼介はコートの
〝マキは本気だったんですよ!〟と美由紀は何度も叫んでいた。そして〝何でそんな
(・・・・・)
涼介は街へと消えて行った美由紀の残像を
涼介の胸は張り裂けていた。
街路樹の落ち葉が涼介の足元で舞っていた。
(・・・・・)
涼介はマフラーを巻き直し、ゆっくりと歩き始めた。
(・・・・・)
気持ちを立て直せないまま歩いている涼介の視線の先に、駅の入り口に立ち並ぶ公衆電話があった。
涼介の頭上にはミディアムグレイの空が重く広がっていた。
北風は街を乾かし続けていた。
涼介の瞳は公衆電話を
(・・・・・)
立ち止まっている涼介の心の中には、マキへ捧げるべき〝愛してる〟という魂の声が
街は北風で乾き続けていた。
(・・・・・)
涼介はステンカラーコートの
駅に向かって足早に歩く人達が涼介の横を通り過ぎていた。
歩道の落ち葉は時折激しく舞い上がっていた。
涼介は情熱を
(・・・・・)
涼介は北風に
涼介は最愛の女性に心だけは手前勝手に
ドキドキする様な恋をしたいけど
思い通りに運ばない時は
夕暮れの風 吹かれると何故
切なくなったり思い出したり
今ならやり直せるかもしれないけど
言い出せる筈なくて
“PACIFIC SHORE HOTEL” by SECTION S.
マキもクリスマスを一人で過ごしていた。12月27日の誕生日も一人で過ごしていた。寂しくて
マキはあの夜〝別れよっか〟と言った事をずっと後悔していた。そしてあの日以降電話の前から動けない夜が増えていた。受話器を握り締めダイヤルをプッシュし掛けた事もあった。しかしマキは出逢った頃の様に素直になれないまま孤独と戦っていた。
マキは涼介を信じていた。例えそれがどんな形でも、ほんの
キラキラ季節は短か過ぎたけど
想い出ばかり今でも溢れてくる
夜が長くて 眠れなくて
片付けたアルバム何度も何度も見る
近過ぎる過去だから 傷がまだ痛むけど
いい恋してたと思う
“PACIFIC SHORE HOTEL” by SECTION S.
マキは就職する広告代理店の東京本社勤務が決まっていた。住居も会社が社員寮として借り上げているマンションの一室を使う事が決まっていた。
新しい年が明け、入社の為の身辺整理を始めて以来、マキは入寮を決めた事を悔やみ、入寮をキャンセルすべきかどうかを悩んでいた。
マキは涼介との間に残されている
マキは涼介の事を二度と出逢えない最高の恋人だと思っていた。そして涼介との結婚をずっと願っていた。マキはあの日〝
山手の丘には桜の季節が来ていた。元町に続く坂道には春の
マキは社会人として新たに始まった生活の至る所で涼介と過ごした最後の夜を振り返っていた。そして涼介に
二人は紛れも無く掛け替えの無い最高の出逢いをしていた。しかしその最高の出逢いを最良に変えて愛を育むには二人は若かった。世界で一番で、一生で一人の人だと
涼介の部屋にはマキの物がそのまま残っていた。
寮での一人暮らしが始まったマキの部屋のクロゼットには、涼介からプレゼントされたピーコートが掛けられていた。
二人の結末を
△
(・・・・・)
涼介は信号待ちの間にCDを止めた。
左ウインカーの点滅音が車内を優しくノックしていた。
助手席のガラス越しには涼介の自宅があるマンションが見えていた。
「・・・会いたい」
涼介は
あれから10年が過ぎていた。マキに〝別れよっか〟と切り出された日から一度も会わないまま10年が過ぎていた。
2年前、転勤で小倉に戻る為の荷造りをしていた時にマキの荷物を処分する事が涼介には出来なかった。
捨てられなかった。
それが全てだった。
フロントガラスのずっと先に青く輝く月が出ていた。
涼介は美しいその月と、
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