9   ぬるい代償


     ぬるい代償だいしょう




(ふぅ・・・)

 マキの事を思い出し続けながら新幹線を降りた涼介は、出そうになる溜息ためいきを我慢して柔らかく息を逃がした。

 深夜だというのにホームには残暑を物語る生ぬるい夏の風が渡っていた。

 涼介の周りには足早に歩く人があふれていた。


(何であんな風になっちまったんだろう・・・結婚するのが当たり前で安心してたのかな・・・)

 涼介は会社のるテナントビルの警備室で身分証を提示した後、通用口の階段で地下に降りる途中そんな事を考えていた。

(マキが一番大切だって気持ち伝えてるつもりになっちゃってたんだろうな・・・)

 地下駐車場につながる鉄の重い扉を開けた涼介は、車のキーを取り出そうとしていた。

(・・・確かに深く考えずにいい気になって遊んじゃってたし・・・)

 涼介はハザードランプを点滅させた。

「ぬるい」

 車に乗り込む前に、涼介はそう自分に投げた。


(・・・・・)

 涼介は自分の恋愛の行き着く先を照らそうとする様にヘッドライトを点けた。

 深夜の地下駐車場にエンジンのアイドリング音が響いていた。

(しかしマキに対する気持ちはぬるくなかったぞ・・・)

 涼介はハンドルを握ったまま、マキとの事を考え続けていた。

〝ドン〟

 ハンドルを叩いた音が一度、鈍く車内に響いた。

(何を今更いまさらそんな自己弁護してんだよ・・・)

 涼介は深い溜息ためいきの後、そう吐き捨てた。


(・・・何処どこに行きたいんだよ・・・)

 駐車場出入り口のシャッターを開き、車を路上に放り出す前に涼介は更にそう自分に吐き捨てた。

 涼介は何時いつ何処どこかでマキと必ず再会出来ると信じていた。ゆえに涼介は自分に割り振られた恋愛の現実を見据みすえて前に進むより、過去を振り返り続ける事の方が重要だと信じていた。しかしマキとの距離はマキを思い出す度に、必ず遠くなっていた。

(本当にまた会えると思ってんのかよ・・・会ってどうすんだよ・・・でも会わなきゃ駄目なんだよ・・・)

 涼介は虚無感きょむかんと戦っていた。そしてその虚無感きょむかんはマキへの想いを打ち負かそうとしていた。しかし涼介は更に強く自分に忠実であり続け様ともしていた。


(・・・・・)

 涼介は車を走らせながらコンソールボックス辺りをまさぐり、サザンオールスターズのCDを探した。

 涼介の心の中には新幹線に乗り込んだ時からずっとサザンの曲が流れ続けていた。

(運命・・・宿命・・・辛いもんだな・・・)

 涼介は考えていた。世の中を牛耳ぎゅうじる無常の現象と、人間の意思を超越ちょうえつした力を持つ運命や宿命という、考え方一つでその後の人生を善悪どちらにでも曖昧あいまい誤魔化ごまかせてしまう命題を考えていた。

 モノレールの高架こうかを抱え上げる巨大なT字のコンクリートがドミノのピースの様に長い直線に重なって見えていた。

 小倉市街から抜ける大通りは昼間の渋滞が嘘の様な路面をナトリウム灯が照らしていた。

 交差点の信号は5ブロック先まで全て青を光らせていた。

 涼介はマキの幻影げんえいを追い求める様にアクセルを踏み続けていた。


              ▽


 ザ・ホテル横浜でマキの21歳の誕生日を祝った次の年、社会人3年目を迎えていた涼介は新たにつちかわれた人脈の下、所属する企画開発部の飲み会や他の部の会合、同僚や取引先の女性社員がセッティングする合コンに誘われるまま全て参加する日々が続いていた。    

 仕事や環境に対する慣れが生んだ涼介の心の余裕は時間を都合する手順を覚えていた。しかしその事実は、同時にマキに対して幾許いくばくかの不誠実があっても対処や説得が出来るという、不埒ふらちな余裕までも心に同居させる事となっていた。

 マキは涼介に寛大かんだいだった。

 涼介は二人の関係に危機的状況など無いとくくり大好きなマキに甘えていた。

 マキは涼介との幸せな結末を常に想い描いていた。

 涼介はマキとの間に幸せな結末が来る事を当たり前だと捉えていた。

 生活を自分中心に回していた涼介は、就職活動という理由でマキがアルバイトを7月に辞めていた事にしばらく気付かないまま元町店に出入りしていた。

 マキはレストランで涼介と同じ時間を共有出来ない事実の重さに耐えられなくなっていた。

 涼介はマキの強がりを見抜けないでいた。そして二人の時間を後回しにしていた。しかしマキは涼介に明るく振舞ふるまう事をおこたる事はなく責める事もなかった。

 夏を迎え様としていた。

 マキは不安と期待と、時間を持って夏を待っていた。

 マキは夏が好きだった。

 二人の恋は夏に始まっていた。

 マキは夏が二人の局面を変えてくれると信じていた。悲しい事など想像出来なかった、出逢った年の8月に戻れると信じていた。

 涼介のマキに対する慢心は、10月に新規オープンするレストランの準備で多忙だという理由だけでマキとの時間を等閑なおざりにさせていた。

 マキは涼介の夏の休暇を待っていた。

 涼介の夏は仕事が優先されていた。

 マキは同じ時間軸を持つ異性や大学の友人達に大学生活最後の夏を満喫まんきつしようと数多く誘われていた。

 マキは持てた。マキを取り巻く異性の中には涼介の存在を知りながら積極的にアプローチして来る者も居た。

 マキの涼介に対する想いは揺れていた。そして不安を隠す為の明るさを目立たせながら気丈きじょうに耐えていた。

 マキは空白のままのカレンダーをたずさえたまま、涼介を振り払う事が正解なのかもしれないと考え始めていた。しかしマキは結局、涼介との予定が決まらないまま過ぎて行く夏のカレンダーに涼介以外の男性と二人で会う予定を落とす事は無かった。

 マキにとっては暑くて長い夏、二人の間に電話越しの会話が増えていた。電話口の涼介は淡々たんたんも当たり前の様に仕事に追われる日常を口にしていた。マキは〝愛してる〟という素直な心情を言葉にする事が出来ないまま涼介からの〝愛してる〟を待っていた。

 マキは涼介の部屋へ行きたい気持ちを行動に移せない日々を送っていた。

 涼介は一日の終わりに5分だけでもマキが部屋に居て欲しいと、自分勝手な願望だけを日々膨ひびふくらませ続けていた。

 夏が終わる頃、マキは深夜に一度だけ衝動的に涼介の部屋へ行った事があった。涼介は留守だった。途方に暮れたマキは自宅に戻って涼介からの電話を待つよりも、涼介の部屋で涼介自身を待つ事を選んでいた。されどマキのその選択は、一人頬杖ひとりほおづえを付いて涼介の好きな歌を何度も口ずさみながら、涼介を待ち続ける夜を過ごす結果となっていた。

 秋が来ていた。

 10月にマキがカレンダーに記入した〝涼介〟の名前は二度だけだった。

 二人は出逢った頃の様に〝好きだ〟という気持ちを上手く伝えられず些細ささい喧嘩けんかを繰り返していた。そしてその喧嘩けんかには恋愛を成就じょうじゅさせる為の弊害へいがいと成り得る〝慣れ〟がまとうようになっていた。

〝慣れ〟は二人のあらゆる場面に顔を覗かせ始め、その場を上手く切り抜ける要領を二人に与えていた。同時に〝慣れ〟は愛情を妥協する気持ちも二人に与えていた。

 涼介は二人の現状を楽観していた。

 マキは二人が築き続けて来た恋愛そのものに疑問符を付け様とする弱気な心に苦しんでいた。


              △


「・・・あいつ、今どんな生活してんのかな・・・」

 涼介は運転しながらつぶやいた。

(子供いんのかな・・・あいつの事だからバリバリ仕事してんだろうな・・・ふーっ・・・)

 涼介は視線を遠くに置いたまま溜息ためいきを一ついた。

「もう10年なのに・・・やべぇな・・・」

 涼介は脱力感に襲われていた。

(・・・あの広告代理店にまだいんのかなぁ・・・)

 涼介はそれでも〝あの日〟に戻ろうとしていた。


              ▽


 二人の恋愛関係は三度目のクリスマスを迎える前に終止符が打たれていた。

 

 夏が過ぎた頃から涼介が誘う二人のデートは何時も喧嘩けんかの後だった。

 11月の半ば、二人で過ごす時間や愛情表現を淡々と流そうとする涼介の態度にはっきりと文句を言ったマキに、涼介は何時もなら見せない様な投げりでみにくい悪態をいていた。

 涼介にとってマキの言い分は図星だった。涼介の直観的で受動的な態度をマキは理性という真偽を識別するナイフで整然とえぐり取っていた。それはある意味マキの涼介に対する心からの愛情だった。そしてその愛情はマキへの想いを自分勝手に思い込み、結論付けてしまっていた涼介を後悔させるには充分な威力があった。

 涼介は醜い姿を見せた事に対する罪悪感を日々募らせていた。

 マキは涼介に言い様の無い切なさを感じ始めていた。

 11月の終り、涼介は反省している気持ちを伝える為にマキを仲直りの食事に誘っていた。しかしそれにもかかわらず涼介はマキが望む二人の時間にことごとく首を横に振っていた。

 12月を迎えていた。

 仕事の都合に因ってマキとのデートを何度も何度も押し流していた涼介はその都度電話でマキに謝っていた。しかし涼介と出来るだけ長く一緒に居たいとするマキの心は、電話を通して聞こえる涼介の自戒や反省の言葉の端々はしばしに自分を中心として行動を組み立てている感情をかしていた。

 結局二人の仲直りの日は12月二回目の日曜日迄ずれ込む事となっていた。それは涼介にとって遅く、マキには遠過ぎた。

 涼介は少しだけ不安な気持ちを抱えていた。しかし涼介の心の中にくゆおごれる感情は危機感に無頓着むとんちゃくだった。

 涼介は夏以来続いている二人の感情の食い違いを恋愛中に必ず何度か訪れる筈の倦怠期の様な物だと捉えていた。だとしたら二人の関係はいずれ元に戻り更に絆が強まるはずだと考えを結んでいた。

 涼介は自身の中にある粗雑そざつな感情を時間の流れのせいにしていた。そしてその流れに柔軟で謙虚な気持ちを保てない、鼻持ちならない自信という舵の無い船を浮かばせマキを乗せていた。

 マキは涼介に流されまいと思っていた。


「寒ぃなぁ」

 12月12日の夜、涼介は本牧の裏通りをマキのお気に入りの店まで歩いていた。

 待ち合わせ場所は涼介の自宅から程近い〝つかさ〟だった。

 涼介はマキと出逢う前から〝つかさ〟に通っていた。マキはそんな涼介に連れられて初めて〝つかさ〟に来た時、一瞬にして好きになっていた。

「雪でも降んじゃねぇか?・・・」

 ブルゾンのポケットに両手を突っ込んだまま四つ角を右に曲がり、涼介は月を探しながら50m程の車一台がやっと通れる筋に入っていた。

 筋の先は幹線道路の本牧通りと交わり、その筋の中央辺りに一箇所だけ明るく光る場所があった。

「まさか満席って事は無いよな・・・」

 涼介の耳に本牧通りを走る車の乾いたエンジン音がより大きく届いていた。


「こんばんは!」

 涼介は暖簾のれんをくぐり、ひのきの引き戸を開け、カウンターに背を向けていた板さんに声を掛けた。

「はい、いらっしゃい!・・・おうっ!いらっしゃい!久し振りだねぇ!」

 声の主が涼介だと分かった板さんは嬉しそうにそう言った。

「今日は一人かい?」

 板さんは涼介に向かって続け様にそう聞いた。

 二人は常連になっていた。週に何度も通っていた頃もあった。

「いえ、後で来ます」

「そうかい、じゃぁ奥だね・・・はい二名さん座敷っ、ビール持ってって!」

 板さんの声は軽やかに店内に響いた。

「・・・・・」

 涼介は変わらない板さんの元気な声に会釈えしゃくして座敷に向かった。


「うめぇー!!」

 座敷でマキを待つ時の何時通いつもどおりに涼介は一人で先にビールを流し込んだ。

「うめぇよ」

 涼介はビールを一段と美味しく感じていた。そして半年近く前には同じ場所で頻繁ひんぱんに感じていた幸せを思い出していた。

「さて、と」

 涼介はメニューを広げた。

「はーい、いらっしゃい!久し振りだねぇ!奥に居るよっ!」

 涼介の耳に、板さんの声が届いて来た。

(・・・・・)

 涼介はメニューを見ながら顔をゆるませていた。


「お待たせーっ!」

「おう、お疲れ!」

 涼介は存在感たっぷりに目の中に飛び込んで来たマキを綺麗だと感じていた。

「待った!?」

「いや、俺も今来たばかりだよ」

 マキの笑顔は涼介の心を根こそぎ出逢った頃に引き戻していた。

「そう」

 座敷に上がったマキはマフラーを解きながら笑顔を弾けさせていた。

「何飲む?」

 涼介は聞いた。

「・・・相変わらず、やるじゃんって感じだねっ」

 マキはコートを脱ぎ、嬉しそうに涼介を見つめながら素直な気持ちを口にした。

「何言ってんだよ・・・何にすんの?」

「もう生頼んで来ちゃった」

 マキの笑顔には屈託くったくが無かった。

 涼介は3週間振りに見るマキの姿にときめいていた。目の前には初めて逢った日を思い出させるマキが居た。そして涼介は、ときめきの中に存在する得体の知れない〝何か〟から忘れ掛けていたものを思い出す様に命じられていた。

 マキは涼介を見た時、涼介への愛情が体中からあふれ出る感覚に包まれていた。しかしマキは涼介にとって最良の女性は自分ではないのではないかと思う気持ちを振り払えずにいた。それは涼介を信じる気持ちを何度も打ち負かされ、涼介を愛し続けて行く自信を完全に取り戻せない心が、これ以上深い傷を負うまいとする防衛本能を働かせているせいだった。

「広告代理店に就職が内定したんだってな、美由紀から聞いたよ、おめでとう。」

「ありがと」

 マキは嬉しそうに照れた。

「お待たせっ!」

 生ビールを持った板さんが座敷に上がろうとしていた。

「マキちゃん、ちょっと見ない間に一段と綺麗になったねぇ」

「えーっ、そんなぁ・・・」

「いやいや綺麗だよ・・・」

 板さんはマキにそう言った後、涼介の方を向いた。

「あんた、マキちゃん大切にしなきゃ罰当たるよっ・・・うらやましいねぇまったく・・・じゃ、ごゆっくり!」

 板さんは機嫌が良さそうだった。座敷を出る前に二人に見せた笑顔がそれを物語っていた。

「板さんがビール持って来るなんて初めてじゃねぇーか?」

「そうだっけ?」

 二人は顔を見合わせた。

「・・・マキの事が好きなんだよ」

 涼介はそう言って自分のグラスにビールを注ごうとした。

「あら、嬉しっ・・・私って、やるじゃん」

 マキはおどけた。

「ああ、ほんとにやる・・・」

 マキは涼介が喋り終わらない先に、グラスに注がれたビールを横取りして飲み始めた。

「おいおい、生来てんじゃん」

「美味しーっ!」

「・・・まったく」

 涼介は困った笑顔でマキを受け入れていた。

「注文決まったら呼びなっ!」

 姿の見えないカウンターから板さんの声が聞こえて来た。

「はーいっ・・・じゃ、乾杯だね」

 マキはそう答えた後、涼介のグラスにビールを注ぎ始めた。

「・・・・・」

 涼介は優しい瞳でマキを見つめていた。

「よしっ」

 マキは両手で持っていたビールをテーブルに置き、ジョッキを右手に持った。

「じゃ、乾ぱ・・」

「ねねっ、もうだいぶ飲んじゃってる?」

 マキは涼介の言葉をさえぎり、ジョッキを差し出す前に身を乗り出した。

「・・・いや、これで二杯目だよ」

「そっか、いい感じだねっ」

「いい感じだねって、な・・」

「乾杯っ!」

 マキは涼介のグラスを鳴らした。

「まったくお前ってヤツは・・・」

 涼介は笑っていた。

「・・・・・」

 生ビールを飲みながら、マキの瞳は涼介に微笑み掛けていた。

「美味しいーっ!」

「な、美味いだろ?俺と居ると」

「うん」

「あれ?・・・素直じゃんか」

「でしょ!」

 マキは久し振りに見る涼介の笑顔に、涼介の全てにって何物にも代えられない時間をもらっていた事を思い出していた。

「久し振りだね、ここに来るの」

「そうだよな、来てなかったもんな」

 涼介はマキの作るリズムに心地良く包まれていた。

「・・・久し振りだね」

 差し向かっている涼介にマキはもう一度、今度は少し真面目な声でそう言った。

「ん?」

「・・・私達」

「・・・そう?」

 涼介はマキの問いに対して過去はそれ程重要ではないという意思表示をした。

「会いたかった?」

 マキは無邪気むじゃきにまた身を乗り出し、涼介に顔を近づけて悪戯いたずらっぽく上目使いでそう聞いた。

「もちろんさ」

「・・・会いたかった?」

 マキは楽しそうに意地悪くもう一度聞いた。

「決まってんじゃない!」

 涼介は茶目ちゃめを見せるマキをきつく抱きしめて〝ありったけ〟の愛情を何度も何度も伝えたい衝動に駆られていた。

「お待ちどうさまでした」

 身を乗り出していたマキは仲居さんの声に反応し、体を元に戻した。

「うわぁ、美味しそう!」

 運ばれて来た料理はマキの大好きな物だった。

「ありがと、食べたかったんだぁ、キンキの煮付けと掻き揚げ」

「だろ!!だと思って先に注文しといたんだよ」


 二人は三週間分の想いを素直にさらしていた。そして夏以来二人の心に積み重なったままの嫌な思い出を一つずつ笑い飛ばしていた。

 マキはずっと笑顔だった。

 涼介はマキの笑顔に愛しさを感じていた。そして出逢った日からずっと、マキの笑顔が強い自分を作る原動力になっていた事を思い出していた。

 涼介は直感していた。今マキに〝愛してる〟と言葉で心を伝えるべきだと直感していた。しかし同時に涼介はその直感を静観出来る程、二人の間に充実した時間が流れている事実を客観していた。

 マキは待っていた。マキは自身の心をおおう暗雲を吹き払う、涼介の力強い言葉を待っていた。大好きな人からもらいたい、最高の響きを持つ、愛し続ける自信を取り戻せる、一生大切にしたい言葉を待っていた。

 マキはずっと笑顔だった。涼介にはマキのその笑顔が二人の恋愛にうれいなど無く、深い絆が解ける訳がないと思い込ませる程美しく映っていた。


「ははっ、何だよそれ」

「いいじゃん、そんな事もあんのっ!」

 二人の間には他愛の無い会話が続いていた。

 マキは笑顔のままだった。

 涼介はマキの笑顔に、想いを形にする事を躊躇ためらい始めていた。

 涼介は今夜マキに半年近く続いた二人のぎくしゃくした関係を反省し、真摯しんしあやまるつもりだった。そしてもう一度この場所から新たに始めようと言うつもりだった。しかし涼介は何のうれいも無い様なマキの生き生きとした素振りに、会話を止めてまでマキを愛している事を真面目に伝えるよりも、このまま喋り続ける事が正解なのかもしれないと感じ始めていた。そしてそんな涼介の心に巣食すくう、けじめに対する横着おうちゃくな感情は、マキの気持ちを察する努力や、二人の未来の為に自身が決心して来た事を心の隅にほうむろうとしていた。

 二人の間には会話が続いていた。

 マキは相変わらず、ずっと笑顔のままだった。

 涼介はマキが見せる仕草に神経をます事を止めていた。そして自身が持つ手前勝手な自信を再び揺り起こし、マキとの大切な時間をこのまま押し流そうとしていた。

 ぬるい姿だった。

 涼介はマキへ贈るべき永遠の愛を心で握っていた。しかしその思いを紐解ひもとかず、表現する事にもがこうとせず、意を決する事に目を背け、愛情に無二の価値を付ける情熱を注ぎ惜しんでいた。

 マキは涼介に力強く心を鷲掴わしづかんで欲しいと思っていた。求める前に奪って欲しいと願っていた。

 涼介は考えていた。そして涼介は今夜マキに実行出来ない優しさや思いやりの代償が、計り知れない物ではないという結論を出そうとしていた。

(まぁ、いいか・・・)

 涼介は心底愛する、守るべきマキに伝える大切な一言を封印し、生涯で最後かもしれない崇高すうこうな直感という感覚を心のすみほうむった。

 マキの瞳には涼介の楽しそうな姿が映っていた。

 マキは愛する涼介ならば必ず会話の何処どこかで涼介らしい愛情表現を見せてくれると信じていた。それ故にマキは涼介の些細ささい挙動きょどうでも不変という付加価値を付け、それを至福しふくの瞬間として全身で素直に受け止める為の感情のピークをずっと維持していた。しかし涼介はマキの機嫌を伺う様な取り留めの無い話で時間をつぶし、マキが望んでいない愛想を振り撒き続けていた。

 マキの瞳には涼介の楽しそうな姿が映り続けていた。

 マキは涼介の笑顔に、最良の女性はあなたでは無いという結論を突き付けられているのではないかと思い込み始めていた。そしてその思いはマキの全身に失望という、心から取り出す予定の無かった感情を徐々に伝達していた。

 マキの瞳には涼介の喋り続ける姿が映っていた。

(リョウ・・・)

 マキは空しい結末に耐える為の勇気に火を点け様としていた。

 冷静になってはいけない場面でマキは情熱の灯を消していた。そして断腸だんちょうの思いで失望をナイフに変え、涼介への愛を永遠に誓うはずだった感情をゆっくりと削り始めていた。

 マキはずっと笑顔だった。しかしマキの心にはうたげの後の様な、誰になぐさめられても微動だにしない物哀ものがなしさがあふれ出していた。


「ほんと美味しいね、此処ここの料理」

「だよな・・・熱燗頼あつかんたのむ?」

「・・・うん」

「やっぱ日本酒だよな」

 涼介はマキにそう言った後、隣の座卓を片付けに来ていた仲居さんに声を掛けた。

「んーと、それじゃ・・・」

 涼介はメニューを見ながら仲居さんに注文を始めた。

「ふぅ・・・」

 マキは涼介に気付かれない様に天井に向かって息を一つ吐いた。

「・・・はい、それでお願いします」

 涼介は仲居さんにそう言ってメニューを閉じ、グラスに残っていたビールを飲もうとしていた。

 マキは涼介を見つめていた。

 二人の間には、会話の休憩の様な時間が流れていた。

 涼介にとっては何でもない、極普通の穏やかな沈黙だった。

 マキにとっては、もう後へは引けない沈黙だった。

「・・・此処ここに来ると何時も食べ過ぎちゃうんだ」

「分かるよ、それ・・・てかさ、俺達にピッタリの様な気がしないか?・・・落ち着くしさ・・・そうそう、今年のクリスマスなん・・」

「別れたい?」

「ん!?・・・今何ってった?」

「・・・別れたい?」

「おいおい、何だよ突然」

 涼介は面食らっていた。

「別れたい??」

「どうしたんだよ急に・・・酔ってんのか?」

「酔ってないよ・・・」

 マキは首を横に振りながら涼介に優しい笑顔を向けた。

「・・・あのさ、別れたい訳ないじゃない」

 涼介はマキの突然の問い掛けに、何をどう処理すればいいのか困惑していた。

「・・・・・」

 マキは黙っていた。

「・・・・・」

 涼介は喋る言葉が出て来なかった。

「・・・別れよっか」

 マキは自分が作った沈黙に責任を持つ為に思いを言葉にした。

「お待たせしました」

 座敷の入り口で仲居さんの声が聞こえた。

「・・・あのさぁ、マキ、本気で言ってんの?」

「お酒来たよ」

 マキは笑顔で会話を止めた。

「・・・・・」

 涼介はマキを見つめていた。

「・・・・・」

 マキは熱燗あつかんを座卓の上に置いて去ろうとする仲居さんに会釈えしゃくをした。

「・・・はい」

 マキは涼介に徳利とっくりを差し出した。

「・・・マキ、冗談だよな?」

「冗談なんかじゃないよ・・・」

 マキは座卓に置かれたままになっている涼介のお猪口ちょこに日本酒を注ぎながら、柔らかい顔でそう答えた。

「ねぇ、何で突然そんな事いうの?・・・訳分かんねぇし・・・てか、何か俺の事試してんのか?」

 涼介は少し語気を強めてそう言った。

「・・・・・」

 マキは涼介を正面で見つめていた。

「・・・・・」

 涼介はマキの視線から逃げる様に煙草に手を伸ばした。

「・・・終りにするなら、今だよね」

「今だよねって、なぁマキ、おかしいぞお前・・・」

 涼介の目は訴えていた。

「そうかなぁ・・・」

「そうだよ」

 涼介の声に力が入った。

「・・・それだけ?・・・」

 マキは二人の恋愛を終りにしたくないという思いを瞳に込めて涼介を見つめていた。

「それだけって?」

「・・・それだけ・・・なんだ・・・」

「ああ・・・それだけだよ・・・」

「・・・・・」

 マキは肩から息を逃がした。

「・・・・・」

 涼介はうつむき加減で煙草の煙を一つ吐いた。

「・・・じゃぁ・・・別れよ」

「じゃぁ別れよってさぁ・・・本当に本気で言ってんのか?」

 混乱で舞い上がった涼介の心はほこりのように漫然まんぜんと体の中をただよい、動揺を静めて抑え込む事に躍起やっきになっていた。当然マキの瞳の中の切なる想いを洞察どうさつする事など不可能だった。

「・・・本気だよ」

 マキは笑顔に乗ろうとする哀しさをぎりぎりの所で押さえた。

「どうしちゃったんだよ、お前・・・」

「・・・・・」

 マキは涼介のその問い掛けには答えず、座ったままマフラーを巻き始めた。

「勘弁してくれよ・・・」

 涼介はマキへの愛情を言葉にする事が出来ないでいた。

「・・・なぁ、マキ・・・」

 涼介は今夜が二人の未来を決める大切な夜だと直感しておきながら、一度心の隅にほうむった〝愛してる〟の言葉を蘇生そせいさせて取り出す事が出来なかった。

 涼介は唯、マキを目で追っていた。

 マキはコートを着終わっていた。

 涼介は煙草の火を消そうとしていた。

 愛を伝えて欲しいとマキは心ですがっていた。

 涼介は灰皿の中で消え残る煙を横に、再び煙草を吸おうとしていた。

「・・・・・」

 マキは涼介の無言に、にじみそうになる涙を耐えていた。

 二人はほんの少しだけ意地を張り、些細ささいで他愛もないな自己主張を続けていた。

 マキは来年から始まる未知の環境に飛び込む前に、今夜涼介に二人の間に何ヶ月も続いた嫌な流れを断ち切って欲しいと願っていた。

 涼介は今夜、幸せをはぐくむ為に乗り越えなければならなかった最大の壁を傍観ぼうかんしてしまっていた。

 マキはごくわずかだけ結論を急ぎ、涼介はごくわずかだけ素直になる事が出来なかった。

 涼介は煙草をくゆらせていた。

 マキは耐えていた。

 二人はお互いの気持ちを察し合い、自身の感情を譲る選択肢を閉じたまま、愛という名のもとに同じ方向を見つめ合い続け、無二の人生を二人で構築して行く為の転機をり過ごそうとしていた。

「・・・・・」

 涼介は愛するマキに、今、伝えなければならない大切な言葉を口にするより、その切なる想いを今夜どの場面から切り出しても構わなかった事を振り返り、自分を責めるていわざかもしていた。

 涼介は愛情の幅を甘く見積もっていた。

 マキは愛情の深さを決め付けていた。

「・・・じゃあ・・・ねっ・・・」

 マキは笑顔を振り絞って席を立ち、二人の間に続いていた長い沈黙を区切った。

「じゃあねって、マキさぁ・・・」

 涼介は立ち上がったマキをびる様な目で見上げた。

「・・・・・」

 マキはゆっくりときびすを返した。

 涼介は言葉を選んでいた。

 背中に出そうになる辛い気持ちをマキは堪えていた。

 涼介は黙ったままだった。

 マキは振り返えらなかった。

(・・・じゃあねじゃねぇよな・・・まったく・・・)

 涼介はマキへの愛情をなまけ、情熱を出し惜しみ、マキを呼び止める事もマキの後を追う事もせず、煙草の煙を吐き出しながら心でそうつぶやき、お猪口ちょこに残っていたぬるい日本酒を飲んだ。


「何かあったの?」

 何も言わず飛び出して行ったマキを心配していた板さんは、支払いを済ませ様とレジに来ていた涼介に立ち入った。

「いや、別に、何でもないです・・・」

 涼介は笑顔を作れなかった。

「そう・・・なら、いいんだけど・・・」

 板さんはマキの涙を心に仕舞しまった。

「ごちそうさまでした」

「あいよっ、有難うございましたっ」

「どうも」

 涼介は会釈えしゃくし、きびすを返した。

「・・・・・」

 店を出て行こうとする涼介の背中に、板さんは何かを伝えたい視線をずっと送っていた。


「ふーっ・・・」

 ひのきの引き戸を閉めた涼介は、はっきりとした息を夜空に向かって一つ吐いた。

(・・・クリスマスまで何とかなるかなぁ・・・)

 涼介は月を探しながら心の中でそうつぶやき、自宅へ続く本牧の裏通りを歩き始めた。

「・・・大丈夫だよな・・・」

 涼介は冷たくなって来た両手をポケットに突っ込み、自分自身にそう問い掛け、再び頭上を見渡した。

 月の出ていない寒い夜だった。

 涼介は何時かの寒い冬の夜、青く澄んだ輝きを放っていた月に照らされ、マキと寄り添いビデオショップまで歩いた時の二人の蜜月みつげつを振り返り、切ない気分を追い払おうとしていた。

「・・・大丈夫大丈夫」

 涼介は見えない月と自分に向かってそう言った。それはマキの決心を見縊みくびり、マキとの恋愛をぬるく楽観しているあかしでもあった。


つかさ〟でマキが涼介に背中を向けた夜から一週間が経っていた。しかし涼介は暮れ行く年の中で仕事に追われている現実を盾にマキへの連絡をおこたっていた。自宅に散らばるマキの洋服や下着、化粧品やアクセサリーがその位置を変える事無く存在感を示している事も、涼介に見当違いのぬるい余裕を持たせる事となっていた。

 あの夜、愛するマキに素直な気持ちを伝えなかった事は大きな誤りだったと涼介は気付いていた。しかしその後マキに心を寄せる事を逡巡しゅんじゅんし続けている事実の方が、より致命的だという事には涼介は気付いていなかった。

 涼介はクリスマスを一人で過ごした。そして涼介は一つの年が終わろうとしているにぎややかな街に身をゆだねるたび、大切な女性を無くしたのではないかという、ずるいあせりを感じ始めていた。

 涼介はマキを惜しみなく奪わなければならない事を理解しているにもかかわらず、その情熱を自分で自在に組み立てた都合の良い運命論に凌駕りょうがさせ、懸命で健気けなげな姿をマキに見せる事を美しいとしなかった。そんな涼介の愛情を都合良く運命に依存する流儀りゅうぎは、愛は情熱を乱舞らんぶさせ形振なりふりり構わず遮二無二掴しゃにむにつかみ取るものでは無く、受身の形を貫く事に美学を見出していた。そこには守るべき女性を守るべき時に守れない、自意識過剰な男の醜いナルシズムがあった。



 涼介は年が明けてしばらった頃、取引先から会社へ戻る途中の関内駅で美由紀に会った。

 美由紀はマキの親友であり、涼介は美由紀と親しくしていた。

「佐久間さん!」

 美由紀は涼介の後ろ姿に声を掛けた。

 涼介はその声に気付かず改札を出ようとしていた。

「佐久間さん!!」

 美由紀は真顔で二度目の声を出した。

「・・・おう、久し振りだね、元気?」

 涼介は歩く速度を緩めながら自分を呼ぶ声の方へおもむろに振り返り、相手が美由紀である事に顔を緩め、美由紀が目の前に走り来る迄待った後、落ち着いた声でそう言った。

「元気ぃじゃないですよ!マキと全然会ってないんですか!?」

 美由紀は挨拶を省いてまで事の重大さを声に乗せた。

「まぁ・・・ね」

 涼介は少したじろいだが、まだ落ち着いていた。

「まぁねって、別れるんですか!」

 美由紀は鬼気迫ききせまる声と顔で核心かくしんを突いた。

「・・・別れるっ・・」

「マキは本気だったんですよ!・・・何で?・・・この前私ん家でめちゃめちゃ泣いたんだから!!」

 美由紀の叫び声は構内に響いていた。

「・・・・・」

 涼介は美由紀の声に乗ったマキの事実に、言葉にしようとしていたマキへの思いを心に押し戻されていた。

「何でなんですか!・・・佐久間さん!・・何でなんですか!!」

「・・・・・」

 美由紀の強い瞳に涼介は天を仰いだ。

「リョウのお陰で優しくなれるんだよって、リョウが居るから強くなれるんだよって、私、何時もそんな話聞かされてたのに・・・この前突然私ん家に来て・・・あんなマキの姿初めて見たんだから!」

「・・・・・」

 気持ちをたたけて来る美由紀の姿に涼介は喋る言葉を失っていた。

「何で電話ぐらいしてあげないんですか!!」

 美由紀は更に訴えた。

「・・・・・」

 涼介は美由紀の直情に心を切り裂かれ様としていた。

「ねぇ!何で!!」

「・・・・・」

 涼介は美由紀を直視出来なくなっていた。

 涼介は心の中で眠らせていたマキへの深い想いを、突然美由紀に荒々しく叩き起されていた。そして目の醒めた〝マキへの愛情をもてあそぶ自分〟という人格に鏡を向けられ、その中に映り込んでいる軟弱な心を正面から見つめさせられていた。

「・・・・・」

 美由紀は瞳で涼介を叩いていた。

「・・・・・」

 涼介は喋れなかった。美由紀に声を掛けられた後、美由紀の勢いに気持がえ、閉ざし、喋る事もせずこの場から去ろうとしていた卑怯ひきょうな心のり方が美由紀から向けられた鏡に映っていた。言い訳の一つも探せないまま現実から目をそむけ続けている情けない自分の心が鏡に映っていた。

 北風の強い午後だった。

 美由紀は木枯らしの様な風に髪を乱されながら訴え続けていた。涼介はコートのすそ甚振いたぶられながら立ちすくんでいた。

〝マキは本気だったんですよ!〟と美由紀は何度も叫んでいた。そして〝何でそんなひどい事するんですか!〟と食い下がっていた。最後には〝マキに電話してあげて下さい!〟と懇願こんがんしていた。

(・・・・・)

 涼介は街へと消えて行った美由紀の残像をしばらくその場所からずっと見ていた。

 涼介の胸は張り裂けていた。

 街路樹の落ち葉が涼介の足元で舞っていた。

(・・・・・)

 涼介はマフラーを巻き直し、ゆっくりと歩き始めた。

(・・・・・)

 気持ちを立て直せないまま歩いている涼介の視線の先に、駅の入り口に立ち並ぶ公衆電話があった。

 涼介の頭上にはミディアムグレイの空が重く広がっていた。

 北風は街を乾かし続けていた。

 涼介の瞳は公衆電話をとらえていた。

(・・・・・)

 立ち止まっている涼介の心の中には、マキへ捧げるべき〝愛してる〟という魂の声がき上がっていた。

 街は北風で乾き続けていた。

(・・・・・)

 涼介はステンカラーコートのえりを立てた。そしてコートをいつくしむ様に両手をポケットに入れ、公衆電話に背を向けた。

 駅に向かって足早に歩く人達が涼介の横を通り過ぎていた。

 歩道の落ち葉は時折激しく舞い上がっていた。

 涼介は情熱をさらけ出す自分を美しいとせず、不埒ふらちな美学を貫き、ナルシズムを忠実に守った。それは同時に涼介が育むだろう今後一切の愛に対して、人として誰もが潜在的せんざいてきに持っている、愛に対する直情的で無骨ぶこつな感情を永遠に封印する事も意味していた。

(・・・・・)

 涼介は北風にあらがう様に歩きながら、2年前のクリスマス、コートをプレゼントすると言い出した時のマキの笑顔を思い出していた。

 涼介は最愛の女性に心だけは手前勝手にり寄せていた。しかし涼介にはそんな自分のぬるい行動の代償が、計り知れない悔恨かいこんの情となって今後ずっと心を支配し続ける事になるなどと夢にも思っていなかった。



    ドキドキする様な恋をしたいけど

    思い通りに運ばない時は

    夕暮れの風 吹かれると何故

    切なくなったり思い出したり

    今ならやり直せるかもしれないけど

    言い出せる筈なくて


                “PACIFIC SHORE HOTEL” by SECTION S.


 マキもクリスマスを一人で過ごしていた。12月27日の誕生日も一人で過ごしていた。寂しくてり切れなくて誰彼だれかれの区別無くCDを聴き続ける夜もあった。

 マキはあの夜〝別れよっか〟と言った事をずっと後悔していた。そしてあの日以降電話の前から動けない夜が増えていた。受話器を握り締めダイヤルをプッシュし掛けた事もあった。しかしマキは出逢った頃の様に素直になれないまま孤独と戦っていた。

 マキは涼介を信じていた。例えそれがどんな形でも、ほんのわずかな時間であったとしても、涼介が愛情を必ず自分の元へ届けてくれると信じていた。第三者から見れば苛立いらだちを覚えそうな、そんなつまらないこだわりが唯一の正解だとマキは信じていた。


    キラキラ季節は短か過ぎたけど

    想い出ばかり今でも溢れてくる

    夜が長くて 眠れなくて

    片付けたアルバム何度も何度も見る

    近過ぎる過去だから 傷がまだ痛むけど

    いい恋してたと思う


                 “PACIFIC SHORE HOTEL” by SECTION S.


 マキは就職する広告代理店の東京本社勤務が決まっていた。住居も会社が社員寮として借り上げているマンションの一室を使う事が決まっていた。

 新しい年が明け、入社の為の身辺整理を始めて以来、マキは入寮を決めた事を悔やみ、入寮をキャンセルすべきかどうかを悩んでいた。

 マキは涼介との間に残されているはずの絆を信じていた。寮は恵比寿にあった。入寮しなければならない3月も近くまで来ていた。マキは涼介に寄り掛かりたい想いを心からあふれさせながら、横浜を離れる事実が涼介との絆に絶望的な溝を作るのではないかと恐れていた。

 マキは涼介の事を二度と出逢えない最高の恋人だと思っていた。そして涼介との結婚をずっと願っていた。マキはあの日〝つかさ〟で涼介に背を向けた時からその想いをより一層強くしていた。故にマキはその思いを伝えられないまま環境が変わり、生活が変わり、人間関係が新しくなる事で、涼介への愛情を何時いつか心の隅で梱包こんぽうしてしまうかもしれない自分の行動を先回りし、責めていた。そこには明るくて大らかなマキとは別の、微妙に恋愛に臆病で恋に戸惑い愛を躊躇ためらう、見た目より涙もろくて強くないマキが居た。

 山手の丘には桜の季節が来ていた。元町に続く坂道には春の息吹いぶきが満ちていた。商店街には志高こころざしたかく気持ちを充実させている新しい人達の笑顔がはじけていた。涼介は塗り変わる景色の中で失った女性の大きさに今更ながら気付いていた。朝起きて眠るまで、そして夢の中までも全てにおいて最高の時間をマキが与えてくれていた事に気付き、胸をじられていた。

 マキは社会人として新たに始まった生活の至る所で涼介と過ごした最後の夜を振り返っていた。そして涼介にかざしてしまった半熟のままの恋の駆け引きを、絶対にやってはいけない事だったのだと後悔していた。

 二人は紛れも無く掛け替えの無い最高の出逢いをしていた。しかしその最高の出逢いを最良に変えて愛を育むには二人は若かった。世界で一番で、一生で一人の人だと形振なりふり構わず素直な思いをぶつけ、お互いの心に不変の愛を誓うには二人は若かった。主観的で情熱的な恋と自己犠牲さえいとわない愛を重ねて恋愛を成立させるには、二人は若かった。

 涼介の部屋にはマキの物がそのまま残っていた。

 寮での一人暮らしが始まったマキの部屋のクロゼットには、涼介からプレゼントされたピーコートが掛けられていた。

 二人の結末を若気わかげいたりという言葉だけで片付けるには余りに無情だった。


              △


(・・・・・)

 涼介は信号待ちの間にCDを止めた。

 左ウインカーの点滅音が車内を優しくノックしていた。

 助手席のガラス越しには涼介の自宅があるマンションが見えていた。

「・・・会いたい」

 涼介はつぶやいた。

 あれから10年が過ぎていた。マキに〝別れよっか〟と切り出された日から一度も会わないまま10年が過ぎていた。

 2年前、転勤で小倉に戻る為の荷造りをしていた時にマキの荷物を処分する事が涼介には出来なかった。

 捨てられなかった。

 それが全てだった。

 フロントガラスのずっと先に青く輝く月が出ていた。

 涼介は美しいその月と、何時いつか本牧の路上でマキと二人寄り添って見上げた月を重ねていた。


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