ナツメコンプレックス

叶あぞ

第1話 堕落探偵


 もうかれこれ二ヶ月は働いていない。ナツメの貯金はとっくに尽きていて、本を売って小銭に変えてその日の食事にあてている。その本も、本棚ひとつ分が終わったあたりから、急激に換金が難しくなってきた。というのも高値が付きそうな本から優先的に売り払っているため、必然的に金にならないものばかりが残ることになる。

 というわけでそろそろ一日一食の生活に突入しそうだ。一日二食生活にはかなり前から突入していた。二ヶ月前に計算したときには半年は貯金だけで持つはずだったけど、タバコと酒を買う分を計算に入れていなかった。なぜならその時点では、タバコと酒をやめるはずだったからだ。仕事をせずに生きていくためならタバコも酒もやめられると思っていた。実際には一週間だけ、禁煙と禁酒を実施した。

 これまでのあらすじを説明するなら、この街の治安維持機構はとっくに崩壊していて、政府は治安維持の一部を民間の警備会社に委託するようになった。探偵バブルの始まりである。どれくらいバブルかというと、身分証も持たない外国人であるナツメが「探偵」を自称していても問題にならないくらいにはバブルだった。

 それくらいの探偵バブルの中で、二ヶ月も仕事がない探偵は、きっとナツメを含めてもこの国では数えるほどしか見つけられないだろう。ナツメが外国人であることはこの際問題ではなかった。警察はいつでも人手不足で、腕の立つ探偵に捜査を依頼したい事件はいつも行列を作っていたし、実際ナツメは腕も立った。

 何のことはない、彼女の労働意欲の問題なのである。

「あー、この本ともお別れか……」

 探偵事務所の椅子に座り、右手には安ウイスキーの入ったグラス、左手には吸いかけのタバコ、机の上には本棚から見繕ってきた本が何冊か積んである。

 これが今夜の夕食になるのである。今はそのお別れ会だ。

 そのとき、元気よく階段を上る音が聞こえてきて、少し経ってから事務所のドアが開け放たれた。ナツメは誰何することなくウイスキーを静かに傾ける。どうせこの事務所に来るのは自分以外ではアリーしかあるまい。

「わっ! 煙い煙い!」

 アリーは大げさに言って、窓に飛びついて換気を始めた。冷たい空気が室内に入ってくる。

「寒いよ」

「だって煙いんだもん。タバコやめなよ」

「アリーも吸うか?」

「タバコは健康に悪いんだよ。お父さんに怒られるよ。それにわたしはまだ大人じゃないから吸えないんだよ」

「私は子供のころから吸ってたけどね」

「ナツメのお父さんは怒らなかったの?」

「怒らなかったよ」

 その頃には父は死んでいた。嘘はついてない。

「タバコが嫌ならウイスキーは? あいにくフィンガーフード(つまみ)はないけどね」

「お酒は健康に――」

「せっかく来てくれたのにろくなもてなしもできずに申し訳ないね。この事務所には健康を害するものしか置いてないものだから」

「わたしへのもてなしのことより自分のことを考えなよ」

 と、アリーはナツメに冗談じゃなく真面目な顔で忠告した。

 そういえばアリーは今年で何歳になるんだったか。初めて会ったときに年齢を聞いた気がするがそのときは泥酔していたので会話の細部が思い出せない。外見からすると17か18というところだが、何せ西洋人の年齢は見た目だけではナツメには分からない。

「……その本」

「今日の夕飯にしようと思ってね」

「それ、食べられる本なの?」

「そんなわけがないだろう。売りに行くんだ」

「うーん、でもこれ売れるかなあ。『検視における解剖の手順』、『初級ヴァイオリン入門』、『古代ギリシア呪詛版研究』……前の『食べられる草花』ってやつは売れそうだったけど。欲しがる人多そうだし」

「あの本、タイトルだけ見たら良さそうなんだが、森の奥まで行かなくちゃ見つからないような草花しか載ってなかった。どうせそんなところに行くなら野生の鹿でも狩る方がずっといい」

「ナツメは狩りしたことあるの?」

「ないけど、銃で撃ち殺せばいいんだろ? 射撃には自信があるよ」

 指で銃の形を作った。

「うーん、そうだけど、撃った後も大変だよ。持ち帰って解体しないといけないし……」

「バイクじゃ無理そうだな……」

 事務所の駐車場にはナツメのバイクが停まっていたが、先週出かけた先でガソリンが切れて以来、給油もままならずナツメは徒歩での移動を強いられていた。

「でも大丈夫! もう本を売らなくても良くなったよ!」

 突然アリーが大きな声を出した。大きく腕を広げる。そのまま抱きつかれるのかと思った。アリーはたまにナツメにそういうことをする。しかしタバコを吸っているナツメには近づきたくないのか、その場で広げた両手を下ろした。

「食べられる草花でも生えてたのかい?」

「そうじゃなくて、お仕事を見つけてきたの! お父さんの知り合いの人から!」

「…………」

「え、何? ナメクジを噛んだみたいな顔して……」

「残念ながら私は本を売るので忙しいので……」

「探偵でしょ! お金ないんでしょ! せっかくわたしがお父さんにナツメのことを売り込んで紹介してもらった仕事なのに! わたしの顔を潰す気?」

 一体アリーはどうしてそんなセールスマンみたいな真似をしたのだろう。

「そもそもナツメはどうして仕事をしたくないの?」

「だって私が関わる事件っていつも最後ろくなことにならないじゃないか……この前のフリッグ橋の事件だって……」

「あれはナツメが欲を出して事件の暴露本を出そうとしたからじゃん」

 そのせいで遺族から訴えられた結果、事件解決の報酬が和解金に消えてしまった。

「だからっていつまでも飲んだくれてるわけにはいかないでしょ。ほら、シャキッとして! 次の事件を解決しなきゃ!」

「なんで私は探偵なんかやってるんだろうな」

 ぼやいて、ウイスキーをちびちびと飲む。なぜ探偵をやっているのかは明白だ。ナツメには他の職業に適性がないからである。

「ほんとに、迷惑だった……?」

 と、アリーが突然しおらしくなった。ナツメはグラスに残ったウイスキーを一気に飲み干して、タバコを灰皿でもみ消した。

「それで、一体どういう話かな?」

 アリーの表情筋はスイッチが入ったみたいに笑顔を作った。

「あのね! 腕の立つ何でもできる探偵が必要なんだって! バーンハードさんって人なんだけど、お父さんの知り合いの人で、信頼できる探偵を知らないかって言ってて、お父さんがナツメのことを紹介したの。そしたら面接したいから屋敷に来てくれって。今日」

「なぜ?」

「さあ。依頼の内容は秘密なんだって。探偵を探してることも内緒にしてほしいって」

「そうじゃなく、なぜきみの父上は私のことを信頼できる探偵だと紹介したんだ?」

 アリーの父のことは彼女からよく話を聞いていたが、実際に会ったことは数回しかない。

「きみの父上は私のことを嫌っていたと思っていたけど」

「そんなことないよ。ナツメは美人で賢くて可愛いって」

「最後にお会いしたときは『娘の将来をめちゃくちゃにする反社会的なゴミ』って言われたけど」

「お父さんはナツメのことを誤解してるの。バーンハードさんの事件を見事に解決したらお父さんもきっとナツメのことを見直すわ」

 なるほど、つまりアリーの父上はバーンハード氏のことを、「反社会的なゴミ」を紹介するくらいにはどうでもいいと思っているらしい。

「ところでさっき聞き捨てならないことを聞いた気がするんだけど、面接は今日だって?」

「そうだよ。今日の午後七時」

 ナツメは腕時計を見た。この時計は一時間遅れているから、約束の時間までは五時間ほどか。

「だから今日はお酒はもう飲まない方がいいよ」

「……じゃあ今からそのバーンハード氏の屋敷に行って、依頼とやらを断ってこなきゃ」

 アリーが驚いた顔を作った。

「私は警察や捜査機関からの依頼は受けるけど個人からの依頼は受けないようにしてるからね」

「どうして? それは本を売らなくちゃいけないことよりも重大なことなの?」

「単に私が犯罪捜査以外では役に立たない性格だからだよ」

 ナツメは伸びをしてから立ち上がった。洗面台へ行って水を一杯飲み干して、顔を洗って軽く身支度を整えてから戻った。アリーが不服そうにナツメの席に座って待っていた。

「そうして座っていると私よりもアリーの方が探偵らしく見えるね」

「そういうおべっかは好きじゃない。わたしじゃ背が足りないもの」

「探偵に必要なのは背じゃないよ。ところでミスター・バーンハードの屋敷はどこにあるんだ? 徒歩で行ける距離か? 無理ならバーンハード氏にガソリン代を請求しなきゃ」

「待って。今地図を書くから」

 アリーが椅子から飛び降りた。




 大抵の金持ちの家がそうであるように、バーンハード屋敷の周囲は黒い鉄の柵で囲われていた。

 時刻はすでに七時半を回っている。高級住宅地だからか、近所に酔っぱらいが騒ぐ声や強盗が窓ガラスを割る音は聞こえない。夜なのに静かなのがナツメには奇妙に感じられた。

 呼び鈴を押すのはこれで三十一回目だ。門のはるか向こうに見える屋敷の中から微かにブザーの音が聞こえたがそれっきりだ。屋敷から出た者も入った者もいない。

 屋敷の門に鍵がかかっていないことはすぐに分かった。

 もしバーンバード氏がナツメとの約束を忘れて外出したのであれば門が開けっ放しであるのは不自然だし、逆に屋敷の中にいるのに反応がないというのもまた不自然だった。

 三十分待った。これで言い訳は十分に立つはずだ。

 ナツメは門を開けて中に入った。歩きながら、コートの胸ポケットに突っ込んできた回転式拳銃の存在を確かめる。テラスから屋敷の中が見えたが、照明はついたままで、人の動く様子はない。

 庭の隅に車が停まっていた。轍が門の方へ続いている。車の横にも何台分かのスペースがあり、そこにも轍が残っていた。

 玄関までたどり着いた。ドアノブに軽く触ると、こちらにも鍵はかかっていなかった。念のため、ドアを強く叩いて声をかけてから中に入る。ナツメは拳銃を取り出した。弾が入っていることを確認する。

 そのまま足音を殺して屋敷の一階をぐるりと一周する。誰とも会わなかった。広い屋敷で、慎重に歩いていたのもあって、たっぷりと十分以上もかかった。

 シューズボックスに入っていた靴の種類とサイズから推測すると、少なくともこの屋敷には女性が二名以上と男性は三名以上が普段から住んでいるはずだ(もちろん、屋敷の主がハイヒールフェチである可能性もある)。室内に争った形跡はないし、車が消えていることから、屋敷の人間の多くが外出しているのは間違いない。今日は探偵の面接があるから、屋敷の主人が人払いをしたのだろうか。だとしたらその主人はどこにいる?

 ナツメは玄関の正面にある階段を登った。

 二階もぐるりと回ろうとして、ナツメはすぐにその匂いに気づいた。むせ返るような錆の匂い。血の匂い。

 拳銃を前に向ける。ゆっくりとその部屋に近づいていく。

 開いたドアの隙間から、男がうつ伏せで倒れているのが見えた。

 死角に注意を払いながら室内に入る。銃を構えたまま屈んで男の首に触れた。脈はすでにない。絨毯に染み出した血液の池は端のほうがすでに乾き始めていた。

 室内に誰もいないことを確認してからナツメは拳銃を仕舞った。

 屈んで男の顔を見る。年齢は五十を超えているだろう。髪と口髭は黒に染めているようだがよく見れば根本に白髪が混ざっている。身なりを気にする人物で自分を若く見せようとしている。これがバーンハード氏だろうか。

 肩を掴んで男の体を仰向けにひっくり返した。体の前面にべったりと血がついていて、胸の部分の服が裂けているのが見えた。手で服の切れ目を開いてみると、その下には鋭利な刃物で傷つけられた皮膚が見えた。

 正面から一突き、出血多量で死んだ。死んだのは血液の乾き具合から判断して少なくとも三十分以上前だろう。つまりナツメと約束していた時間よりも前に殺されたことになる。

 そのとき、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえた。

 部屋を出て屋敷の正面に面した窓を探す。パトカーは屋敷の門の前に停まり、中から警察官が出てきた。迷うことなく呼び鈴を押す。

 ビーッ! 不快なブザーが鳴る。

 ナツメは死体の部屋に戻って観察を再開した。ブザーの音はそれからも何度も何度も屋敷に響いていた。


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