エピローグ 桜舞い散る、あかよろし
例えば――冷たい霧雨の中、物騒な連中に追われている美女に助けを求められたら、どうする?
誰だって、善意とか正義感とか……少なくとも日常の変化に期待して手を取るだろう?
正直言えば。
俺は下心丸出し、煩悩てんこ盛りで、その手を取ったんだ。
浮かれて喜び勇んだその気持ちを、ときめきだなんて言ったら少し綺麗過ぎるけれど。
始まったのは、荒唐無稽なんてかっこついた四文字熟語で表現するのも失礼なほど、バカと冗談といい大人が口にするのは寒い下ネタがオンパレードの大茶番。
――そして、その結末もなかなか酷いものだった。
『だから電マが無いって言ってるでしょ! 弁償! 弁償と備品持ち出しの罰金! 払ってくださいね!』
「それ言ったらメイド服とセーラー服が入れ替わっていたみたいなんですけど!」
『知りません、返品不可って書いてあります!』
万が一、煩悩ベルトが見つかったときの保険として俺はラブホテルのロビーに携帯電話の番号を伝えていた。
あの晩、ほぼ唯一と言っていい俺の善行は、ねじり切れんばかりに手の平を翻したのだ。
六畳一間のザ・貧乏ルーム。
薄っぺらな布団から上体を起こしつつ、俺は携帯電話と不毛過ぎる言い争いを続行する。
ラブホテルからの電話でたたき起こされた俺は、Tシャツにトランクス、頭はぼさぼさの有様。
まさしく寝起きの風体を、差し込む夕刻の西日に晒していた。
結局のところ、俺が根負けして電動マッサージャーの弁償金と備品持ち出し金二万円の罰金を払うことになり、来月再来月の財布事情を死に追いやった。
オーバーキルだ。
腐っていても仕方がないし、これ以上眠れないくらいに横になったので俺は渋々立ち上がり体中の筋肉を伸ばす。
「ベルトの情報も売れないし……さて、どうすっかなあ」
……下腹部。
煩悩ベルトの存在を感じた。
夢じゃないのか。
まあ、そうだろうな。
だからこそ俺はラブホテルのババアの不愉快な電話で叩き起こされたのだ。
これから、俺は変身ヒーローなんてやってくのか?
冗談じゃない。勘弁してくれ。二度とゴメンだ。
これは、どうやったら外せるんだ?
アキラってやつ、やたらボンノウガーに詳しかったけど、結局何者なんだ?
黒服連中は剣咲組じゃないのか?
馬頭観音ハヤグリーヴァって、何だったんだ?
オヤジ、何か知ってたのか?
それから――。
「…………」
優月。
様々な疑問が駆け巡る。
溜息に変わる。
「ま……とりあえず、小便だな」
今くらい、ぼーっとしてもいいだろう。
なんせ俺は怪しげな自称観音様を倒した、自称ヒーローなんだから。
……それにちょっと、失ったもののせいで心が痛い。
部屋を一歩踏み出すと軋む木造建築、
風呂もトイレも共同、和室六畳、クモやムカデやゴキブリは当り前で住人のリテラシーは皆無。
良い所は、華武吹町三丁目という立地の割に家賃三万円と激安なところだ。
二階の二〇二号室を出ると埃でベタついた木目の廊下が左右に続き、天井には白熱灯が三つぶら下がっているだけ。
電灯よりクモの巣のほうが多い。
数ヶ月前にとうとう管理人のばあさんが俺たち住人に呆れて出て行ってしまったのでいまや神も仏も見放した無法地帯だ。
こんなんだから女の子を自宅に呼ぶとか器用なことが出来ないわけですよ。
万が一、そんな話になったとして、まずはまさしくボロ、まさしく汚いを地でいく外観にドン引きするに決まっている。
だから、こんなところで鈴を転がすような声(尊大)が聞こえるはずがない……のだが。
「こんなところだけど、本当に大丈夫?」
「問題ない。古いのも汚いのも、慣れている」
彼女の運の悪さに両手を合わせてから、俺は廊下の窓を開けた。
夕刻のアンニュイな空気の中、ちらちらと雪のように桜が舞っていた。
霧雨に凍えず無事に開花を迎えたらしい。
望粋荘の門前、久しぶりに見た大家のばあさんと並んで歩いてきた優月は清楚な白のワンピースに薄化粧などして一層存在感を
「じゃあ決まりね。荷物が纏まったら管理人用のマスターキー渡すから」
「承知した」
彼女は相変わらずいいカモだった。
大家のばあさんの様子だと、俺たちの態度の悪さなんて説明していないんだろうな。
優月は残念ながら、また騙されてしまったということだ。
とはいえ、華武吹町で格安で居つける場所なんて限られている。
確かに器量良しだが優月の物言いと性格でお水が勤まるわけがない。
それに……もしかしてママは俺がここに住んでいることも知っていたのでは? なんて思う節もあった。
何かと兆しを察していて、だから俺は彼女の登場にさほど驚きはせず、のんびりと二階の窓の縁に頬杖をついて、難しい取り決めの話をしている二人を見守っていた。
小難しい話が終わったのか、大家のばあさんが顔をあげる。
俺を見るなり「禅! 早く家賃払いな! 何にやにやしてんだい、気持ち悪い!」と大声を上げた。
いつもどおり俺は耳をほじって聞こえないフリを貫く。
そりゃあ、にやにやもするさ。
嬉しいんだもん。
「……禅」
優月の唇が動く。
今回のオチを予想外のところから叩きつけられた優月はというと、恐る恐る視線を、首を、身体を望粋荘に傾け、とうとう二階の窓ですっとぼけている俺に認識を向けた。
俺の側も、口半開きの彼女と目が合ってしまったので、これ以上とない爽やかな笑顔を向けて手を振って見せた。
「優月さーんっ!」
寝起きで前髪もしなしな、印象が違うだろうが、彼女は俺に気がついたようで……案の定、確信に表情を歪めていく。
まるで気がついたらヒールに刺さっていた犬のうんこでも見るような驚愕の目で睨み、顔色を真っ赤に染め上げると、彼女は絶望的に呟いた。
「最っ低……」
その台詞はちょっと早いな、優月さん。
ただの性欲なのか、一目惚れなのか、わからなくなっちゃったけれど、この煩悩はそう簡単に消えはしないみたいなんだ。
だから、この先もきっと俺はあなたに――。
意に介さず、無遠慮に、桜は吹雪いて幕を開けた。
<第一鐘「少年よ、煩悩を抱け」・終> To be Continued!
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