アフォガートと、誰も聞きたくない彼の話

名取

第1話



 目は閉じられても、耳というのは、悲しいかな、如何ともしがたい。


 できることなら、四六時中、ずっとイヤフォンを嵌めていたいものだけど、それは今の社会が許さない。無礼に当たるから。でも思うことがある。事前に話の内容を説明されないのに、突然、通り魔みたいに音声として生々しい言葉をねじ込まれるこの耳に、誰が礼儀を示してくれるというのだろう?


 自分の話を聞かせることで、聞いている人を喜ばせてあげたいだなんて、そんな人はもうほとんどいない。


 大半の喋る人間は、ただ「聞かせたい」。


 たったの、それだけ。


 肥大化した欲望を押しつけているだけ。

 満員電車の汚らしい痴漢みたいに。

 洗いもしない、飾りもしない、己の剥き出しの欲望を、他人様の耳に流し込むのが好きなのだ。とかく人間という生き物は。



 耳を、鼓膜を、

 殴るように、嬲るように、

 汚すように、舐めるように、


 誰かの口から出た言葉が、音となって、波長となって、

 不快なリズムと、不快なメロディで、

 この耳を浸食してくる。

 それがどれだけの苦痛か、なんて。



 意味の無い、大きな笑い声。


 悪意のある社交辞令。


 嘲り笑いに、他人の品定め。



 もう、たくさんだ。


 



 ……そうして私が自分の両の鼓膜を破った夜、世界から音が消えた。未練はなく、いっそ清々しい気分だった。もちろん鼓膜が再生することくらい知っていた。でも私があまりにも強い力で耳に鉄串を差し込んだので、手術が必要になった。

 そしてその手術は、失敗した。



 そんなわけで私は、長年待ち望んで止まなかった、無音の王国を手に入れた。そこではすべてが美しく、すべてが静かで、世界の全てを心から愛することができる。心は満たされ、聞きたくないことは、何も聞かなくて済む。聞いたとしても、以前のように、何の予告もなく酷い言葉を耳にねじ込まれることはない。私は、とても幸せだった。






 幸せだったはずだった。





 彼が私の所にやってくるまでは。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る