50 なんでもない日を旅してゆく

「透子さん、SNSやめないんですね」

 だれもいなくなってから夕日に染まる公園はひぐらしの声が響いていた。風見鶏はそよ風にあおられて定まらない方向を指していた。夏の初め、錆びた音を奏でていた風見鶏はいつの間にかペンキを塗り直されていた。部品が交換され油も新しく差されたたのか金切音も鳴っていない。寂れた茶色の斑模様だったのがワーゲンバスと同じ新緑色になっていた。

 透子さんは彼女の言葉に首をかしげる。

「どうして?」

「居場所、どこにいるか筒抜けなっちゃうからやめちゃうのかと思ってました」

「さすがにね、そういうことはもうしない」

 近江屋商店で買ったラムネの瓶をかたむけて乾杯し、ビー玉の栓を落とし泡が吹き出た。二人して溢れ出すのを口でおさえて一気にあおる。騒がしくなった口のなかが落ち着くまでひと息ついて、するりと聞きたいことを聞いた。

「ていうか透子さんてわたしのこと好きですよね」

 少し目を見開いた透子さんは次に目を細め、口端を上げて挑発するようにいった。

「ふーん、そういうこといっちゃうんだ。ちょうどコスモス咲いてるし花占いで決めよっか?」

「やめときます。わかりきってるのに花占いなんて野暮ですもん。あ、そうだ。わたしプレゼントあるんですよ」

 そういってワーゲンバスの助手席に置かせてもらっていたバッグからプレゼントを取り出した。透子さんの元へ戻り、目の前に差し出す。

「あの絵本、お気に入りの作品だったんですね」

「なっちゃんも買ったの? あれ、でも私なんにも言ってなかったような」

「偶然です。たまたま。好きな作品被っちゃいましたね」

 そういって新しい絵本を手渡した。「これ差し上げるので、代わりにあの絵本ください。次に会うときまで大事にとっておきますから」

 透子さんは絵本を手に取り、いったん横に置いてワーゲンバスに向かった。戻ってくるとき持っていたのはあのぼろぼろの絵本だった。

「それとこれも」彼女は後ろ手に持っていた花の種のラッピングも同時に差し出す。「なんの花になるかは咲いてからのお楽しみです」

 透子さん同様に小さな植木鉢セットと共にした花の種を透子さんは受け取り、ぎゅっと両手で包み込んだ。

「なんにもない根なし草の女の人なんて将来性ないよなあと思ってたけど、まさか私よりずっと年下の女の子から慕われるなんて思ってもなかった。負担にしかならないような自分なんて。私もなっちゃんに渡そうと思ってた花の種、渡すね。お互い咲いたら写真撮って送ろっか」

「そうですね。連絡とり合う楽しみがひとつ増えますし……」

 ふたたび隣に腰かける透子さんの手をとって彼女はぐっと力を込めた。いかせたくない、この町にとどまっていてほしいと願いを込めた。

「ありがとう。でも、やっぱりいっしょにはいられない」

「それは読み聞かせの旅を続けないとだからですか」

「それもあるけど、それだけじゃない」

「じゃあどうしてですか」

「だってなっちゃん進みたい道が見えたじゃない。大学いくんでしょ。大学いって本について学んで、小説書いて私に読んでもらう夢が出来たんでしょ。お互い夢があるんだよ。叶えたい夢が」

 そんな大それた夢が自分に実現できるだろうか、なんにも長続きすることのなかった自分に、何年もかかる夢を追いかけ続けられるだろうか。適当にバットを振ったらホームランになったとか、ビギナーズラックで宝くじが当たったとか景気のいい話をよく見聞きするものの、彼女の前にはやはり漠然とした不安の道が待ち受けていた。しかしそれでもその道の先に、もう一度会いたい人がいた。

「10年でいいですか」

「ん?」

「10年後までに透子さんがどこにいても届くくらいの小説書いてみせます。それでいちばん初めにわたしに読んでください。約束します。だから約束してください」

「10年後までに私の気持ちがなっちゃんにあるとは限らないんじゃない? それにそのころだとアラフォーでぜったい小じわとか増えてるし」

「そんなこと気にしませんよ。わたしは」どこまでも素直な言葉が胸の中に落ちてくる。

「でもやっぱりまた、透子さんとこんなふうに、いろんなもの見て、いろんなもの食べて、いろんな人に出会って、そういうのぜんぶ、透子さんといっしょなら、どんなに……」

 どんなにいいだろうと思っていても、それはたんなる願望だ。けれど。

「どんなにいいだろうなあ、って。思い始めると、止まらなくて……」

 透子さんは力なく笑った。「いやほんと、子どもって怖いなあ。とりわけなっちゃんは怖い子だよ」

 いつの間にか涙が溢れていた。透子さんも彼女も、別れを惜しんでなのか、ただこのときほんとうの心の底から離れ離れになりたくなかったからなのか、わからなかったけれど二人とも泣いていた。

「だいじょうぶ。自分の未来が見えずにちぢこまってたなっちゃんはもういないから」

 思いっきり背伸びしていいんだよ、そう言ってそっと抱きしめてくれた。背中を優しくさすられたその瞬間、になった。ほんの少しだけ等身大になって未来を見渡せるようになった。日本海が見渡せるお気に入りの公園で広がる世界に目を向けられるようになった。また会ったら、今度は背伸びなんかしなくたって透子さんと同じ目線で、二人して立ってこのなんにもない景色を見渡せたらいいと、そう決心した。

「ごめんなさい。透子さん、大好きです。また会おう、絶対に」

「うん。私も、絶対にまた会うよ」

 体から離れた透子さんが「そろそろ行かないと」と涙で濡れた両手を空に突きだして大きく伸びをする。

「今日の宿とってあるんですか。ていうか次どこに行く予定なんですか」

「じつはあと一県でひとまず東北制覇なんだよなあ。岩手県なんだけど、ちょうどここみたいに海沿いにある小さな港町でね、大槌町っていうんだけど……」

 そこから先、ふっきれた顔で透子さんが話していたことは頭に入ってこなかった。けれど、楽しそうな表情が夕日によって赤らむその顔だけがずっと鮮烈なイメージとして残った。だから別れの瞬間もじつはよく覚えていない。

 頭がいっぱいの脳裏にかろうじて残っているのは、見えもしない自分の後ろ姿だ。帰り道は足下に落ちる細長い影をたったひとり追うようにとぼとぼ歩き、その姿もにじんで寄るべを失ったひょろひょろの木偶の坊みたいだった。

 それでも家に帰ればいつものように家族が出迎えてくれて、わたしはいつもより少しだけ優しい人たちに囲まれて食卓を後にする。

 自室に戻り、贈られた種を見た。小石や砂粒と間違っても仕方ないような、なんの変哲もない花の種が、チャック付きのポリ袋に入れられていた。中に入って折りたたまれたメモに、植える時期と植え方、お世話の仕方のほか、きれいな字でこう書かれていた。


 夢でもあなたを想う。


 P.S.

 私の夢はなっちゃんに、ちゃんと「由芽」って呼んでもらうこと。


 別れてからこんなことを伝えるなんて、あの人は、子どもには真似してほしくないくらい、とことんずるい大人だ。

 けれど、とも思う。

 透子さんは理解するのも難しいような、特別なことなんてなにも望んでいない。ふつうの人がふつうに望むことを、透子さんにしかできないやり方で求めているだけだ。

 わたしの生活はいつもの日常に戻った。夏休みが終わり、受験のための学びに励む。たくさんの思い出と透子さんとの約束と未来への夢をひっさげて、なんでもない日を旅してゆく。無味乾燥な問題文に日がな一日立ち向かい、負けてはいささかささくれだち、焦る心に気づいては旅の言葉を思い出す。いろんな方向に気持ちを向けるとささいなことに気づいたり、紙くずだと思っていたものが白い蝶だったり、動く心を拾い集められるようになった。

 年が明けた。センター試験を受けて、ぎりぎりの評価で志望大を受けて、なんとか合格した。透子さんに報告したらうれしすぎてスマホを落とし、一度通話が切れるというそんな笑い話もある。ほっと胸をなでおろし慣れ親しんだ自室からひとり暮らしの準備のために、大事にするためのものをまとめる。新しい部屋は街から少し外れた郊外、閑静な地域で日がよく当たる場所だった。

 わたしは子どものころに履いていたデニムの靴に花壇の土を敷きつめて、透子さんからもらった種を窓ぎわで育てはじめた。

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