第4話 エニスキス=コベルマンの愉悦
雪が降り積もった隣領近くの森のなか。
オルトロス様は、意外とすぐに見つかった。
それも生きている状態で。
「ご領主! お怪我は!」
そう言いながら近づいた僕はすぐに黙り込んだ。
無事、とは言い難かった。
頭部に皮が削げ落ちたような傷、左肩の先はなく、腹部からはとめどなく血があふれ出している。馬からなかば転げ落ちるように降りた領主様は、僕によりかかると、長い溜息を吐いた。ぼろぼろの全身には殆ど力が入っていなかった。
「護衛は皆殺られた。ワシも左腕とはらわたを持っていかれたわ」
「敵は、コベルマン伯爵ですか」
「左様。かなりの数じゃ。手練れが多くて、敵わん」
そういう領主様の全身は、黒々とした血に染まっている。
返り血だろう。おびただしい量だ。
何人もの刺客を、殺し尽くされたのだ。
「二十は殺った。伯爵の片腕も潰したはずじゃ」
「では、敵は引いたのですか」
「いや。殿を置いて、ワシはおめおめとここまで、逃げてきた」
悔しさを滲ませながら侯爵は言う。
その口元から、ごぼりと血が漏れる。
リグネッタ様が駆け寄って抱きしめるも、侯爵の息は浅い。
「急いで屋敷に戻り、体勢を整えましょう」
「そうね。コベルマンの追っ手が来る前に動かなければ」
僕らは手練れの護衛剣士に、意識をなくしたオルトロス侯爵を預けた。
連中の狙いが侯爵ならば、かならずここで殺そうとしてくる。
仕損じたままでは、悪行がバレてしまうのだから。
「あとは手負いのコベルマンを討つだけよ」
お嬢様が、恐ろしい顔で呟いた。
と、フロンシアが近寄ってきて、僕らに耳打ちする。
彼女は僕ら二人に、屋敷に戻れと言った。
「フロンシア、あなたはどうするつもりなの?」
「侯爵が屋敷へと戻る時間を作ります」
リグネッタ様の問いに、彼女はそう答えた。
だがそれが意味するのは、殿だ。
彼女が買って出たのは、殿の役目だ。
僕は首を横に振った。
「ダメだ、フロンシア。君に任せるつもりはない」
「しかし……」
「カーレイの言うとおりよ。殿はこちらの傭兵に務めさせる。あなたはお父様と一緒にいないと駄目。侯爵と一緒に……ちゃんと、そばに、いてあげてよ」
ベールの下のフロンシアに向かって、お嬢様が言う。
その優しい瞳と声色、僕は一度も向けられたことがないぞ。
だがそれでも、フロンシアは頷かなかった。
結局、お嬢様は無理やりにフロンシアを行かせた。
馬車の準備はすぐにできた。
フロンシアと侯爵の馬車が走り去っていく。
あとは僕たちだ。ここからどう退くか。
僕とリグネッタ様は、兵たちに短く指示を出し、安全を確保する。
ここで僕らが死んでしまっては意味がない。
だが、ここで主君が引けば、兵の士気は落ちてしまう。
苦肉の策として僕が考えたのは、コベルマンを追う、という名目で馬車を動かして、この場から早急に離脱することだった。もちろんそのことはリグネッタ様にもバレてはいけない。それでも、僕はこの人を死なせるわけにはいかなかった。
だがそのときお嬢様が言った。
「待って。奴は侯爵様を殺し損ねた。この件が明るみになれば、奴は窮地に追い込まれる。だったら奴は、この機会にもう一度、侯爵様を狙うかもしれない」
「じゃあ、フロンシア達が危ないというのですか!?」
「えぇ。だけど私たちを倒していく余力はない」
侯爵様がやられたとはいえ、敵の損耗もそれなりにあるはずだ。
だったら、真正面から攻めてくるとは考えにくい。
「コベルマンは、先回りして、すでに僕らの屋敷に向かっているかもしれない!」
「なんてことだ」
「カーレイ! いくわよ!」
お嬢様が、馬車に乗って走り出す。
コベルマンが侯爵を追うのなら、その後ろを更に追うのだ。
幸いにもこのあたりの道は、僕らのほうが詳しい。
馬のひづめはすぐに見つかった。
一直線に屋敷のほうへと続いている。
わずかな血痕が落ちていた。
やはり手負い。追いついてしまう可能性は高い。
くそ。
こうなりゃお嬢様をうまく離脱させないと。
だが、そのとき僕の頭にひとつの考えがよぎった。もしも、フロンシアと領主様に僕らが加勢すれば、コベルマン伯爵を倒せるのではないのかという考えだ。そうすれば誰も傷つかなくて済むし、今後のことだってずっと考えやすい。
こちらの手勢はかなり多い。
いくら伯爵が歴戦の魔法使いと言えど、手負いならば、勝てるか……?
しかし、お嬢様は馬車の速度を更に上げた。
「カーレイ、けもの道を抜けていくわよ!」
「お待ちください! 兵が着いてこられません!」
「構わないわ! 邪魔な木はあなたが撃ち倒しなさい!」
「ああもう、人使いが荒いんですから!」
仕方なく、僕は魔銃で木々を破壊していく。
とてつもないスピードで馬車は走り、すぐに森を抜けた。
目の前にはエリアレンの屋敷と、裏手の崖がみえる。
そして、屋敷の裏門は、すでに開け放たれている。
「まさかもう中に……? お嬢様、一度様子を見ましょう」
「カーレイ! 違うわ! これは罠よ!」
僕が放心した一瞬に、お嬢様が血相を変えて叫んだ。
はっ、と前をみると横手の林から、火球が飛んできていた。
魔砲による攻撃。まずい。
そう思うと同時に、馬車が横に吹き飛んだ。
激しい衝撃とともに、身体の重さがなくなる。
浮いているのだ。
僕はすかさず、お嬢様を抱えて馬車から飛び降りた。
空中に跳ね上がっていた馬車は、案の定、派手に横転した。
馬と台車に潰された御者がうめき声をあげる。
間一髪だった。
「お嬢様、お怪我は?」
「大丈夫よ……でも今のってまさか」
「えぇ。嫌な予感が致します」
爆発の衝撃で崖沿いの道ががらがらと崩れ落ちる。
これで後続は追ってこられなくなった。
折角の兵士たちと分断されてしまったわけだ。
この衝撃、まさかコベルマンじゃないだろうな。
そう思い目を凝らせば、闇の中に、僕らの馬車を吹き飛ばした元凶が見えた。
男。それもかなり大柄だ。コベルマンでは、ない。
男は、肩に抱えた魔砲をごとりと降ろして、
僕らの方へと歩み寄ってきた。
「くくく。ちっとは腕の立つ奴がいるんじゃねぇか」
「貴方は……ッ!」
僕はその男を知っていた。
かつて同じ傭兵団にいた男だ。
「破砕のグリンダム。裏稼業専門の傭兵です」
「いかにも。久しぶりだな、カーレイ」
「こんな会い方は望んでなかったぞ」
「悪いがそこの女にはここで死んでもらうぜ」
そうはさせない。
僕はすかさず魔銃をぶっ放す。
狙い過たず、弾丸は男の腕を貫いた。
「クソガキが!」
男が叫ぶ。
その瞬間に僕はもう、男を袈裟懸けに斬っていた。
ほとばしる鮮血、だがまだ、浅い。
飛び退った男は、己の血を舐めながら、腰の短剣を抜く。
紫色の燐光。魔法使いだ。
「チッ、カーレイ……楽に死ねると思うなよ」
僕が身構えたそのとき、馬の蹄の音がした。
速足。いやもっと速い。
尋常じゃないほどに速い馬、魔法強化された馬だ!!
僕がそう気付くと同時に、空中に影が現れた。
巨大な影だ。それが異常な速度で駆け抜けていく。
グリンダムが驚愕の叫びをあげる。
「なッ……何故あんたがきやぐぁっべらっごぎゅ」
影は一瞬で、その顔面を砕いた。
吹き飛ばされた男が玩具のように転がる。
苦しげに立ち上がろうとしたところへ、影はふたたび走り寄り、
男の頭部は、完全に踏み砕かれた。
「まったく。殺すな、と言っただろうに」
恐ろしいほどの馬体制御。
その馬上には、一人の痩身の男が乗っていた。
黒づくめに身を包み、まるで幽霊のようだ。
僕は、その男を知っていた。
こいつこそ、この男こそ、エニスキス=コベルマンだ。
「コベルマンッ」
「……いやはやなんとも、下賤な兵だろう?」
男は、病的なまでに頬がこけている。
笑うとまるで、骸骨のようだ。
「なぜ、自分の傭兵を殺したのよ」
「その震え声を聞きたくてね」
男の声に愉悦が混じる。
僕らの生殺与奪を握っていると確信している響き。
絶対的強者の余裕だ。
とはいえ、そのマントは半ばから千切れており、よく見れば服にも大きな穴がいくつも空いている。鋭いもので斬り裂かれたような箇所もあった。きっと、侯爵様がつけた傷、の跡だろう。一瞥するかぎり、今の男は無傷だったが。
「お嬢様、奴は回復魔法を使えるようです」
「だからなによ」
「勝ち目は、万に一つもないかと」
僕らのささやきが届いたのか、男は顔をしかめた。
馬が数歩歩み寄り、僕らは、ほんの少しも動けない。
見上げるような高さから、伯爵は驚いた声を発した。
「貴様は……カーレイか。まさか生きていたとは」
「コベルマン、なぜ僕の名を知っている」
「うはははは。それを貴様が知ることは、もう、できない」
そういうが早いか、コベルマンは指先をひゅるりと振った。
僕の身体がおもいきり吹き飛ばされた。
何の予兆もない、衝撃だけが僕を襲ったのだ。
これが力動魔法か。
ろくに考える間もなく、気付けば僕は崖にぶら下がっていた。
ほんの小さな岩に片手で掴まっているだけだ。
腕の力だけでは、上にあがれそうにない。
「うむ? 死にぞこなったか」
そう言いながらコベルマンが歩いてくる。
男の手は、リグネッタ様の髪を無造作に掴んでいた。
お嬢様はなかば引きずられるように歩いていた。
「リグネッタ……様」
「カーレイ! 逃げなさい! あなただけでも早く!」
必死の声はしかし、無力だ。
どうしようもなく無力だ。
「お転婆のツケを払うときだな、リグネッタ=エリアレン」
そう言うとコベルマンは、お嬢様の頬を思い切り叩いた。
勢いで倒れるリグネッタ様の身体が、不自然に止まる。
コベルマンが、愉しげにその手指を動かしていた。
「やめろ、コベルマン」
「まるで操り人形だろう? これが好きなのだ」
お嬢様の肉体は完全に男の支配下にあった。
どうすることもできず、ただ玩具のように無茶苦茶に動かされている。
叩きつけられ、投げられ、吊り上げられ。
くそ、くそ、くそ。
このままじゃダメだ。
このままじゃ僕は僕を許せない。
「睨んでも無駄だ。君にはもう何もできん」
コベルマンが僕を指差す。
その瞬間に、小さな力が加わり、僕の指が独りでに岩から離れようとする。
僕は、必死に意志の力であらがった。
コベルマンが馬鹿にしたような声で笑う。
「うはははは。なんとも無駄なあがきだ。王の血が泣くぞ」
「訳の分からないことを、言うな。お前の狙いは、なんだ」
「狙いなどなくとも、この娘は私が奪いとろう。そしてこの領地もな」
男がそう言いながら、リグネッタ様を抱き寄せた。
意識を失ったお嬢様は、するりとコベルマンの腕のなかに入る。
男は微笑みながら、お嬢様の頬に、軽くキスをした。
「くそ……や、めろ……」
「ではさらばだ。眠れる獅子よ」
僕が掴んでいたちいさな岩の出っ張りが、その瞬間に砕け散った。
身体が、宙に投げ出される。思い通りにならない。
にやついた男の笑みが頭から離れない。
「うはははっ、ははははは!!」
みるみるうちに、お嬢様とコベルマンは小さな点になって、
僕は、冷え切った川に、深く、深く、沈んでいった。
冷たい。
ひどく冷たい。
暗闇がどんどんと迫ってきて、全身が痺れていく。
ここで、死ぬのか。
だが、意識が完全に途絶える瞬間、
なにか僕の身体を引き上げた。
「カーレイ! カーレイ! 起きてください!」
「げっほ、げほげほ」
目を開けると、そこにはなぜかフロンシアがいた。
ずぶぬれのベールにはいくつもの血痕が飛んでおり、剣は抜身だ。
かろうじて生き永らえた、というところだろうか。
「フロンシア……僕は、どうなった」
「ご安心を。君は冷水に落ちて意識を失っただけです」
「そうか。じゃあ、領主様とお嬢様は?」
彼女は眉根を寄せた。
険しい顔で、僕から目を逸らす。
「コベルマンの手に落ちました」
ようやく発した声は、とても無感情だった。
「……お嬢様は連れて行かれ、ご領主はまだ意識が戻りません」
「くそっ!!」
「カーレイ!! 君はお嬢様を追うつもりですか」
「当然、僕はそのつもりだ」
僕はそう言って立ち上がると、すばやく装備を整える。
剣にも魔銃にも不具合はなさそうだ。
だが、ひとまず屋敷へ向かおうと足を踏み出したとき、
その手を、強く掴まれた。
フロンシアの冷たい手だ。
なんのつもりだ。
「お待ちください、カーレイ」
「断る。エリアレン家に仕えている身として、止まることはできないよ」
「いいえ。だからこそ引きとめたのです」
「フロンシア!! リグネッタ様は今にも殺されるかもしれないんだ!」
だが僕がそう叫んだ瞬間、
フロンシアはなぜか、首を横に振った。
なんだ。なにが違うっていうんだ。
「リグネッタは死にません」
なぜか彼女は、顔を覆うベールにそっと手をかけた。
そして、ゆっくりとベールを上げる。
「これはエリアレン家としては予期できた範囲の事柄なのです」
ぽたぽたとフロンシアの濡れた茶髪から、水が滴る。
そのしずくが流れ落ちる頬には、わずかに引きつれがあり、
そしてその火傷の痕を除けば、除いてしまえば、
お嬢様にひどく似ていた。
「なんだ……? フロンシア……説明が欲しい」
「貴女が守っていた彼女は、侯爵家の血を有してはいません」
「変なことを言うな。そんなことはありえない」
「いいえ。彼女は、本物の、代役でした。コベルマン伯爵という脅威を排除するのは、あまりにも危険な行いです。それゆえに、よく似た少女が必要だったのです」
その真に迫った声色が、僕をざわめかせた。
鳥肌が立つ。代役、それはつまり、
フロンシアが淡々と、その言葉を放った。
「あの子は身代わりなのです」
「では、エリアレン家の令嬢とは……」
いや、その答えを僕は知っていた。
あのお嬢様と同年代で、最も近しい女性など一人しかいない。
心を読んだように、眼前の麗人は頷いた。
「いかにも。このフロンシアこそが本当の、リグネッタ=エリアレンです」
お嬢様とまったく同じ顔が、にこりともせずにそう告げた。
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