第21話 漆黒の手

 

 意識が少しばかり飛んでいた。

 赤い眼光を見た後を覚えていない。

 立っている。

 それは感覚でわかる。

 息が苦しい。

 酸素がまわってない。

 目線が定まらない。

 指先が動かない。

 基経は躰が強張って動かない事を自覚した。

 眼が定まれば、あの漆黒の大男が見えた。

 その赤い目。

 それが、この瞳に焼き付く。

 その赤い目が閃くと、黒い手が世界を覆う。

 それは生まれて初めて感じた恐怖だった。

 自分の力量では万に一つも覆すことができない。

 絶対的な絶望が目の前に果てしなく永遠に横たわって見えた。

 閉ざされた黒い世界が死だと確信するほどに。

 ――だが世界は闇に消えず。

 世界は朱に染まる。

 迸る鮮血で我に返った。

 噎せ返るような臭いと、紅の濁流を遡るように基経の躰は解き放たれた様に動き出した。

 目線は名取四郎をとらえていた。

 四郎は基経を見てほほ笑む。

「――おやじ!」

 声にならぬ声を響かせて、基経はその先を見つめていた。ただ見つめることしかできなかった。

 その影は巨大な漆黒を圧倒していた。

 血まみれの躰で。

 それは人を超えていた。

 基経が初めて見る動き。

  誰よりも早く、誰よりも強く、人間の限界を遥かに越える業だった。

 あれは四鬼。

 ――違う。

 四郎の両足から出たふたつの影が巨大な漆黒は足を掴んで離さない。

 漆黒の両足は二鬼を同時に使って封じられた。

 四鬼を同時に使うなんて。

 それは基経が初めてみる業だった。

 名取四郎の躰は跳躍すると躍りかかるように宙を舞い、漆黒の頭上へと刀が振り下ろされる。

 これは絡め手。

 自重と速さを掛け合わせて大木でさえ真っ二つにする奥の手。

 基経は四郎が戯れに岸壁に突き出した岩を切り落としたのを見たことがある。

 跳躍の高さと、陣風のような動きは巨大な岩さえ断ち切るだろう。

 その刃を背から立ち上る瘴気の渦が、たくさんの手のように襲い掛かる。

 それを払いのけるように、四郎は影を今一度だしてかき消した。

 これで三つ。

 漆黒は拳を固めると左手で空を打ち抜く。

 四郎は避けなかった。

 拳が四郎に当たる刹那、漆黒の左腕が弾け飛ぶ。

 これで四つ。

 すでに漆黒に右腕は肘から先がなかった。

 もう四郎の刃を遮るものはない。

 その刃が漆黒の頭蓋に静かに沈み込んでいく。

 ――そう思えた。

 刹那、自由落下する四郎の躰が静止する。

 ――背中には消えたはずの右手が生えていた。


          

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