第六章 それでも、希望を信ずると 3
「はっ……」
冬戸の思考を遮ったのは、根岸の声だった。絶対的な力を前に、頬を引きつらせながら、思わず乾いた笑いを漏らしたのだ。
「ははっ、はははは!」
だが、それは絶望か諦観など諦めによるものではなく……
「そう来ると思ったよ! 黒死の死神! 罪悪感なんて、あなたには似合わないからね!」
興奮した口調でそう言いながら、勢いよく隣の棺桶を叩いた。
すると、蓋が開けて、棺桶の奥からどす黒い無数の手が生え、生者を地獄に引きずり込もうとする亡霊かのように、冬戸の鋳装を求めて空間を這うようにほかの手を踏みにじりながら這い寄ってくる。
鋳装を直接奪うつもりだ。ここで鋳装を奪われれば、インスラは次の瞬間、第二の黒曜事件によって地図から消されるのだろう。
無の風に触れたものは存在している事実を消され、ないものにされるのだ。それが物質でもエネルギーでも、命でも関係ない。
だが、そこまで理解しているにも関わらず、根岸がその事実に気づいていなかったのは、彼の失策か、あるいは道化師の傀儡への過信か……はたまた、願いを叶えることに執着しすぎて、判断力を失ったのか。
そのいずれもあるかもしれないし、いずれもないかもしれない。とはいえ、根岸の考えはどうであろうと、冬戸のすべきことはたった一つのみだ。
「もう、効かないよ」
大剣を、軽く横方向に振り抜ける。
すると、周囲の黒風が引かれ、リボンのように、風のように、流れる流水のように、滑らかに空間を優しく撫でるかのように――放射状に流れていく。
虚無を象徴する黒い風に触れた無数の手が、指先から手のひらまで、手首から腕まで、まるで指先で取られた塵のように、消しゴムに消されていくかのように、消失した。
鋳装を喰らう手もまた、存在しているものだ。存在している以上、虚無に触れるとその存在が何を意味しているのとは関係なく、等しく消える末路を辿る。
それだけじゃない。
全方位に流れていく風が、この未開発区域にいるすべての人形を捉えては抹消していく。
たったの一瞬で、根岸が呼び出したすべての人形を、無に帰したのだ。
「な――、こ……んな……」
道化師の傀儡が発動した能力が、たったの一瞬ですべて消されたのを目のあたりにして、さすがの根岸も絶句した。
その一瞬の隙をつくように、冬戸は、軽く足を踏み出す。
体の重心を前に倒し、それにつられて足が動くようにした、足が主導するではなく、体を重力に引かれるまま前進する、流水のような歩き方だ。
滑らかで美しいこの動きは、人間が歩いているときの特徴を一切持ち合わせていない。そのため、物事を構成する要素を察知し、判断を下す脳は、冬戸の動きを視界に収めてもそれが歩いていると認識することはできない。
さらに、移動しているという事実さえも認知させないために、冬戸は黒い風を巧妙に操り、足が地面に接触した音や衣擦れ音を消し、悠々と流れる黒い風が自分の姿を遮る一瞬で――一気に速度を上げる。
視覚も聴覚も情報をほとんど受け取れず、わずかに捕捉した情報も脳に送ったところで、判断するのに必要な要素が揃っていないため、認識することができない。
冬戸の制服の裾がふわっと踊ると、大剣を手にする姿は滑らかに空間を流れ、根岸が気づいたとき、冬戸はすでに根岸の懐に入っていた。
根岸から見れば、まるで瞬間移動でも使われたような感じだろう。特殊の移動方法をAF能力と併用して、歩くだけで簡単に相手に肉薄する技術だ。
「―――っ!」
至近距離まで来た冬戸に気づいて、根岸が慌てて拳銃を向けてきたが、すでに遅かった。
さっきの移動はあくまで準備、目的は、これから放つ一撃を必中にするため。
「瞬間刺突技――」
大剣の切っ先に、黒い風が螺旋状に展開され、根岸の手にした拳銃に向ける。
「しま――っ」
「―――絶!」
突き出された無音の一突きが虚無の風を纏ったまま拳銃を貫通する。崩れていく白銀の概念物質を、黒い風が撫でつけるように優しく消していく。
人間は、新しい道具を生み出すたびに、一番効率的で、道具の性能を引き出せる使い方を探るものだ。昔の剣術しかり、現代の銃しかり――鋳装もしかり。そして、冬戸がいた地下施設では、三十人の子供にその鋳装に合わせて、専属の使い方を編み出していた。
たった一つの鋳装の能力を最大限に引き出すために、何十人もの研究者や軍事、兵器の専門家に依頼し、数学で計算や検証を行い、人体の構造やAF能力の応用も考慮に入れて、編み出されたのが、この、鋳装の方程式。
そして、冬戸に与えらえれたのは、戦略用の剣技。たった一人で現代兵器の軍勢と対抗するためのものだ。
「瞬間刺突技・絶」は、その中で、戦車の群れを一撃で葬るための技。
その威力を最低限に抑えても、白銀の鋳装を消した黒い風が勢いを殺すことができず、根岸の背後の空間を貫き、建設途中の建物を貫いた。
だが、冬戸の動きがここで止まることはない。右手で大剣を戻すことによって自然と前に出された左手をさらに根岸に伸ばす。
それを反射的に払おうとした根岸の手の甲を軽く押さえ、重心を崩してやる。それから根岸の手を彼の背後にやり、足を払ってそのまま地面に押さえつける。
片手の指向変換。
根岸を確実に拘束するために、手を背中に抑えたまま、地面に押さえつけられる根岸の背中に座る。虚無の概念を象徴する大剣を、根岸の首に当てる。
「さて、これで俺が王手をかけたが、どうする?」
と、少し前に言われた言葉をそのまま返す。
「皮肉のつもりか。言っておくけど、この程度で王手をかけたと思い込んだら――」
鋳装を鍛造しようと、手にAFソースコードを浮かばせたが……出現したばかりのそれが周囲に流れる黒い風に軽く撫でられ、あっけなく消されてしまった。
「もう一度言ったほうがいいか。これで俺が王手をかけたが、どうする?」
「さすが黒死の死神と言ったところか。街一つ滅ぼした力を僕一人のために使うとは、光栄だね」
「勘違いするな。今お前に見せたのは、黒曜の千分の一もない」
「にしても、僕を殺さないね。おや、これはなぜでしょうか。僕を殺さないと、道化師の傀儡は止まらないよ。今も、再生した人形たちが街に向かっているだろう」
「………」
「ああ、そうか。なるほど。あなたもほかの使用者と同じ、自分を人間だと思い込んでいるよね。はは、この世で一番その資格を持っていないのはあなただよ! なぜ分からない! 悲劇しか起こせない黒死の死神が!」
完全に抑えられて身動き取れないにも関わらず、根岸が首だけを動かし冬戸を睨みつける。
それを合図に、再生した数体の人形が、手にした鋳装で冬戸に攻撃を仕掛けるが、それも黒い風で消される。
視界の端で人形がやられた姿を確認して、根岸が小さく舌打ちをして、また次の手を打とうとした――が、その動きが唐突に止まった。
「どういう……ことだ」
脳裏で操縦している道化師の傀儡が、一つ、また一つ操作不能に陥っていくのを感じたのだ。
これは、命を使い果たしたことによる能力停止でも、道化師の傀儡の能力内容に不備があるでもない。何者かに、壊されたのだ。
「道化師の傀儡が……まさか、双牙の狂嵐か!」
「さて、俺は王手って言ったけど」
これもまた、少し前に根岸に言われた言葉だ。
「何もお前にかけたものだとは、言ってないだろう」
そのまま返された言葉を合図に、周囲に突如に突風が起こされ、白銀の拳銃を片手にする少女が姿を現した。
射程の長い鋳装や高速移動ができるAF能力を使って、百個以上はあるだろう道化師の傀儡を全部壊したのだろう。とはいえ、短時間で未開発区域を駆け回るのだ。さすがの四位様も疲れの色を隠せずにいる。
だが、まだ休ませるわけにはいけない。神谷には、まだ最後の仕事があるのだ。
「あれを壊せばいいのね」
「ああ、俺が言った通りにやれば、お前の鋳装は戻る」
「―――っ!」
二人の会話を聞いて、根岸が驚愕に目を見開いた。
ここにきて、ようやく冬戸の王手は自分ではなく、自分の力、道化師の傀儡にかけたものだと気づいたのだ。
「ま、まさか――い、いや、だが、一度喰われた鋳装は使用者に戻ることはない。プログラムを変換して、新たなメモリーに固定されたのだ! そう簡単に――」
「それは、鋳装が一つしかいないことを前提にしたことだ。ま、基本、鋳装は一つしか持てないのだがね」
だが、神谷には鋳装を二つ持っている。
根岸と決着をつけにくる直前、神谷に教えた、鋳装を取り戻す方法。
それは、鋳装が二つあることを使用するやり方だ。同じプログラムなら、マリオネット・オフ・ピエロに取り込まれた鋳装でも、直接的に接触することで、引っ張り出すことができる。
ただし、それはただ風弾を撃ち込んで、棺桶を破壊すればいいという簡単なことじゃない。
鋳装が道化師の傀儡の内部に侵入し、取り込まれたものに触れないといけないから、鋳装そのもので棺桶を壊す必要がある。
それは、拳銃の形をしている鋳装にできないことだが……神谷には、できないことをできるようにする力がある。
願い、目的などを持つと、人は強くなれるし、できないはずのことをできるようにすることができる。実際、人類の歴史は前に進めるのは、人類という種のこの性質のおかげだ。かつて歴史を変える発明や発見を果たした者たちや、それを継いでいくものたちが何よりの証拠だ。
そして、繰り返しになるが、AFプログラムは、いいところも悪いところも、そういう集団としての現象を、個人レベルに引き下げた。
「………やるわよ」
栗色のセミロングを風になびかせ重心を低くする神谷が、心を落ち着かせるために一つ深く息を吸ってから、拳銃を握り直す。
流――拳銃を弾倉に変えるその技は、理論上、変換後の鋳装の形は制限されていないはずだ。
それは今まで弾倉にしか変換できないのはどんな理由か、冬戸には知らないが、神谷なら鋳装という願いの結晶をもっとうまく扱えるはずだ。
願いによって発された電気信号。それを、脳が発して神経系を通じて、末端神経に達する。鋳装という武装を空気で鍛造する。
その演算式にさらなる動力源を与えることで、再演算を強引に行い――定められたプログラムの形を捻じ曲げて、変換する。
白銀の拳銃が流体と化し、形を変えていく。
AFプログラムは奇跡を起こすプログラム。そのために必要なものは強い願いだ。
なら、神谷のこの技はプログラムの再編――すなわち、奇跡の先にある奇跡だと言えるかもしれない。誰も行き着けない奇跡の先に、神谷が真摯に願う心で足を踏み入れたのだ。
果たして、流体になった白銀の光が、新しい形に定着していく。
射出されるための弾倉ではない。棺桶に囚われた鋳装を、この街や神谷の願いを壊そうとする意志を倒すために。
風を象徴する概念物質が小振りの剣に変換される。それを手にした神谷が、風による移動で勢いをつけて、一瞬で棺桶の前まで来ると剣を振り上げる。
「や、やめろ!」
「これで――」
白銀色をした風の剣が流星のように、暴風を纏いながら斜めに切り下ろされ、
「――終わりよ!」
その刃を棺桶にぶつけた。赤黒く塗装された蓋に食い込み、そのままバターでも切っているかのように、禍々しい棺桶を、蓋についた錆びついた逆さまの十字架に切り込んで、逆方向から出てきた。
何一つ不純物もない風の剣が、不気味な棺桶を白銀の斬撃を残す。一拍遅れて、棺桶から木にヒビ入った音が響く。
それを皮切りに棺桶全体にヒビが走って、神谷が着地するのとほぼ同時に、亡者の手の群れを秘めた棺桶が、その場で両断され砕け散った。
同時に、二つ目の鋳装が戻ったのを感じて、神谷がふぅと安心したような息をつくと、冬戸と根岸のほうに向き直る。
「あ……ああ……」
最後の道化師の傀儡が破壊されたのを見て、根岸が呆然と口を開いて、拘束されていないほうの手を伸ばす。
「ありえない……こんな状況。僕は……僕はヒーローに……皆を救うヒーローにな……る。ここで倒れるわけには……いかないんだ……ッ! 倒れてたまるか……ッ!」
歯を食いしばって片手で体を支える。地面を這うように砕け散った棺桶のほうに行こうとしている。
首に当たった黒い大剣の刃に触れた皮膚が消され、そこから流れた血も存在を抹消されていく。それでも、根岸は痛みなんて気にせず、ただ全力で進もうとしている。
負けても、武器を破壊されても、屈せず、願いを叶えようとしているのだ。
そんな根岸を見て、神谷は何か思うところがあるだろう、きつく唇を噛みしめて端正な顔を醜くしかめている。
根岸の願いの内容は、冬戸が棺運びの情報とともに神谷に伝えた。その願いは、やり方が強引とはいえ、一般人にとって決して悪いものではない。
むしろ、多くのものを奪われた根岸が、憎しみや恨みではなく、皆を救済しようという気持ちで行動するのは、賞賛すべきことですらある。
だが、なんとしても叶えたい二つの願いがぶつかり合ったときは、必ずどちらがつぶされる。必ず、誰かが傷つける。
だから、冬戸はここであえて何も言わなかった。
根岸と同じ救済を願う神谷にとって、これはこれから先に、何度も遭うだろう状況だからだ。こればかりは彼女自身が受け止めるべきものだ。
「根岸」
「………」
「もう、やめて。あんたはもう、逮捕されたのよ」
「僕は……、僕は――」
「あとで警察機関に引き渡すことになるから……。だから……その、その前に、何かしてほしいこととか、あるなら……聞くけど」
鋳装の鍛造を解き、何やら一生懸命とそんな言葉を口にした。
神谷に合わせて、冬戸も鋳装の鍛造を解く。もう、こんな武器を使わなくても、根岸を押さえられるのだ。
今も片手で進もうとしている根岸を、今度は両手を拘束して、おとなしくさせようとする。すると、根岸は今度は頭を地面について、額に血が出るほどの力で体を起こそうとする。
「してほしいこと……? は……はは、ははははははははは!」
神谷の言ったことがおかしいのか、根岸が地面に押さえつけた状態で、肩を震わせて笑い声を上げた。
「そんなこと聞くのか。はは、はははははははははは!」
「な、なにがおかしい……!」
「ははははははは、何がおかしい? 何もかもだ! クソったれどもめが、理解者面するじゃねぇよ! てめぇに僕の何が分かる!」
もう逃げられないと悟ったのか、根岸はもう、逃げるための方策を考えて焦燥に陥っていない。だが、冬戸に捕まった両手には、相変わらず力が込められている。口元にも依然として獰猛な笑みが刻まれている。
「使用者にしてほしいこと? 死ね、以外はないね、そんなもの」
自分を、それとも神谷を笑っているのか。根岸は上体を起こしながら、嘲笑混じりに言葉を投げる。
「双牙の狂嵐。あなたもめでたい人だ」
骨が軋む。地面に押し付けた額から、血が出ていて、地面を真っ赤に染まっていく。それでも、根岸はまるで痛みを感じなかったかのように、心底から軽蔑しているように、口の端に嘲笑を刻んだ。
「あなたの願い、知ってるよ。使用者と一般人の共存? は……はははは!
「どういうこと?」
「ほら、だから言っただろうが! こんなにはっきり言ってやったのに、眉を顰めてどういうことだとォ? ああ、何も分かってない。何も分かってないなてめぇは!」
「だ、だから何を言って――」
「はっ、自分の忌々しい頭で考えてみればどうだ! 全日本の使用者を一か所に集める。それが意味することと、必然的に起こることぐらい、分かってないてめぇらじゃないよな。な、黒死の死神!」
「………」
「おやおや、沈黙か。都合が悪くなるとこうなる。ちゃんと見習えよ、双牙の狂嵐! こういう汚い性格こそが使用者にお似合いだ! そして、覚えてろ! 僕が死んだところで、被害者たちの革命は止まらない。どこの誰かは知らないが、せっかく全日本の使用者を一か所に集めてくれたんだ。有効活用しない手はないだろう」
「―――ッ!」
「………」
その勝利を確信した笑顔で言い出された言葉を耳にして、神谷が驚くあまりに目を見開き、冬戸が沈黙を保ったままわずかに俯いた。
そう、根岸の言っているように、使用者に手を出そうと思っているものは、使用者が狭い都市に集められたこの状況を利用しないはずがない。
未来――ともすれば近いうちに、第二第三の根岸が現れてもおかしくないのだ。
「だが、今度は認めてやろう。僕の負けだ」
と、ふと大人しく根岸はさっきまでの威勢を収め、また小隊がバレた前の穏やかな雰囲気に戻った。しかし、その穏やかさの背後に、隠しきれない嘲笑が感じ取れる。
「あーあ、最後の最後でも、僕はヒーローにはなれなかったなぁ。悔しかったなぁ……」
何かに失敗した子供のように、根岸が一つ大きくため息をつくと、開き直った顔を作った。
「だから、せめていつか救済をもたらすものの役に立つように、最後で頑張るよ」
と、まるで最後の命を振り絞って力に変えたかのように、根岸が顔を上げて、勝ち誇った笑みを浮かべて見せた。
この絶望的な状況に置かれているにもかかわらず、まるで勝利を宣言しているかのような不気味な笑顔だ。
「最後のプレゼントだ」
そう言い放つと、冬戸に掴まれた両手を――手の構造を無視するようにねじる。関節に骨のずれた音が立つも、根岸は痛みを感じないかのように、笑顔のまま逆に冬戸の手を掴んだ。
神谷も冬戸も近くにいる。そのことを確認して、根岸が満足したかのような笑顔を作ると、何かを噛み砕くように歯を噛み合わせた。
「――くたばりやがれ、化け物どもめ!」
その言葉で、最後。
ピイイィィィィ―――――――――――――――ッ!
根岸が口に隠してあった
次の瞬間、未開発区域全体が、唐突に炸裂した紅蓮の炎に呑まれてしまった。
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