第 六 章 9
「昨日はご迷惑をお掛けして、本当にすみませんでした」
仕事終えて真っ先に来たのか、千鶴ちゃんはいつもより早い時間にモトムラに姿を見せ、あたしの前に立つなり深く頭を下げた。
「千鶴ちゃんが、謝ることじゃないじゃない」
あたしは苦笑いして返すと、千鶴ちゃんはきっぱりと言った。
「でも、正ちゃんのことですから」
「そっか。千鶴ちゃん、コーヒーでいい?」
商談テーブルの椅子をすすめて、あたしは仕事に戻るが、どうにも手がつかず、
「あたしもコーヒー、飲もっかな」
ひとりごちて、テーブルにつく。
しばらく言葉もかわさず、振り子時計が時を刻む音を数えていた。
「どうしてツーリング行くのやめたの? って、あたしが行くなって言ったからだよね」
千鶴ちゃんは、湯気を立てるマグカップに目を落としたまま口を開いた。
「ツーリングは延期しようって話した時、正ちゃん言ったんです。最近の海さん、様子が変だって。すごくつらそうで、苦しそうで……。だから、理由はわからないけど、海さんに余計な心配をかけるのはやめようって……」
少しの沈黙の後、千鶴ちゃんは、静かに顔を上げて、
「私、海さんが好きです」
「えぇ、もう女の子に好かれるのは勘弁」
茶化したあたしに千鶴ちゃんは取り合わず、真摯なまなざしを向けてくる。
「海さんの、力になりたいです」
あたしは自嘲するようにふっと鼻を鳴らす。
「あたし、そんなやばそうに見える?」
千鶴ちゃんが腕を伸ばし、あたしの膝に手をあてる。それだけで鼻の奥がツンとした。
そうなのだろう。あたしはもう、限界なのかもしれない。
「……聞いてもらって、いいかな」
あたしは、千鶴ちゃんに洗いざらい話す。
怪我でレーサーを引退を余儀なくされたこと。モトムラのこと。親子関係のこと。晶に告白されたこと。眠れなくて毎日つらいこと。――そして、森屋のこと。
「森屋には最後まで気をもまされて、ほんと、あたしはおまえの家族じゃないんだからさ」
思いつくそばから言葉を紡ぎ、取り留めもなく、自分でもなにが言いたいのかわからなくなってきて、とにかく伝えよう、聞いてもらおうと、
「そりゃあ森屋と何度か寝たけど、体だけの付き合いってあるじゃん。だったらあたしにとって、あいつはなんだったんだろうって。もちろんレース仲間で……すごく仲のいい友達って言われたら、そう。でも親友とは違う。じゃあなんなのって話なんだけど……」
やがてガス欠するみたいに言葉は途絶えて、
「あたし、森屋のこと」
それは、そうじゃないかと気づきはじめ、そうであるなら、あたしは悲しみの刃に切り裂かれてしまう。それが怖くて、目を背けていたこと。
「好き、だったのかな…………」
ずっとあたしの膝に手をおいたまま、一切口を挟まなかった、千鶴ちゃんの息遣い。
「海さんにとっての森屋さんは、私にとっての正ちゃんだったんじゃないかなって、思いました。私は正ちゃんがいるから、自分を肯定できます。今までしてきたことは無駄じゃなかったんだって思えます。正ちゃんと一緒にいると楽しい、幸せだなって。この気持が、私の心からの気持ちだって、素直に思えるんです」
視線を感じ、あたしは顔を上げる。千鶴ちゃんは、穏やかな笑みを浮かべていた。
「私は、正ちゃんが大好きです」
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