第 六 章 6



「ほら、奥行こ。ここじゃ人目につく」


 事務所に連れて行き、応接ソファーに座らせる。あたしは給湯場で、ココアとコーヒーを淹れる。


「ほら、ココア」


 マグカップを悠真に手渡し、あたしはスツールに腰を下ろす。


「ほんとはあの時ね、悠真のこと、ひっぱたこうかと思ったの。でも、戻って来たあんたの目を見て、なんて目をしてるのよって思った。見たこともない、つらそうなおまえを見て、よっぽどの想いでしたんだろうって、本心では悔やんでるはずだって……」


「そんな目、してましたか?」


「してたわ。だから……おまえを叱れなかった」


 まるで、悠真に問題があるみたいな言い方じゃないか。


 心の中で、自分自身に頷き、あたしは心に決める。


「悠真はあたしに似てる……ううん、同じなのよ」


 そして、あいつにも。


「わたしが、海さんにですか?」


「そ」


 努力に関しては、悠真の足元にも及ばないけどね、と口にはせず自嘲する。


「……身に覚えがあってさ。わかるのよ、懸命になって積み上げてきたものが崩れてしまうあの不安……ううん、恐怖って言ってもいい。自分自身の存在自体が否定されるような、受け入れがたいなんてもんじゃないわ。だからおまえを叱れなかった。あたしも同罪よ」


 あたしはスツールに手を引っかけ、体を後ろに反らす。


「本当はね、あのレースも悠真がなにを言っても欠場させようと思ったのよ」


「え……。でも」


「ねぇ悠真。あたしの脚、怪我の後遺症だってことは知ってるでしょ」


 あたしは体を起こし、もうまとも動くことのない左脚をさする。


 怪我をおして出た、あたしのレース人生が終わった、あのレース。


 それは、悠真に話していなかったこと。


「海さん、それってまさか……」


 目を丸くして見上げてくる悠真に、引退の理由を話して聞かせた。


 本当にバカだった。自分のバカさ加減に、わたしは声に出して笑ってみせる。


「それでおまえがレースに出るって言い張った時ね、あたし思ったの。このバカ娘は、こんな怪我で出られるわけないじゃないって。はっとなったわ。あたしってこんなにバカだったのねって」


「結局、わたしはバカだってことじゃないですか……」


 口をとんがらせると、歳相応の可愛げのある顔になる。


「そうよ。レースやってるやつなんて、たいていバカじゃない」


 その中でも、あたしは一番のバカかもしれない。


「だからよかった。無事にレースを終えることができて本当によかった。万が一のことが悠真にあったら……。ねぇ、あの時あたしが言ったこと覚えてる? ガキのあんたに責任なんか取れないって」


 悠真はゆっくりと頷く。


「それはあたしも同じなの。悠真になにかあったら、あたしは責任なんてとれない。金銭的に償うことはできるかもしれない。でも悠真が掴もうとしている未来はお金なんかに代えられない、かけがえのないものよ。あたしは大人なんだから、監督者なんだから止めなくちゃいけない。悠真にあたしと同じ失敗をさせちゃダメだって……。こう見えても結構悩んだのよ」


 なにが悩んだだ! 自分の弱さから悠真を危険に晒しただけじゃないか。万が一のことが悠真にあったら、それこそあたしは生きていられなかった。どんなに謝ってたって足りないくらいだ。


 でもあたしは、そうはしない。あたしはこんな失敗した、だからおまえも気をつけろ。そうやって自分の罪は誤魔化して、大人の訳知り顔で悠真を諭すんだ。偽善だろうがなんだろうが構わない。悠真が立ち上がってくれるなら、それでいい。


「でも海さんは、わたしをレースに送り出してくれました」


「……そうね」


 どうして? 悠真の瞳が問いかけてくる。


 苦い罪悪感を飲み込み、あたしは口を開く。


「成長できると思った。怪我をおしてでも、大きなリスクをしょってでも、ここを乗り切れば、おまえならうんと成長できると思った。勝っても負けてもいい。精一杯レースに挑めば悠真は成長する。世界に通用する強いレーサーにまた一歩近づく。そう思った」


 嘘だ――。でも、本当だ。


 すべての困難が成長の糧。どれだけがんばったか。


 それがあたしたちの、レーサーの挟持きょうじだった。だから悠真だって――


「おまえは結果的に負けてしまったのかもしれない。ううん、負けたんだよね。それを受け入れるのがつらいのはわかる。でもそれが勝負よ。勝つか負けるか、そのふたつしかない厳しい世界。その世界で生きるおまえはそれを受け入れなくちゃいけない。だから負ける悔しさも涙も全部飲み込んで、今の気持ちをしっかり覚えておきなさい。それがおまえの力になるから」


 あたしはそう信じているから。そうでなければ、いられないから。


 悠真は唇をきつく結び、もう一度大粒の涙をこぼす。


「はひぃ…………ごめんなさい。海さん、ごめんなさい!」


 あたしは悠真の隣に腰を下ろし、肩を抱き寄せる。


「ほら、子供じゃないんだからそんなに泣かないの」


 あたしはこいつに、すっかり情が移ってしまっている。


 ガキの頃はホントにチビで負けず嫌いで、泣き虫だった。レースで勝った時の得意な顔はほんと可笑しくて、可愛かった。


「悠真ごめんね。おまえのためと言っても、危険なことさせたのは事実だもの」


 ごめん。本当にごめんなさい。


 悠真は大きくかぶりを振った。


「……だって、わたし最低で、舞子まで、わたし舞子まで傷つけて……」


「舞ちゃん?」


「わたし、舞子のそばにいたのに、舞子の気持ち、全然気づかなくて、わたし鈍感で……」


 大丈夫だよ。おまえの親友は、きっとあたしと同じ気持ちでいる。


 その時、ピンポーンと間の抜けた音が鳴った。事務所の裏口のチャイムだ。


「あら、すごいタイミング。やっぱ、あなたたちなのね」


 あたしは、あいてるから入ってとドアに声をかける。


 遠慮がちに開いたドアの向こうに、舞ちゃんの姿があった。





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