第 六 章 2
サーキットに辿り着き、あたしは森屋のCBR600RRの前に立っていた。
CBRは、エンジン暖機の時点でやばいオーラを発していた。アクセルを開けると、モーターのように滑らかに上昇するタコメーターの針が、
「…………これ、人間が乗ってもいいの?」
ダイナマイトを閉じ込めているような、
600は、
そんな、常軌を逸した乗り物がこうして存在して、何万台と生産され、誰でも購入できて、あまつさえレース仕様にチューンナップされ、そしてそれに、あたしは乗ろうとしている。
長いことこの世界にいるんだ。600がどんなバイクか、あたしはよく知っている。1000ccのスーパーバイク、MotoGPマシンだって間近で見たことがある。でもそれらはあくまで他人が乗るバイク。いざ自分が乗るとなると、こんなにも緊張するものなのか。
「できねーと思うけどぉ!」森屋が耳元に口を寄せて声を張り上げる「アクセル、ガバ開けすんなよ。速攻でスリップダウンする。スピード感覚が全然違うから、始めのうちはブレーキングポイントは早めにしろ。じゃないとすぐオーバーラン!」
あたしは頷いて、CBRに跨る。跨って、おやっと思った。
森屋のバイクなのに、ハンドルや足をかけるステップのポジションが、なぜかあたしの体格にあわせられていた。サーキット来てから、ポジション変える作業なんてしていない。
あたしはちらりと、森屋に目を向けた。
なに回りくどいことしてんだか。
はなっから、あたしに600を乗せるつもりだったんだろう。
この試し乗りは、乗り換えを躊躇っていた、あたしへのサプライズ。
あたしは前を向く。
ここはツインリンクもてぎ。MotoGP、日本GPの開催地。フィールドに申し分なし。
ピットアウト――コースイン。
広大なもてぎのフィールド。1、2コーナーをクリアすると500メートルのストレートがまっすぐに伸びている。
まずはタイヤを暖める1周。あたしはかなり慎重に、じわりとアクセルを開けた。コォーというジェットエンジンにも似たエクゾーストノートが高鳴り、パワーバンドに入った途端に甲高くなり、猛牛のような爆発的突進力が足元から膨れ上がり、500メートルを瞬く間に喰らい尽くす。
「こりゃあ……やばいね…………」
心臓が大騒ぎでジャンジャン早鐘を鳴らしていた。正直ビビってた。
「このパワー、ありない」
ブツブツひとりごとまで漏らして、そして――
「
奇声をあげたくなるほど興奮していた。
最終コーナーであるヴィクトリーコーナーをクリア、ホームストレートに戻ってくる。
タイヤ、エンジン、そしてレーサーも暖まった。
――さぁ、タイムアタックだ。
動作は一瞬、手首を返すだけの――フルガス!
それはレーシングマシンのエグゾーストとしか言いようのない、ほかに喩えようがない、乗っているレーサーすら圧倒するサウンド。500メートルのホームストレートを、数秒で駆け抜けてしまうスピード。
コーナーをハングオンで旋回、立ち上がりの加速でステアリングが軽くなる。アクセルワークだけでポンポン前輪が浮き上がる。慎重にしないと、あっという間に空を拝むことになる。
正直、おっかなびっくりで走っていた。90度に折れる5コーナーでつんのめって、その後の180キロで駆け抜ける130Rは、150キロも出せていなかったと思う。S字じゃ曲がりきれなくてオーバーランしかけた。ヘアピンではよたよたとUターン。
そして対峙する。もてぎ最長762メートル、高低差30メートル、真っ逆さまに落ちるダウンヒルストレート。
やってみたかった。このバイクで、このパワーで、このロングストレートをアクセル全開で駆け下りるのを!
「くぁっ――」
あたしは唸り、歯を食いしばった。バイクから引き剥がされる凄まじい加速。濁流を遡上するような空気抵抗。ステアリングを強く掴み、
息つく間もなく7秒で新幹線並みの時速250キロに到達――その瞬間フルブレーキング。背中を丸め、ハンドルを強く握り強烈な慣性に抗い、数秒で80キロまで落とす
全エネルギーがフロントタイヤに凝縮し、ブレーキに殺され、車体はバラバラになると悲鳴を上げる。人間はとにかく、もう必死に、どうにか堪え、ハングオンでコーナーを駆け抜ける。
あたしはピットに戻り、ヘルメットを脱ぐなり口に手をあてた。それを見た森屋が「吐くならコレに吐け!」と慌ててオイルジョッキを差し出してくる。
「
手のひらに乗せた差し歯を見せると、森屋は腹を抱えて大笑いしやがった。
あたしは倒れこむようにチェアに腰を下ろし、虚脱してピットの天井を見つめた。
――あぁ、これはやばい。
あの強烈な加速とスピード。クラッシュしたらただじゃ済まない。最悪な目に遭う。
――あのパワー。あの加速。
こんな世界が、あったんだ。
物心つく前からバイクに乗っている。レースにだって散々出たのに、あたしは今までなにをやっていたんだろう。操り切れないからと目を背けていたバイクは、最高にエクストリームなレーシングマシンだった。
信じられないという思いだった。こんなにやばいバイクなのに、
大排気量1000ccスーパーバイククラス。そして世界最高――
MotoGP。
それは一体、どんな異次元なんだろう。
呼吸が浅い。200に達した心拍は収まる気配がない。膝は今にも笑い出しそうだ。
手のひらは真っ赤になっていた。あと数周走っていたらズル剥けになっていただろう。もともとあった、親指のアクセルダコは剥けてしまった。
「乗ってよかっただろ?」
森屋があたしを見下ろして、したり顔で言った
「タコが剥けちゃったじゃない!」
手の平を見せた腕を突き出して、声を上げる。
「テーピングしろよ。俺、いつもしてるだろ」
「そういうことは先に言いなさいよ!」
突き出した手は、かすかに震えていた。
それは、本来あり得ないスピードに晒された、ヒトという動物が本能的に覚える戦慄であり、新しい世界を拓いたレーサーの武者震いだった。
心に、焼き付いてしまった。
人間には過ぎる絶対的パワーを御し、スピードに換え、奇跡みたいなライディングで観客を魅了する。そんなレーサーにあたしはなって、世界という舞台で輝きたい。
あたしが本当の意味でプロフェッショナルレーサーを夢見た、その瞬間だった。
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