第 五 章 1



「なんで抗議しないんだよ海!」


 レース終了直後のピットで、森屋は血相を変えて声を張り上げた。


「ウォームアップでしみったれことしやがって! 絶対抗議だろ!」


 レースは『スタート進行』といって、レーススタートまでの手順が決まっている。


 まずは路面アスファルトとバイクの状態を確認するためのサイティング確認ラップ。次いでウォーミングアップラップウォームアップ。文字通りエンジンやタイヤ、そしてレーサーの体を暖める1周だ。


 その後スターティンググリッドに並び、シグナルの合図でレーススタートとなる。


 特にウォームアップは重要で、高温でないと機能きのうしないタイヤの暖めるために、バイクを左右に振ったり急ブレーキをかけたりする。


 ウォームアップは、ある程度集団になって走り、すみやかにグリッドに並ぶのが暗黙の了解だ。それが――


「あんなの絶対レギュレーション規則違反だろ! 今川のクソ野郎、絶対狙ってやってんだよ」


 そのレース、今川というレーサーが参戦していた。今川はウォームアップを集団から離れてだらだらと走り、みんながスターティンググリッドに並び切った頃合いに、ひとり遅れてグリッドにつく、ということをした。


「森屋、言葉が汚い」


「んでだよ。クソじゃねぇか! ほかのヤツもなんで抗議しないんだ!」


 今川が遅れた所為で、レーススタート直前に、変な〝〟ができてしまった。


 観客からしたら気にも留めないような間だけど、グリッドにいるあたしたちにはたまったもんじゃない。


 レーサーは集中力を高め、スタートの瞬間に最高潮になるようにする。それが今川が作った間の所為で出鼻をくじかれ集中が乱れ、あまつさえ暖めたタイヤは冷えてしまう。当の今川はマイペースで集中力を維持し、タイヤをしっかり暖めてる。


「森屋の言うことはわかるし、あたしだってムカついてる」


「だったら抗議だろ!?」


「そうだけど……」


 スタート進行を妨げてはならない。


 スポーツマンシップに則る。という規則がある。でも今川のしたことは明確な規則違反じゃない。グレーゾーンをついた、本当にセコい作戦だった。今川はこういうことをする男として有名で、サーキットの鼻つまみ者だった。


「なんでためらうんだよ。おまえは実害をうけてんじゃねぇか!」


 そのレース、スタート直後の1コーナーで多重クラッシュが発生した。あたしは難を逃れたが大幅に順位を落とし、下位でフィニッシュ。不本意なレースになってしまった。


 その多重クラッシュ、原因は最初に転倒したレーサーにある。転倒の原因は前輪フロントタイヤを滑らせる、よくあるスリップダウンだった。


 しかし、前輪がなぜ滑ってしまったのかは、転倒したライダーにもわからない。


 のかもしれない。


 のかもしれない。


 そう。今川の姑息な作戦が原因になったかもしれないんだ。


 かと言って今川に責任を追求することはできない。そもそも今川の作戦は、グレーゾーンになるようなことだから、その効果があったとしても微々たるものだ。


 今川がいなくても、あの多重クラッシュは起きたかもしれない。


 いたから起きたという可能性もゼロじゃない。


 それこそ、神のみぞ知る、というような話なんだ。


「あいつが原因とは言い切れないでしょ。それに、抗議してもどうせ通らないじゃない」


 過去に、今日とまったく同じことを今川にされたレーサーが、抗議書をオフィシャルに提出したことがあった。『注意はしておくから』とお茶を濁され却下された。しょうがないことだった。だってオフィシャルにも判断がつかないのだから。


 無駄だとわかっていたし、なによりあたしは、自分の不本意な成績を、今川の所為にしていると周りに取られるのがは嫌だった。


「つーかさぁ、森屋のレースじゃないでしょ。あたしのレースでしょ」


 この時、あたしと森屋は別のクラスを走っていた。森屋が今川にセコいまねをされたわけじゃない。


「俺は海のピットクルーなんだから、俺のレースだ!」


 まぁ、そうだけど……。


「だったら、森屋がお金だして抗議してよ」


 抗議には、抗議保証金1万円が必要だ。


「だから、俺は金がねぇから、おまえに言ってんだろ!」





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