第 四 章 3



 トランポの共有はもうできない。そう森屋に告げたあの日には、戻れない。


 智さんはやさしい。でもそのやさしさがあたしにはやわらかすぎて、少しつらい。


 とにかく――


 売上げを出さないと。レースどころか、モトムラモータースの存続すら危うくなる。このままじゃ社長の思うつぼだ。まずは銀太郎寿司さんの売り込むための準備をしないと。


「海さん、大丈夫ですか?」


 大丈夫? あたしが? と顔を向けると智さんは続けた。


「顔色悪いですよ。お疲れなんじゃないですか?」


 実際疲れていた。鈴鹿の疲れが抜けきらないうちに社長とやりあって、週末には悠真と久真のレースがある。また休みなしだ。


「大丈夫ですよ」


 反射的に返事して、のど元を指先で揉むように掴んで、んっうん、と喉をならす。


「喉、痛いんですか?」


 気遣わしげな顔で智さんが覗き込んで、


「失礼」智さんはあたしの額に手をあてる「熱はないみたいですね……」


 智さんって、こういうスキンシップがさりげなくて、温かい。


 もし智さんがフリーだったら、どうなっていたかな。


 とその時、社長が事務所から戻ってきて、あたしは椅子から立ち上がる。


「それじゃあたし戻ります。明日、銀太郎寿司の件相談にのってください」


 小声で言って、智さんの視線を背中に感じながらモトムラモータースに戻る。店を通り抜け、台所でコップに水を汲み、喉に刺さった魚の骨を取るように、水の塊を飲む込む。


「勘弁してよ…………」


 あたしはシンクの縁に両腕をつき、嘆いた。


 レーサー復帰は絶望的と医者に宣告され、それに抗い、必死になってリハビリに励んでいた頃だった。


 喉の奥に不快なつかえを感じた。唾を飲み込んだり頻繁に水を飲んだりしても一向につかえは取れなかった。そのうち米噛みから額にかけて、ぎゅーっと締め付けられるような感触がして、その一帯に吹き出物がたくさんできた。


 疲れてるんだと思った。不安が頭をもたげて、眠れない夜が増えていたから。


 喉のつかえは酷くなる一方で、あたしはかかりつけの内科に駆け込んだ。そうしたら大きな病院の耳鼻科に行けと紹介状を書かれ、内視鏡を鼻から喉元まで突っ込むメチャクチャ痛い検査を受けた。


 結果、異常なしと診断され、じゃあこの喉の詰まりなんなんだと食い下がったら、また他の科に回された。


 心療内科だった。





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