第 二 章 3



 ジャイロを三台、なんとかやっつけた頃には、とっぷりと日が暮れていた。コーヒーで一服入れていると、聞き慣れたエンジン音が軒先に止まった。ホンダのスーパーカブだ。


「あっちぃー」


 カブから降りてきた男がライディングジャケットを脱ぎながら肩でドア開ける。店に入るなり、展示してあったバイクにまたがり、フューエルガソリンタンクに覆い被さり頬ずりしだす。


「う~ん、今日もカッコイイね~俺のCBRちゃん」


 鮮烈なメタリックブルーに、フラッシュイエローのチェッカーライン。同色の筆記体でTelefonicaテ レ フ ォ ニ カ、その下にゴシックでMoviモヴィStarスター。台数限定で販売されたテレフォニカモヴィスターカラーのCBR600ろっぴゃくRRダブルアール。うちの中古販売車だ。


正一しょういち、タンクに汗がつくからやめろ」


 色黒の顔にメッシュの茶髪にピアス。【極度乾燥Super Dryしなさい。】と胸にプリントされた頭の悪そうなTシャツ――Super Dryはイギリスのれっきとしたブランドなんだけど――に、膝で切ったジーパン。見た目ちゃらっとしているが、中身もちゃらっとしてる。


 岡上おかがみ正一。近所のガソリンスタンドで働いているフリーターだ。


 たまたまうちの前を通りがかった正一は、展示してあったテレフォニカのCBRに一目惚れ。以来うちに来てはCBRに跨がりほしーほしーと頬ずりしていく。一時期は毎日のように来ていた。小学生かおまえは。


「海さん、千鶴ちづ来てないの?」


 あたしの注意をさらっとスルーしてCBRから降り、そんなことを訊いてくる。


「酸っぱ! 海さん、コーヒー煮詰まって――あ痛っ、いててててっ!」


 正一の頭を拳で挟み、思い切り力を込める。


「おまえはお客さん用のコーヒーを飲むなと何度言えばわかる。あまつさえ味にいちゃもんつけるとか、いい度胸してるじゃない!」


「俺だってお客さんじゃん、痛い痛い、頭割れちゃうぅ」


「おまえはカブのオイル交換一回しただけだろうが!」


 あたしはウメボシにいっそう力を込めた。


「やっぱり、姉弟きょうだいみたい」


 開いたドアの向こうから、くすくすと笑う声。


「いらっしゃい千鶴ちゃん。でも姉弟はやめて」


 肩に掛かるまっすぐな黒髪。胸元にフリルのついたブラウスにニットのカーディガン。モノトーンのフレアスカート。近江おうみ千鶴ちゃん。正一の二歳年上の彼女だ。


「こんばんは海さん。これお裾分けです。おばあちゃんがたくさん送ってくれたんですけど、食べきれないから手伝ってください」


 差し出された紙袋を受け取り、中を覗き込む。


「桃! いい香り。いつもありがとう」


 千鶴ちゃんは社会人二年目の、とても気立てのいい女の子だ。いつも可愛らしく、かつさっぱりした恰好をしている。メイクも上品で、薄化粧と言う名のすっぴんが標準装備のあたしにはちょっと眩しい。ほんと、正一の彼女にしておくのはもったいないんだけど、


「おっす、千鶴」と正一がピースを突き出す。


「おっす、正ちゃん」千鶴ちゃんもピースして、指先をピトッとくっつけ合う。


 この二人、それこそ姉弟みたいに仲がいい。


「海さん、休憩室、いいですか?」


「もちろん」


 お礼を言って休憩室に入って行く千鶴ちゃんを見送って、あたしは正一に向き直る。


「今日はどこいくの?」


「都庁っす」


「都庁? なんで都庁?」


「千鶴が夜景見たいって言うから。都庁に展望台あんすよ」


「へぇ、知らなかった。でも今ならスカイツリーじゃないの?」


「高いんすよあそこ。昇るだけ二千円とか無理っす。その点、都庁はタダ」


 なんて言ってると千鶴ちゃんが戻って来る。カーディガンが白のライディングジャケットに、スカートがライディングパンツに変わってる。ブラウスはそのままで、ちょっとちぐはぐな恰好だ。


 これからふたりは、カブでプチツーリングデートに出かける。


 去年の夏だったか、ふたりは今日と同じように、うちでツーリングデートの待ち合わせした。


 その時の千鶴ちゃんは、半袖シャツに膝が出たキュロットスカートという、バイクに乗るには危険な服装だった。転倒でもしたら大怪我を負う。


 あたしは心配になって、プロテクター付きのライディングウェアを着ろと忠告したが、正一は「へーきへーき」と取り合わなかった。


 しかたなくあたしは、引退の原因になった大怪我の痕を二人に見せた。左足の付け根あたりにミミズ腫れに似た大きな手術痕。膝は火傷の痕のような赤黒いまだらが覆っている。女としては、絶望もののみにくい足だ。


「あたしの怪我はね、サーキットだったから、これで済んだんだよ」


 サーキットでは体の形が変わるほどの重装備で走るし、施設として安全に最大限配慮されている。対して一般道はほぼ無防備だし、電柱やガードレールなどの障害物だらけだ。


「カブで転んだらこんなもんじゃすまない。正一、千鶴ちゃんにこんな傷痕つけたらおまえどう責任取る? おまえのヘマで、千鶴ちゃんを死なせるかもしれないんだよ!」


 二人の顔がみるみる青ざめていった。


 その日のカブデートは電車デートになり、後日、あたしはふたりのライディングウェアの購入に付き合った。


 いざ買い揃えたはいいけど、千鶴ちゃんは正一の後ろに乗る時以外は着る機会がない。持ち歩くにはかさばるってんで、うちで預かり、着替えてからデートに赴く、というのが定着した。待ち合わせするにもうちが便利らしい。


 あたしがそこまで面倒見るのは、痛い目を見た人間をたくさん見てきたし、危険だと敬遠されがちなバイクのイメージが少しでもよくなってほしいから。なにより友達がつらい目に遭ってほしくない。休憩室貸すくらい安いもんだ。


「おっしゃ千鶴。レッツ都庁だ!」


 正一はカブではなくCBRに跨がり、あたしに手の平を見せる。


「海くん、キーを持て」


 CBRはもちろん売り物だけど、もう六年近くうちに展示されたまま売れ残っている。


 このCBR、元のオーナー所有者は森屋だった。





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