第 一 章 9
そうだ――
最後に森屋に会ったのは、あの病室だ。最後に耳にした声が、あの感謝の言葉。
一年と八ヶ月前。年の瀬の寒い日だった。その八ヶ月後に森屋はこの世を去った。それをあたしは丸一年、知らないままで過ごしていた。
二本目の発泡酒を空にして、頭の後ろで結っていた髪を解く。ツナギを脱ぎ、下着姿でパイプベッドに仰向けになると、スプリングが歯ぎしりのような音をたてる。
冷静になって考えると、あたしのところに森屋の訃報が届かなかったのは、しかたのないことだったのかもしれない。
大怪我を負った直後のあたしは、当たり前のようにレースに復帰する気でいた。今回は派手にやってしまったが、レースに怪我はつきもの。
そのはずが、レース復帰は難しいと医者に宣告されて、真っ暗闇に落ちたみたいだった。駆けていた道が唐突に閉ざされ、なにをどうしていいか、わからなくなってしまった。
とにかく、歩けるようにならなくちゃ。
必死になってリハビリに励んだ。皮肉にも回復するにつれ、壊れているところがありありとわかってしまう。自分の体に諭されるように、あたしはもう走れないと悟った。
引退を余儀なくされて、あたしはサーキットに近寄らなくなった。
サーキットに行けばレース仲間がたくさんいる。顔を合わせるたびに引退したと説明するのは、傷口をえぐるのと変わらない。少なからず心配をかけたのに、その話はするなというのは不義理だし、気を使われるのはもっと嫌だった。
仕事でやむなくミニバイクやカート向けの
フルサイズサーキットを走る人は、だいたいフルサイズサーキットにしか行かない。ミニサーキットも然り。両方に行く人も少なからずいて、知り合いに顔を合わせてしまうことがあったけど、そんな時は明るく振舞っていた。落ち込むなんてあたしの柄じゃないし、そうすると向こうも笑ってくれる。気を使っているとお互いにわかっていた。なんとも不自然な会話をしていた思う。それでよかった。みんな、わかってくれていた。お見舞いに来てくれた人たちに、その話はするなオーラを出しまくっていたのが、よかったのかもしれない。
あたしは自分の殻に閉じこもり、レース仲間と距離をおいた。
その上、恋人と思われている男の死だ。しかも自殺を疑われている。とどめみたいなものだ。誰だって悲劇の渦中にいる女に声はかけづらいだろうし、森屋の話題だって避ける。彼氏の訃報が、彼女に届かないわけないって、あたしだって思う。
森屋の訃報があたしに届かなかったのは、必然だったのかもしれない。
しゃっくりのようなゲップがでて、あたしは目を瞑る。
森屋の顔を思い浮かべようとして……うまくいかない。さっきまでははっきり見えていたのに。
本当に自殺したのだろうか。レースができなくなったから? 森屋がレース活動休止に追い込まれたのは、あの時が初めてだったはずだ。
当時、森屋は28で、ライダーの選手寿命は短い。そろそろ身の振り方を考える時期だったけど、自殺なんて……。だってあいつは、人生を懸けて才能を試すって――
いや、それ以前に訳がわからない。
長いこと顔を合わせていなかった男が、この世からいなくなっている。
そんなの、さっぱり理解できない。実感なんてあるわけない。
サーキットに行けば、あの無愛想な顔でピットに立っているんじゃないか。携帯にかければ、あの低い声で応じるんじゃないか――そうだ、携帯。
あたしは弾かれたように体を起こし、携帯電話を操作して電話帳を呼び出す。
今、森屋の携帯に電話をかけたら、どうなるのだろう。
常識的に考えてたら、繋がらないだろう。
携帯を持つ手が、酔っ払っている所為か、僅かに震えていた。
ずいぶん長いこと躊躇って、あたしは、ゆっくりと通話ボタンを押した。
トゥルルルル…………
かかった。森屋の
〈…………ぁい〉
寝起きのような男の声。ノイズが酷くて聞き取りづらい。
「…………森屋?」
〈はぁ? 違いますけど〉
「え? ……あの、これ、森屋さんの携帯じゃないですか?」
〈だから、違いますけど……〉
嵐が過ぎ去るようにノイズが消えていく。森屋の声とは全く違う、知らない男の声。
「で、でもこの番号、森屋って人の番号なんですけど……」
〈あー? その人携帯解約したんじゃないですか? この携帯、新規で買ったもんだし〉
そういえば、解約された携帯番号は再利用するって聞いたことがある。
「そうですか。すみませんでした」
〈いえ〉
相手は素っ気なく言って、電話を切った。
あたしは携帯を手にしたまま、もう一度仰向けに寝そべる。
ドクン、ドクン、と心臓が強く脈をうっていた。
本当なんだ。本当のことなんだ。
いたずらでもされているんじゃないか。さもなくば、長い夢でも見ているんじゃないか。
とにかく、これは事実じゃなくて、かっといって嘘でもなくて……うまく言えない。うまく言えないけど、それは違うって、頭に入ってこなかった。
でも――
森屋の携帯は解約され、赤の他人が使っている。
その客観的事実が、森屋の死が本当のことだと、否応なくあたしに理解させた。
「森屋、もうこの世にいないんだ……」
第2章につづく。
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