第 一 章 6
2番手に入ったのが森屋だった。その
「そっちのエンジン、絶対ボアアップしてるよ~」
ボアアップとは排気量を上げる、すなわちエンジンパワーを上げることだ。排気量でクラス分けされるレースで、ボアアップは言語道断のルール違反。
ボアアップを疑う。それはレースではよくある、勝者への卑屈な賞賛だ。
そのレース、3番手のライダーは
同じ車種、同じエンジンでも整備如何でエンジンパワーが変わり、勝敗を分かつ。後で知ったことだけど、そのレース、森屋は寝食を惜しんで整備に励み、レースに挑んでいたらしい。
「てめぇがろくな整備してねぇからだべ。ボアアップとか、殺されてぇんのか」
森屋は敵意をむき出しにして、秋田訛りで吐き捨てた。
ポディウムが凍り付いたのは、言うまでもない。
あたしは「はっ!」と一笑してしまった。
たったひとつの頂点の座を競うレース。ライダーは全員ライバル。倒すべき敵。そのライバルと仲良くなんて、なれるわけがない。
森屋は本気でそう思っていて、パドックではいつも目を尖らせていた。猿山に放り込まれた新参の若猿みたいだった。
時代遅れ。痛いやつ。空気が読めない。
そんな言葉で森屋を冷笑して、嫌っている人間は少なからずいた。あたしも、あの性格で損してるだろうなって苦笑いした。でも――
本気だと思った。
心の中にあるものを、心の中に留めておけないのは、本気ってことでしょ?
あたしはたとえ、冗談でも勝者に嫉みを言う男より、勝負に愚直なまでに真剣な男が隣にいてほしい。
だからあたしはトランポの共有を受け入れた。あたしと森屋は、レースに対する姿勢や考え方が似ていた。
それが理由のすべてじゃない。移動費とかのメリットが先に立つ。でも森屋じゃなかったら、あたしは断っていたかもしれない。それは森屋にも言える。あたしだから、トランポの共有を持ちかけたのかもしれない。
「MotoGPレーサーが、俺の夢だ」
森屋はなんの
MotoGPとはバイクレースの世界最高峰、ロードレース世界選手権のことだ。世界14カ国18戦に及ぶ、文字通り世界を股にかけた戦い。
バイクレースの本場、ヨーロッパでは、MotoGPレーサーとなれば、サッカー選手と肩を並べる英雄だ。
「世界に名だたるバイクメーカーが、いや、タイヤとかブレーキとか、バイクに関わるすべてのメーカーがその威信をかけて、世界最高峰のバイクを造る。それって人類の英知が結集したみたいなもんだろ? 世界最高峰の技術で造られた世界最強最速のバイク。そのバイクに世界中から集ったレーサーが
無愛想な男が、人が変わったように溌剌と語った。
MotoGPがどんなにすごいか、どんなに魅力的か、あたしは散々聞かされた。まるで自分がMotoGPレーサーになったかのように語る森屋に、あたしはよく耳を傾けていた。
「人生を、懸けるんだよ」
MotoGPレーサーになるということは、世界に何百万といるレーサーの頂点に立つことを意味する。ケーシー・ストーナーはオーストラリアからイギリスに移り住み、
トップレーサーの多くは、そうやってレースに人生を捧げている。
「その覚悟がないなら、MotoGPレーサーを目指す資格はねえだろ」
森屋は毎日は、その言葉にふさわしいものだった。
レース資金を稼ぐために文字通り朝から晩まで休みなしで働いていた。タイヤメーカーやパーツメーカーから支給されるロゴ入りTシャツをいつも着ていて、娯楽はレース観戦くらいなもの。
食事はもっぱら自炊。月に一度の贅沢は吉野家の特盛り牛丼。牛丼が値上げした時はほんとに悲しそうな顔をしていた。
学校の成績は言えないくらい酷いと笑い飛ばしていたが、英語は達者だった。英語がMotoGPの標準言語だからだ。
「俺からレースを取ったら、なんにも残んねぇな」
森屋はネタのように言っていたけど、あながちネタでもないと思った。
日本ではプロレーサーが職業として成立しない。成立するのはバイクメーカーと契約したファクトリーレーサーだけで、十人と存在しない。そしてレーサーは潰しが効かない。
「俺は、俺の人生を懸けて、自分の才能を試すんだ」
森屋に悲壮感なんてなかった。己の才能を、本気で信じていた。
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