啓輔の場合は。

藤沙羅

第一部

第1話 始まりは駅のホームで。

 駅のホームには、会社帰りの電車を待つ人の列ができていた。


 皆井啓輔。住み慣れた地元のシステム会社に就職して四年目、今年で二十四歳になる。

 中学の同級生だった彼女と五年の付き合いがあったが、二年三ヶ月前に別れることになった。きっかけをはっきりとは思い出せないが、仕事からの些細なすれ違いだったように思う。

 そろそろ結婚を考えていただけに、当時のショックは相当なものだった。その上、不運は重なり、仕事でのミスで上司や取引先から怒られ、残業で終電がなくなり、日々の忙しさの所為で感傷に浸る暇もなく。意外と早く立ち直れたから、いまではいい酒の肴だ。


 そもそも、なぜシステム会社に就職したのか、未だに就職活動中の自分の心理がわからない。

 学校は短大の文学部で日本の歴史などを専門としていた。パソコンなんてネットやレポートをまとめるのに使う程度で、それ自体を仕事にしようとは夢にも思っていなかった。

 仕事がまともにできるのか不安だったが、去年からは新人教育も任され、まだまだ先輩に教わることも多いが、今年には上司から昇格の話も聞いている。

 意外とまったくの初心者でもプログラマやシステムエンジニアになれるものだ。様々なプログラミング言語を触るようになってからは、ニュースでシステムトラブルの話題が出ると、処理的な問題点を考えている時があるのは一種の職業病だろう。


「……で、今。何が起きているのか」


 俺は出そうになる溜息を寸前のところで飲み込み、パニックに陥りそうな荒れる感情をなんとか押し止めてその言葉を呟いた。


 会社帰りの駅のホームで、電車を待っていた。

 いつも通りの時間にやってきた電車に乗り込もうとした時だった。

 突然、ホームと電車の間から光が溢れ出し、まるで光の壁のように前に現れたのだ。

 一瞬で視界を覆い尽くした白く強い光に、目を開けていることができず、固くつむった。電車に乗ろうとしていた足は、そのまま一歩前に踏み出していた。


 あの光の壁を、通り抜けた?

 瞼の向こうに感じる強い光が、だんだんと収まるのを感じて、ゆっくりと目を開けた目の前にあったのは、いつも通りの電車の車内ではなかった。


 少しくたびれた木の部屋、壁一面の本棚にところ狭しと並べられた本の数々、本棚に収まりきらない本がいくつも床に積み上げられている。

 足元に描かれたゲームなどでいう魔法陣と思わしきものと、床に尻餅をついてこちらを呆然と見上げる一人の少年。服装は魔法使いのローブのようなものを着ていて、少年の近くには杖らしきものまで転がっている。原因は彼であろう。

 いまだ一言も言葉を発さない少年は大口を開けてこちらを見つめているだけだ。その対処を今からしなければいけないと考えるだけで、胃が痛みを訴えた。取引先からの苦情電話や、営業のありえない仕様変更より厄介そうだ。


「本当に、申し訳ありませんでした」


 部屋の床に頭突きをする勢いで頭を下げた少年、ネモア・グリサラーサ。鈍い音が響いていることから、本気で頭をぶつけている。それでも更に頭を下げようとしているためか、床に額を擦り付けて溜まった埃が舞い上がっている。

 魔法陣から出ることの危険性がわからなかったため、原因であるネモアの意識を戻すために根気強く呼びかけた。

 時間にすると二、三分ではあったが。とても長い時間に感じられた。


 中々反応を返さないネモアに、目を開けたまま気絶しているのではないかと疑いまでした。

 理解できない現状に余裕がなかった所為で、最後の方には怒鳴り声をあげていた。何度、陣を出て、頬を殴りつけようと考えていたことか。

 社会人になってから、いや、学生時代にもないだろうというほどの声だ。


 その甲斐あって、意識を取り戻したネモアだったが、意識を取り戻したら取り戻したで錯乱し始めたのだ。


「師匠の馬鹿野郎! 約束と違うだろうが! ……否、あの馬鹿を信じた俺か? 俺が大馬鹿なのか?」


 師匠に一通りの文句を叫び終わると、項垂れながら自己嫌悪を始める。

 終いには、床に「の」の字を書き始めたネモアの錯乱・落ち込み具合に、自分の感情を吐き出すタイミングを完全に見失っていた。自分以上にパニックに陥っている人がいると、返って冷静になるとはまさにこのことだろう。


 ネモアがぶつぶつと話す内容から、自分が何かの目的、例えば勇者とか神子とかの召喚物でよくある、ある意味押し付けのようなもので喚ばれた訳ではないことにひとまず安心していた。

 半分倦怠化した日常は平和で、それを奪われたまで他人の関係ない世界の安全とか言われても、可能な限り拒否する姿勢だった。

 労働基準法とか考えて欲しい、日本人のサ-ビス残業精神でもついていけない。体か心が、世界を救う前に病気になる。

 過って召喚されてしまったのであれば、情報が必要だ。


 自分の殻に閉じこもり始めているネモアに、俺は営業で鍛えた笑顔を向けながら出来るだけ優しくなるように話しかけ、しばらく正気に戻った少年からネモアという名前と、この魔法陣は師匠の仕業だという話を聞き出すことができた。


「じゃぁ、その師匠を呼んでくれるか?」


 俺の言葉に、ネモアは顔を真っ青に染め、先ほどの床にめり込むような土下座をくりだしたのだ。

 何とか落ち着いてもらわないとどうにも話にならないため、故意じゃないことと、どうかしたのか? とこれまた優しく問いかけると、やっと顔をあげたネモアは視線を何度も彷徨わせる。


「……居ないんです」


 何度か言い淀んだのち、小さな声で呟いた。

 重い沈黙が部屋を包み込む。

 頭の中でせわしなく回っていた情報たちが、一瞬、真っ白になる。


「居ないって、……誰が?」


 思わず出たわかりきっている答えの質問は、冷静になっていたと考えていた俺自身、逆に酷く混乱していたのだと思う。


「師匠です」


 告げられた言葉に答えはわかっていたが、目の前にあった希望を取り上げられたような気持ちは中々上昇しない。

 一番有力な情報を持っているであろう人物に早々に会って、明日の会社に備えないといけないし、朝出がけに干した洗濯物を片付けないといけない。

 言葉もなく、今考えても仕方のないことばかりが頭の中を巡っていて、余計に考えをまとまらなくしていた。

 会社に行くために整えていた髪をぐしゃぐしゃと掻き毟ると、その場にしゃがみこむ。

 今までの経験では、非日常すぎて答えが浮かんでこなかった。


「……あの、大丈夫ですか?」


 お前の所為だろう! そう叫んでしまいたかったが、今にも泣き出しそうな少年の顔を見てしまい、何も言えなくなってしまった。

 当り散らせるほど、自身が子供であればどれほど楽だったか。心配そうに訪ねてくるネモアに溜息しか漏らせない。


「とりあえず、色々と質問をさせてくれるか」


 力なく尋ねる俺に、ネモアは強く頷いた。

 今、情報を得られるのはネモアからだけで、それに、事故であれ故意であれこの場で責任を取れるのはネモアだけだと考えたからだ。


「まず、自己紹介から。俺は皆井啓輔。啓輔が名前だ」

「ミニャイ・ケ-スケ様……ですか?」

「様はいいよ。啓輔……ケ-スケかケ-スケさんかで頼む」

「はい。ケ-スケさん」


 ネモアという洋風の響の名前に、自分の名前は呼びにくいと思っていたが、その考えが間違えていなかったことを知った。

 それに、理由や理屈はわからないが、話している言葉が日本語ではないことにも気づいていた。

 耳に届く言葉は理解できるのだが、注意深く聞くと遠くで翻訳機を通したように理解できない音が流れているのだ。ネモアと話せているということは、自分もあの音で話しているということだろう。

 先ほどの会話からも無意識で日本語になるのは、名前だけのようだと仮説を立てる。


「師匠は居ないということだが。もうお亡くなりになったとか……」

「いえ! あれは殺しても死にません! その……師匠には少々放浪癖がありまして」


 ネモアの師匠は魔法使いの中では相当な実力者で、相当な変わり者として有名であること。

 数々の属性を習得しそのどれもが最上級であるのに、自由に旅行がしたいからと魔法使いの中でも最高の階級にあたる国家魔法士を断り、王様からの呼び出しも届くことがないほど姿を隠している。


 そこで面倒事を押し付けられているのが、唯一の弟子であるネモア。

 国家招集の令状や、重要書類やらを託され、師匠に届けなければいけないのだが、その師匠が中々つかまらない。


 弟子といってもネモアは十五歳の学生の身で、気まぐれに弟子をとった師匠は旅行ばかりでまともに指導をされたことがない。

 国家魔法士の人達に頭を下げて転移の魔法陣を作ってもらい、必死に説得して師匠に転移の魔法陣との繋がりを作ってもらったのが一年前。

 苦労の甲斐があり、放浪癖の師匠を用事があるごとに呼び戻していたネモアだったが、それが今回の事故に繋がる。


 一度は弟子の説得に応じたものの何かと呼び出される現状に満足できるはずもなく、転移の魔法陣との繋がりを切るために陣を描き換えてしまった。その事実に気づかなかったネモアが転移の魔法陣を発動すると、空間が歪み俺が現れたということだ。

 質問に答えているうちに落ち着きを取り戻してきたネモアは、俺を改めてじっくりと観察する余裕ができたのか、頭から服、靴の先までを見てしばらく考えたのち。


「失礼ですが、イエルザの方ですか?」


 と確認してきた。

 何故、そのような限定的な質問をされているのか、質問の仕方に引っ掛かりを覚える。

 しばらく思考を巡らせ、未だに足元にある魔法陣を見る。

 そこでネモアが大きな勘違いをしていることに気づいた。


 転移の魔法陣から本来呼び出す人と別の人が現れたのだから、普通はそう思うのが自然であるのだろう。

 異世界物の小説の読みすぎだよな。

 変に予備知識があったために、召喚されたと考えてしまっていた。


「先に、ここは何という場所だ?」

「あ、すみません。ノシルフィのアニュキスです」


 地球にイエルザやノシルフィという大陸も国もない。


「この星、世界の名前は?」

「エルコティアソフィアですが?」


 何故、そんなことを聞くのだろう。と、今度はネモアの方が首を不思議そうに傾げる。

 実は知らないだけで地球にも魔法が存在していたという事実はなく、異世界に召喚されたという事実のみが残る。

 それを今からネモアに説明するということを考えると口が重かった。

 まともな答えではない、非日常的すぎて、精神を病んでいる人と思われないかを心配していた。


「地球という星の日本という国から来たんだ」


 いつまでも引き延ばしていても意味がないと思い、出来るだけ簡潔に答えた。


「チキュウという星の……ニホンという……国……?」


 小さく繰り返すネモアは意味を理解しようとしているのか。そのまましばらく固まり、口を数回開閉したのち唖然としている。

 しばらく様子を見守っていると、温度を取り戻していたはずのか顔が青を通り越して白くなった。首まで白く、ロ-ブから見える手が小刻みに震えている。


「ケ-スケさん……は、別の世界の人ということですか……?」

「そうなるな」


 しっかりと肯定した俺に、ネモアは声にならない悲鳴をあげた。

 その数秒後には先ほどより激しい土下座が再開された。


 ここ、エルコティアソフィアには異なる世界から何かを召喚する魔法は存在しない。

 精霊や魔獣を召喚する魔法はあるが、あくまでこの世界で生きる精霊や魔獣と契約を結び、繋がりを作り呼び出すことで。召喚には呼び出す対象との繋がりが必要不可欠となっている。

 また、転移の魔法陣に自ら転移する場合もその原理は当てはまり、繋がりをつけた転移の魔法陣を対象となる場所に描き込んでおく必要がある。

 このため、転移の魔法陣には転移元へ一時的に転移の魔法陣が書き込まれる仕組みがある。この一時的な魔法陣へと転移することで、元の場所に帰るのだ。召喚も同様の原理だと世の魔法使いは言う。


 ネモアが今にも死にそうな顔でひたすらに謝り続けているのはこの原理に原因がある。

 過去にも転移の魔法陣の誤作動で、本来の繋がりのない人を呼び出したという事故が何度か存在する。

 その場合、呼び出し元に転移の魔法陣は書き込まれず、戻ることができないのだ。

 繋がりと違うものを呼び出すことによる弊害ではないかと、魔法使いの間では考えられている。

 すぐに帰せないということは、その人の日常生活を崩壊させるも同じ。

 いずれは送り届けることができたとしても、そのためには元の場所と繋がりのある人を探して転移するか、陸や海や空を旅していくしかない。

 つまるところ、異世界などという繋がりもなく、陸も海も空も離れいる場所にはどうしようにも行きようがない。


 帰れない?

 突然のことで、何を言われたのか理解できないでいた。

 家族も友人も仕事も。突然呼び出されたから、当然、別れの挨拶なんてする暇もない。

 仕事を始めてから一人暮らしをしていて、両親とは今年の正月にあったきりで、五ヶ月も前だった。

 友人たちとは頻繁に集まってはいたが、再来週の合コンはどうなるのだろう。

 引き継ぎも何もせずにこちらに来たから、上司は相当怒るだろう。連絡もなく会社を無断で休んだら、心配ぐらいはしてくれるかもしれない。

 そんなことばかりが頭に思い浮かぶ。


「本当に、帰れないのか?」


 真実味がなかった。今でも現実だと思いたくなかった。

 すがるような気持ちでネモアを見つめる視界は酷くぼやけていた。声が震え、喉の奥からは嗚咽が漏れている。


「この魔法陣で帰るとか! お前の師匠とか! 凄い人なんだろ!」


 必死に足元を指差して声を荒げる。ネモアは哀しそうに首を振るだけしかできない。

 どうして、帰れないなんて、簡単に言えるんだ!

 帰れない理由は理解できる、が、納得なんてできない。心の悔しさや遣る瀬無さで、押しつぶされそうだった。


 喚び出された転移の魔法陣には、出口の役割しか果たさないため、ここから帰るのは不可能だと言う話。また、魔法陣の上にいても空間や空気というものはこの部屋そのもののため、陣から外に出ることによる体調の変化はないものだというネモアの説明で、別の部屋に移動することになった。


 机と椅子だけが置かれた簡素な部屋。

 キッチンと思わしき台などがあることから、リビングとして使われている場所だ。

 ここはネモアの師匠の家だが、本来の主である家主は常に旅行に出かけているので滅多にここで過ごすことはなく、戻ってきてもたまった荷物を置きにくる程度。

 他にも部屋があるが、強力な侵入防止の魔法がかけてあり、弟子のネモアでも入ったことのない地下もある。

 一度吐き出すように泣いた所為か、喉は少しヒリヒリするし目元は熱く腫れていたが、なんとか冷静さを取り戻すことができた。泣き疲れただけ、ということもある。


「これからのことだけど」


 俺の言葉に大げさに肩を震わせたネモアは、死刑執行の宣告を待つ罪人のようだ。

 事故とはいえ、日常生活を突然狂わせたこと、更にはまったくの異なる世界への召喚をしてしまっことへの罪悪感、また、異世界人という何をされるかもわからないと言う恐怖心。

 俺から見たら少年と呼べる彼にその責任を背負えというのは、少々大人気ないかと頭をよぎるが。この世界での地位も人権もないので、ネモアを使わないという選択肢はない。


「この世界のことを教えてくれるか? 話はそれからだ」

「……はい」


 小さく頷いたネモアは最初の部屋からいくつかの書類を持ってくると、その中から地図を広げた。

 地図には対角線上に四つの大陸が描かれている。

 左上と右下の大陸の間、ちょうど地図の北にあたる場所は山脈の絵で隔てられ、それ以外の場所は川の絵で分かれている。

 中央は楕円形に海が広がり縮尺的に川の部分の距離がそれなりにあることがわかる。

 その一つ、右下の大陸のちょうど中央につけられた記号を指差してネモアが言う。


「ここが今いる大陸、ノシルフィのアニュキス国です。ノシルフィの首都になります。そして、左回りにシンフォア、イエルザ、アポテメタンと大陸が続きます」

「この地図は距離的にどれぐらいの大きさなんだ?」

「アニュキスからシンフォアとの境の海までが馬で六十日前後です」


 幅三十㎝程度の地図の中で二㎝の距離の話だ。アニュキスが結構な広さであることがわかる。

 種族は人、亜人、魔人などがあり、そのどれもが共生している。

 ただ、体質的なものがあり、ノシルフィやシンフォアには人、イエルザには亜人、アポテメタンには魔人の割合が多い。

 また、亜人や魔人は別名獣人とも呼ばれ、体の一部が獣化したものや人から獣に変化できるもの達のことを指す。亜人と魔人の区別は闇の力に強いかどうかで判断されるため、総じて獣人と言う人も存在する。


 魔法は自然エネルギーの力を借りて、それ自体を具体化することで放出している。

 火、水、風、地の属性は魔法の中でも基本と呼ばれるのもで、他の属性はこの基本を応用したものになる。

 魔法陣はその魔法のエネルギ-を効率的に具体化、発動するための媒体となり、様々な構成要素と順序からその数は何万通りとも何億通りともいわれる。

 このため、魔法陣の開発を専門とする魔法技師と呼ばれる職業があるのだ。


 そこまでのネモアの説明で、一つの可能性に至った。

 魔法技師という職業が定着しているということは、まだまだ未発見の魔法陣が存在するということである。

 そして、今の転移の魔法陣では繋がりを持った人を呼び寄せるか転移するしか方法がないという事実。


「今後、繋がりのない人を転移させる魔法陣ができることは?」

「……それは」


 俺の質問にネモアが机の上で視線を彷徨わせる。

 しばらく考えたのち、一冊の本を取り出すと最後の方のペ-ジを開く。

 床に書かれていた転移の魔法陣がそこにあった。


「これは、世界の魔法陣が描かれた本です。基本的に開発や発見された順に記載されていて、この数字が魔法陣として使えると認定された日になります。今は千七百二年四月三十二日です」

「十年前……」

「移動系の魔法はかなり昔から研究されていましたが、十年前に認定された転移の魔法陣は画期的でした。認定の際に誤作動の問題が大きな波紋を呼びましたがそれを引いても大きな成果だったんです」


 世界の魔法陣が描かれた本として差し出されたそれは、百頁ほどしかない薄いものだった。

 ここに登録されているのは有益として認定されて公にされたものだけのため、秘匿された移動系の魔法陣があるかもしれないとネモアは言う。

 それでも、何万、何億通りの同じような魔法陣が存在する。

 現代のゲ-ムや小説で見ていた魔法とは、予想が離れすぎていた。


「魔法陣のない場所や繋がりのない人を転移させる魔法陣の開発は、それこそ何十年も前から続けられていますが……。成功したという話は聞いたことがないのです」


 世界の魔法陣は、登録されることで絶大な富と地位が約束される。

 そういったものに興味のない者もいるのだが、保証される報酬は莫大だ。

 また、人の口には戸は立てられないというように、自身だけが使う以外で他の者に教えていれば、噂話程度でもどこかから入ってくるものだ。

 転移させる魔法陣が自分の生きているうちにできる確率は、考えれば考えるほど小さいと感じていた。

 今までにできていなかったものが、数年で急にできるとは思えない。

 それこそ、現在ある転移の魔法陣の誤作動がなかなかなくならないのも、転移の魔法陣自体が不完全であるからと言えるだろう。


 何もせずにただその奇跡が起こることを待っているのか。

 そう考えた時、背中を冷たいものが走った。


 その間の衣食住はどうする? 最初のうちはネモアが罪の意識で勝手にやってくれるだろうが、魔法も何も使えない世界からきた自分は無力だ。

 それこそ、今ここで攻撃でもされたら、生き延びれる保証はない。

 それに、罪の意識とは何年も風化せずに続くものだろうか。


 ……否。


 この世界では人権すらない俺が帰る方法を探すにしろ、こちらで生活するにしろ、今のままではどうにもならないのは目に見えている。

 生きるための知識と力をつける必要がある。

 ネモアという少年が、自分を厄介ごとだと思い放棄される前に。

 そのためには、少々の嘘や大げさな誇張は、ネモアに必死になってもらうためには必要だ。

 そう思い、ネモアの瞳を真剣に見つめながら言葉を続ける。


「……俺には、向こうに家族も友人もいたし、仕事もしていた。それに……、妻や子供も……」


 悲痛に眉を寄せ、苦しそうに顔を歪める。

 実際演技というよりは、家族に友人に会えないと少しでも考えると、また泣いてしまいそうだった。


「っ、本当にすみません! 俺、俺……なんてことを!」

「帰れないんだよな……」

「俺、探しますっ! 時間はかかるかもしれませんが、でもっ、方法は俺が!」


 罪悪感を煽りにあおりまくり、その上、使命感のようなものまで発生させ始めたネモア。

 ネモアの将来が心配になったが、手を抜くことなく今度は申し訳なさそうな顔を見せる。


「しかし、ネモアの所為じゃないんだ。君ひとりに背負わせるなんて、俺にはできないよ」

「ケ-スケさん……」

「俺も探したい。自分の帰る方法を。だけど、俺には知識がない、この世界の常識も魔法のことも」


 見つめた視線には強い意志が滲んでいるだろう。

 生きたい、自分の居場所が欲しい、帰りたい。

 何かいい方法はないものか。最後はそう呟いて、ネモアの反応を伺う。

 ネモアはしばらく考えた後、提案するように言葉を続けた。


「俺の通っている学院で、学んではどうでしょうか?」

「学院……。学生になるということか?」

「はい。魔法のことだけでなく、薬草学や古代学、各種民族学と幅広く教えている学院です。学ぶ環境としては最適の場所と言われています」

「だけど、学ぶということは基本的に金銭が発生するだろう。俺は身一つだからな、身分を証明することもできない」


 続けた言葉にネモアは自分の胸を強く叩く。


「ご安心ください。グリサラ-サが後見という形を取れば、身分とかは関係ありません」

「グリサラ-サ、ネモアの家名だよな?」

「はい」


 しっかりと頷いて椅子から立ち上がると、優雅に跪き胸元に手を当て、スッと頭を下げた。


「改めて自己紹介をさせていただきます。国より伯爵を賜っております、グリサラ-サ家の三男。ネモア・グリサラ-サの命に誓って、ケ-スケさんの意志にこたえることを宣言します」


 堂々としたその動作と高らかに宣言するネモアは、産まれながらの上流階級を感じさせた。

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