三千世界のカラスども

はし

いくつもの色が重なりあい、深い黒を高く高く積み上げる。微かな光が浮かんでは沈み、渦の中へ消えていった。ここは意識の集合体だ。個など存在しない。思考も感情も穏やかな波に飲まれていく。確かにあったはずの個が個によって覆われ、姿を失っていく。暖かくも寒くもない。痛くも痒くもない。幸せでも不幸でもない。

なにもない。

刹那のような、永遠のような時のなか、かすかに、空間を揺らすものが現れた。音だ。何かが聞こえる。すぐに飲まれると思われたそれは、徐々に力強くなっていく。

「…い、おーい。ねぇ、聞こえてる?」

声だ。声が聞こえる。とても近くから。渦のなか、キラリと光るものがある。

「起きてー、起きてよー。ねぇ…はぁ」

ため息。続けざまに舌打ち。光が黒を照らし出す。俺という意識が波から掬い出されていく。俺という個が形を持ち始める。同時に、どこか息苦しさを感じた。

「オイ、マジメにヤレよ」

しゃがれた声が言う。声の主は二人いるようだ。微かに周囲が揺れる。

「わかってるよ…仕方ないじゃん、こんなん初めてだし。ねー、コウくん?コウでいいか。そろそろ起きてー」

肩を揺さぶられ、ゆっくり瞼を上げる。鳶色の瞳と目があった。

「おっ。起きた。おはよう、コウ」

三日月型の目が遠退いていく。同時に上半身にかかっていた圧がすっとなくなった。顔の両端には腕。下半身は目の前の男のせいで見えない。

ぼやけた視界。男の後ろには天井が見える。目を擦ると、かすみが取れ、輪郭があらわになる。

ここは二十一年間使っている俺の部屋だ。

「…おはよう」

口を動かすと、男はにっこり笑った。見たことのない男だ。華奢な体つきに色素の抜けた髪。肌は日に当たったことがないかのように白い。整った顔には先ほどの瞳が爛々と輝いている。見た目は少女のようだが、変声期を迎えたのであろう声は男性のものだ。

「ははは、変な顔」

「ネオキはコンなモンだロ」

しゃがれた声が言った。辺りを見渡す。しかし、目の前の男以外に何者かがいる気配はない。

「…だれだ?」

「おれ?アマネ。よろしくー」

「…おぅ」

アマネはにこにこ笑いながら俺を見下ろしている。意図と異なる答えに少々苛ついたが、同時に悪意がある人間だとも思えなくなった。

起き上がる。やはり俺の部屋だ。小学生の頃からある勉強机に見慣れたバスケ選手のポスター。勢いで買ったベース。配置も間違いない。閉じたカーテンの向こうから光は届いてこない。まだ夜のようだ。

「…どうしてここに?」

「どうしてここに?コウに会いに来たんだよ。君はカブラギコウくんでしょ」

「俺に?…てか、足しびれたから下りてくれない」

言うと、アマネと名乗った男は軽く謝って俺の足の上からどいた。じんわりと足に血が巡る感覚。アマネはそのままベットに腰かける。

「それで、俺に会いに来たって?」

「コウに会いに来たか?うん。そうだよ。今日からコウと仕事することになったんだよね」

「仕事?」

俺は二十一歳。就活を終えたばかりの大学四年生だ。内々定はもらっているが、まだ入社はしていない。

「オイあまね。ユウチョウにハナシてるヒマねぇゾ」

また、どこからか声がする。アマネの声ではない。見渡しても誰もいない。

「あー、そうだね。じゃあ、説明は移動しながらするからさ。とりあえず来てよ」

アマネに腕をとられる。そのまま引っ張り上げられた。床についた左足がビリッとしびれる。ハッとして立ち上がらせようとする手を振り払う。

「ちょ、やめろよ。やだよ。どういうことだか説明しろって」

「えー。どこから?」

「どこから?」

「あまね」

またあの声。誰なんだ。なんで二人しかいない空間で第三の声がするんだ?そもそも…この状況はなんだ?どうやって部屋に入った?

思考がクリアになっていく。これはおかしい。もしかして、こいつ頭が少し変なんじゃないだろうか?身の危険は感じないが…いや、部屋に侵入されてるんだ。何を考えてるかわからない。それに、こいつは俺の名前を知っていた。俺を狙ってきたのだ。え?なんで?俺のストーカーとか?男が男の?いや、この多様性の時代にその可能性を全否定することはできない…。考えながら枕元に置いたはずのスマートフォンを手で探る。アマネは俺を見つめたまま首をかしげた。

重量のある小箱が指に触れる。その瞬間、ベッドが、いや部屋自体が激しく揺れた。

「地震か?」

「あー。見た方が早いか」

アマネはつかつかと窓に近寄ると、カーテンを一気に開いた。雲でにじんだ星空が広がっている。じっと目を凝らしていると、漆黒のなにかがものすごい早さで空を駆けた。目を凝らしていないと見えないだろう。いくつもいくつも、暗闇を切り裂くようになにかは地に向かって降り注いでいる。

「なんだあれ…?」

「あれはね、おれたちを狙ってるの」

「俺たちを?」

「そう。それで、あれをやっつけるのがおれたちの仕事」

アマネは俺をじっと見ている。その表情に嘘があるようには思えない。

紅茶色の瞳にふっと影が差した。

「あれは、助けを求める叫びなんだよ」

「叫び?」

「そう。だからおれは行くよ。コウが行かなくてもね」

「オイ、あまね」

しゃがれた声を無視し、アマネはカーテンを閉じた。そのまま扉に向かって歩き出す。

状況は全く分からない。この男の正体も。不可思議で怪しいことが多すぎる。

それでも、助けを求める人がいるなら。

「ま、て」

ノブに手をかけたまま、アマネはこちらを向いた。

「…俺も行く」

「そうでなくちゃ」

まるで俺がそう言うのがわかっていたかのように、アマネはニヤッと笑った。


もし、アマネがただの頭のおかしいやつで、いま言ったことすべて妄想だったとしても、人助けをしようという気持ちは良いものだと思う。俺は少しだけこいつに付き合ってやろうと思った。

家から出ると、知らない町並みが続いていた。

「…どこだここ」

「オネイロス」

聞きなれない単語に、眉をひそめる。俺の表情を見たアマネは、言葉を続けた。

「夢の中ってこと。知ってるでしょ?ヒュプノス症候群」

その言葉に俺は息を呑んだ。ヒュプノス症候群。たしか、十五年前に発見された奇病だ。ストレスが一定値を越えることにより発病するらしい。発病した患者はその瞬間から眠り続け、放置すればそのまま死に至る。たしか最初の発病者は十代の少年だった。若い年齢に多く、現在確認されている中でもっとも年長な者でも二十代後半だという。

「初めての患者が認定されてから、ヒュプノス症候群は研究が続けられてきた。患者は一定のストレスを感じることで突然眠りについてしまう。通常の眠りとは異なり、彼らはずっとレム睡眠状態で、夢を見続けている。彼らが見ている夢の世界をオネイロスと呼ぶんだ」

アマネは言いながら暗闇を進んでいく。俺はやつを見失わないよう、小走りで追いかける。

「ここが、そのオネイロス?」

問うと、アマネは頷いた。

つまり、アマネが言うことには、俺はヒュプノス患者が見ている夢の中にいるということになるのか。

辺りを見渡す。とても夢の中とは思えない。体の感覚だってあるし、見ている風景にも違和感はない。ただ一つおかしいのは、俺は確かに自室からでたはずなのだが、この風景に見覚えはないということだ。

「でも、人の夢の中になんか入れるわけないだろう」

アマネの背中に投げ掛ける。

「普通の眠りとは違い、オネイロスはノンレム睡眠にはならない。安定した空間なんだ。そこで、オネイロスを覗く第三者夢想可視化装置が開発された。まぁこれもすごい機械だよね。ここに来るまで…十年はかかってたと思う。オネイロスを観察することで、ヒュプノス患者が夢の中でストレスのない、穏やかな生活を送っていることがわかった。彼らの生活している場所は、現実で過ごしていたのと全く同じ場所だ。…学者の中にはヒュプノス症候群は人類の進化と考える人もいる。このストレス社会から身を守るための対抗手段だってね。でも、そのまま眠り続けていたら世界は終わる」

住宅街を出ると、開けた場所にたどり着いた。濃紺の空には月が三つ浮いている。夜であることを配慮しても、人の気配が全くしない。

アマネは立ち止まると、屈伸運動を始めた。ぐっと腕を伸ばしている。

「ヒュプノス患者は日々増え続けている。まだ自然にその眠りから覚めた者はいない。だから、外部から起こす必要がある」

「それが、俺たちの仕事?」

「そう!」

アマネはこちらを見るとニッと笑った。にわかには信じがたい。しかし、夢の中だと言われれば不思議な出来事にすべて説明がついてしまう。

「第三者夢想可視化装置を応用して作られたのが第三者夢想介入装置。おれたちはそれを通じて他人のオネイロスに侵入している」

「ふぅん…」

そんなに都合のよい装置ができるだろうかとも思ってしまうが、この訳のわからない状況がその証拠だろう。

半信半疑ではあったが、その半分は次の瞬間吹き飛んだ。

「で、どうやったら起こせるんだ」

「それは」

言葉の途中で、アマネが突然飛びかかってきた。そのままアスファルトに押し倒される。

「ってぇ…なにすんだ!」

「あれ、あれ」

アマネの指差す場所には大きな矢じりのようなものがいくつか突き刺さっている。俺がいた場所だ。

「なんだこれ…」

近寄って見てみる。赤地に、緑や黄色がちりばめられている。

アマネはそれを一つ取ると、口に運んだ。

「ピザだね」

「はぁ…?」

空を切る音が聞こえ、とっさにしゃがみこむ。まただ。ピザがアスファルトに半分も刺さっている。

ピザが飛んできた方向を見上げる。そこには満月が浮かんでいた。

いや、違う。あれは人だ。

「太ってるね」

アマネが呟くと、満月が落ちてきた。地面が揺れる。

咆哮。とっさに耳を覆うが、それでも鼓膜が破れそうだ。

「怒ってるなぁ」

「見れば分かる!」

ピザが飛んでくる。二手に別れてそれを避けた。

「こいつはなに!?」

「あいつがなにか?ニュクス!」

「え!?なんだってぇ!?」

大分離れてしまったせいでアマネの声が聞こえない。しかし、そうこうしているうちにもピザは飛んでくる。走りながら避けていると、アマネがなにかを投げて寄越した。とっさに受けとる。

「なにこれ!?」

「ふむむむー」

アマネはピザを咥えたまま走り去る。満月はまた宙に浮かぶと、アマネを追っていった。

「おい!アマネ!」

「オレにキケってコトだ」

しゃがれた声。すぐ近くで聞こえる。おそるおそるアマネが投げたなにかを月の光に当てた。透明なビンの中に、目玉が入っている。

「う、うわぁあああ!」

「ウルセェな」

しゃがれた声は確かにこのビンから聞こえる。まさか、この目玉が喋っていたのか?

「ユメのナカなんダカラ、そんなオドロくコトねぇだロ」

目玉はビンのなかでヌルヌルと瞳を動かしている。抑揚の付け方が変わっていて、まるで違う国の言語のようだ。

「いや、でも、グロいし」

「あァ?レイギのナッテねぇガキだ」

「事実だ」

俺が言うと、目玉は舌打ちをした。

「オマエとおハナシしてるジカンじゃねぇんだヨ」

「あ、ああそうだな…」

目玉は赤い瞳をギョロリとこちらに向けた。月明かりでヌラヌラとてかっている。

「サッキのアイツはにゅくすだ」

「ニュクス?」

「カンタンにイエばねおいろすのバンニン。オレたちのテキ」

ずしんと地面が跳ねた。アマネは大丈夫なのだろうか。

「そ、それで、ヒュプノス患者はどうしたら起きるんだ?」

「にゅくすをタオす」

「そ、そんな。あんなでかいやつ、倒せるのかよ。他に方法は?」

咆哮が遠くで聞こえる。

「ナイ」

容赦のない目玉の言葉がのしかかる。

「イヤならイイんだゼ」

感情のないトーン。目玉に感情を求める方がおかしいのか。

いや、もうここに正常はない。

「行くよ!やってやる!」

「よく言った!」

アマネの声だ。見ると、アマネがこちらに向かって全力で走ってくる。その後ろには、浮かんだ満月がしっかりついてきている。

「なんでこっち来たんだよ!」

「話終わったかと思って!」

アマネはビンを引ったくると、満月に向かって投げつけた。満月が悲鳴を上げる。

「な、なにしてんだ?!」

「鎧を剥ぐ!」

跳ね返ってきたビンをキャッチすると、そのままアマネは走り出す。そのあとを追った。

「これで攻撃すんの?」

「攻撃なんてしない。おれたちは言葉を届けるんだ」

悲鳴がやんだ。振り替えると、先ほどまで満月だったものが人の姿に変わっている。パンパンに膨れた体はセーラー服をまとい、きっちり結ったみつあみは上を向いている。

「あ、ああ…うあ、あああ…」

女子生徒らしきその人は、小さくうめいている。次の瞬間、真っ暗だった空が四角く区切られていった。それぞれが色彩を持ち始める。ぼやぼやとした色のかたまりが姿を表しはじめた。

「写真…?」

そこには、生活を切り取った風景がいくつも並んでいる。鏡越しの景色から、それがセーラー服の彼女の視点であることがわかる。

「それも大事だけどね、こっちも」

アマネが投げて寄越した小石には文字の羅列がうごめいている。フォントもサイズも異なる文字たちが、セメント色の表面で意思をもって動いているようだ。

「な、なんだこれ」

「彼女の記憶の欠片だ。そこから彼女の心を読み解く。得意だろ?」

「読み解くって言っても、こんなん読めねぇよ!」

「読む必要はない」

アマネはそう言うと、そこらじゅうに落ちている小石を拾い上げ、見つめた。そしてアスファルトに一つずつ置いていく。真似するように、じっと目を凝らして小石を見る。脳裏にすっとその文章が飛び込んできた。

『美味しい。美味しい。お母さんが作ってくれた。美味しい。美味しい』

「お母さん…?」

「情報を集めろ!一つの側面から判断するな」

アマネに言われるまま、小石を拾っては見つめる。

『これまで心配かけてごめんね。お母さん、これからはずうっと一緒にいるからね』

『痩せなきゃ、痩せなきゃ、痩せなきゃ』

『お前もそのガキも、もううんざりなんだよ!』

『お腹すいたなぁ。お父さんまだ帰ってこない』

おそらく、どれも何者かの発言なのだろう。そして言葉の発言者はどれも異なるようだ。しかし、文字のみなので発言者があのセーラー服の彼女なのかわからない。

「コウ!」

アマネの叫び声の一瞬後、俺は吹っ飛ばされていた。アスファルトに打ち付けられる。なんとか頭は守ることができたが、全身がいたい。特に衝撃を受けた左腕は動きそうもない。あまりの痛みに思わず声が漏れる。咳き込むと、口のなかに苦味が広がった。

「ユダンしてンじゃあネェぞ」

ハッとして顔を上げると、前方にはセーラー服の彼女が髪を振り乱して立っていた。口の端から黒いもやのようなものがコポコポと漏れ出ている。

「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい」

彼女がぶつぶつと呟くほど、もやは大きくなっている。俺は左腕をかばいながら立ち上がった。

「うるさぁああああああああああ」

叫びと共に口から黒いもやが溢れだし、俺めがけて飛んできた。とっさに脇に飛んでそれを避ける。少しだけかすった右足は真っ赤になっていた。頭は打っていないが、痛みのせいか意識が朦朧としてきた。

「初仕事にしては荷が重かったかな?」

「コイツのニンシキのアマさのセイだロ」

アマネがいつの間にかそばに立っていた。

「ア、マネ」

出した声は情けなく掠れていた。アマネは俺を見下ろすと、口を軽く尖らせる。

「しゃあない。おれがやるかー。まぁ今日のところは流れだけみといてよ」

アマネは俺のそばにビンを置くと、セーラー服の彼女の元に駆けていった。

「あいつ、なにするんだ?」

「とどめサシにイッタ」

「トドメ…?」

アマネの手にはいつの間にか緑のメガホンが握られている。狭い路地のなか、彼女の攻撃をかわしながら距離を詰める。二人の間が十メートル程になったとき、アマネは止まった。メガホンを口に当てる。

「きけぇえええええええええ」

アマネが大声を出した。一瞬、彼女の叫びが止まったが、ふたたび攻撃が始まる。

「食べるのって楽しいよなぁ!?」

「なにいってんだあいつ」

「ダマッてミてロ」

アマネは避けつつ、その距離を保って話続ける。

「せっかく作ってくれたもん、残せないよな!」

「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい」

「お前は自分の欲望でその体型になった!」

「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい」

「何を恥じることがあるんだ!?お前がしたことは悪いことなのか!?」

カタカタと周辺に落ちた小石が震えだす。蠢く字が赤色に染まっていく。

『じゃまくせーんだよデブ』

『もうちょっと痩せようとか思わないの?』

『あの人、すごい太ってるー』

『太っちゃう体質なのかな?』

『なんで痩せないの…?こんなにいろいろ試したのに』

文字が頭に飛び込んでくる。目玉はじっとアマネを見ていた。

「あんたが太ってンのはあんたのせいだ!美味いもんをいっぱい食った!それを非難するやつもいる!」

セーラー服の彼女からの攻撃が減ってきている。もしかして、アマネの言葉を聞いているのか?

「あんたができることは一つだ!」

彼女は口をだらりと開けたままアマネを見ている。もう完全に攻撃はやんでいた。アマネは正面から彼女を見据える。

「自分のとった行動を肯定しろ!美味いもんを腹いっぱい食べて幸せになったことも、母親の気持ちを拒めなかった優しさも、その体型が変わらないことも!」

「ううう、うううううう」

アマネに被って彼女の表情は読めないが、その姿がしゅるしゅると縮んでいくのが見える。アマネは叫ぶことをやめ、彼女を見ていた。

「い…の…?」

ポツリと、彼女がこぼした。

「い…いの…?」

初めて、彼女がコミュニケーションのための言葉を発した。それは、先ほどまでのダミ声とは異なり、まだ幼い少女のものだった。

「いいんだ!」

パリンと、なにかが割れるような音がした。見上げると、空の写真がキラキラと割れ落ちてくる。

「自分と自分の大切な人のために生きろ!」

アマネの言葉を皮切りに、周囲の風景がガラガラと音を立てて崩れ始めた。

「お、おいなんだこれ」

「ねおいろすがホウカイすル。カノジョはメザめル」

瓦礫は地面に達することなく、小さな欠片になって消えていく。

「まぁ、こんな感じでやれば大丈夫」

アマネがまたすぐそばに立っていた。彼女は先ほどと同じ場所にうずくまり、泣き声をあげている。

「わけわかんねぇよ…さっきあの子に言ってたことはなんなんだ?」

尋ねると、アマネは俺の隣に座り込んだ。空を見上げている。写真が剥がれた向こう側から光が漏れてくる。

「彼女はひとりぼっちだった。父親はギャンブル、母親は生活費のために働きに出ていてね。二人は離婚し、母親は再婚相手を見つけた。母親は専業主婦になり、いままでほったらかしていたぶんを返すように彼女に尽くした。最もそれが顕著なのが食事だ。ろくなものを食べていなかった彼女はそれを貪った。必然的に彼女は太った。周囲の人間は彼女を貶した。彼女は痩せようとしたが、それを許さなかったのが母親だ。まぁ、許さないって言っても、彼女を喜ばせようと飯を作っただけなんだけどね。彼女はその気持ちを無下にできなかった。そこには母親にたいする優しさと、痩せるために必死になれない自分の甘さがあったんだろう。そして周囲の言葉と自分自身を許せない気持ちによって、彼女はヒュプノスになったとさ。チャンチャン」

「そのことを話していたのか…そんな情報、どこで知ったんだよ」

「さっき教えたでしょ」

アマネは小石を放って寄越した。受けとると、音もなく崩れ落ちていく。

「俺もこれは見てたけど…これだけでそんなにわかるのか?」

「想像するんだよ。世の中、相手に共感しようって奴が少なすぎる。自分中心に考えすぎなんだ。まぁ、さっきの子みたいに他人のことを気にしすぎるのもよくないけどね。いろんな人がいる。些細な言葉で人生を左右される。言った言葉は消せない。だから、おれたちは想像して、言葉で踏み固められた心をを柔らかくしてやらなきゃいけない」

ついに、俺たちが座る地面まで崩れ始めた。

「とりあえず、今日はお疲れさま。またねコウ」

アマネはにっこり笑うと、崩れた地面と一緒に落ちていった。

「お、おい!」

次の瞬間、俺の視界は白に包まれた。

「アマネ!」

叫ぶと、そこは俺の部屋だった。カーテンからは陽の光が射し込んでいる。誰かがいる気配はない。

体を確認するが、どこにも怪我はなかった。今更ながら、あれは夢の中の出来事だったのだ。と、実感する。

ため息をついてベッドに倒れこむ。疲れていた。体は全く疲れていない。疲れたのは脳だ。

ヒュプノス症候群、オネイロス、ニュクス…単語が頭のなかで駆け巡る。まだ現状についていくことはできていない。

ただ一つ確かなのは、彼女を救ったのはアマネで、俺はなにもできなかったということだ。










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