──十年後──


「で?碧は神霊になったのか?」


 隣で酒を呑む女に、わたしは肩を竦めた。


「既に直接会ったのだから、それくらい分かるだろう?」

「ふふ……お前の口から聞きたいと、思ったのよ。」


 わたしは小さく笑い、銀髪の女に言った。


「いいや。あいつは神霊にはならなかった。『精』を操ったわけじゃないからな。あいつは流れそのものを動かしたのではなく、『生き物』を動かしたんだ。

 まぁ、その相手が『神』ってのが、奇跡に近い話だが。雨音はあんぐりと口を開けて驚いていたよ。」

「詭弁な気がするな。解釈の違い、そんなもので決まるのか?生き物スイを動かしたか、それとも現象を動かしたか、と。」

「千恵は何か他にも知っているようだが、わたしにとって理由はあまり重要ではないんだよ、お銀。ただあいつがあいつのままでいてくれた。それだけで、いいと思ったんだ。」


 わたしは、うれしかったのだ。

 こんな人間ではない情けのない生き物に、あんなにしつこく関わろうとして、うっとうしいほどはしゃいで、わたしをあの水源京から連れ出そうとしてくれたことが、わたしはうれしかったんだ。

 だから、きっと花火を見に行こうなどと、血迷ったことを考えた。

 一緒に見てみたいなどと、年甲斐もなく400歳のくせに思ってしまった。


 ああ。わたしは、彼がわたしを人間として扱おうとしてくれたことが、うれしかったんだ。だから、そんな人間が人間のままでいてくれたことに、わたしは心からうれしく、安堵しているのだ。


「ふ~ん。」

「なんだ、お銀。その顔は。」

「いやー、お前のそんな顔は見たことがないと思ってね。」

「そんなにおかしな顔をしているか?」

「ああ。とってもわらわ好みの、いじりがいのある顔よ。」

「なんだ、それは。」


 わたしは白銀の狐の緩んだ顔を見てから、ふっと笑った。

 以前のわたしであれば、ここまで心穏やかに笑うことはなかっただろう。良くも悪くも純粋に素直に心をぶつけてくるあの子どもに、わたしはすっかり変えられてしまったのだから。


「なぁ、翡翠よ──」

「だああ!ええい、なんとかしてくれ、翡翠!!」


 お銀が口を開いたちょうどその時だった。あわただしい音を立てながら部屋に転がり込んできたのは、墨で丸やらバツ印を顔にデカデカと描かれたハクだった。


「あのガキども、飛んでもねぇ奴らだ!鬼だ!悪魔だ!みろこの顔を!!イケメンが台無しだぜ!!」

「ふ。お銀の娘息子だからな。力に関してはわたしを凌駕していることなど、分かっているだろう?」

「そんなこと言ってねぇでなんとかしてくれ!うわっ!また来やがった!」


 ハクは慌てて窓から外へと泳ぎ出す。


「碧~!大学だかなんだかしらんが、はやく戻ってきてくれ~!」


 わたしは塔の窓からハクが目指す、輝く水面を見上げる。

 ゆらりゆらりと揺れるその光は、今にもその上から、何かが落ちてきそうだ。


「相も変わらずハクは騒々しいな。だが、あれのあの様は何百年経とうと酒が進むな。」

「碧と一緒にいるときはもっと賑やかだぞ。」

「……それは、まぁ、よかったじゃないか。」


 わたしはそのしんみりとした一言で、彼女が何をしにわたしの元を訪れたのかを察した。


「わたしは嘆くことなどないぞ。彼が──碧が、神霊にならなかったことを。」


 お銀は逃げていくハクを遠い目で眺めながら、静かに言った。


「いいのか?それで。」

「ああ。いずれ寂しくは、なるだろう。」


 あれから10年。何も変わってはいない。

 人間に戻るには同じ時だけ外の世界にいなければならない。それでも神霊から人間に戻るのは不可能に近いだろう。わたしは出口の見えない、400年もの長い長い闘病生活を始めたばかりだ。

 そして、その最後の時には、あいつはいない。

 わたしが人間に戻れても、あいつは、いないのだ。


「その時になったら、年甲斐にもなく泣き喚くかもしれん。」


 それは寂しい。わたしを人間に戻すといった、自分の命を掛けてわたしを救うといったあいつは、その結果を見届けることはできない。そして結末がどうであれ、そこに至る喜びを、悲しみをあいつと共有することはできないのだ。

 彼との日々は、400年という月日の中では一瞬に過ぎない。この幸福は一瞬で終わるのだろう。

 けれども──


「それでもな、わたしはあいつを、人間として看取りたい。」

「……そうか。」



 あいつは神霊わたしに、『人の営み』という輝きに触れさせようとした身の程知らずだ。誰にもできないことを──そう、『神』にすらできないことをやってのける、誰よりも強い心をもった人間なのだ。

 わたしは、その様に救われ、そのあり方に動かされた。


「あいつがたとえ神霊になったとしても、碧という心の本質はかわらないだろう。けれど、それでも、根拠はないのだが、あいつは人間じゃないとだめなんだ。」


 わたしは光り輝く都を眺める。


「あいつは『神』にすらできない“人”を救う存在になったんだ。それこそ、ハクの言葉を借りるなら、“神様”とでもいうのだろう。」


わたしは耳飾りを少し撫でながら、水面に映る緑色の輝きを見つめる。


「ああ、そうさ。これはわたしの我儘なんだ。あいつには、わたしの”神様”でいてほしいんだ。」


 あいつと一緒に生きるこれからの数十年は、きっとこれまでの400年よりもずっと楽しいものになるんだろう。

 もう紅葉狩りにも花見にも富士の霊峰を見にも出かけたが、この世界は知らないものだらけだ。

 あいつと一緒にいるのは、胸が躍る。


 だから再び筆を執った。

 この記憶を、決して忘れないために。


 そしていつの日か、人に戻った時、わたしはこの日記を読んでこう言うのだ。



「わたしは──あの夏、“神様”に、出会ったんだ。」



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水源京 猫山英風 @h_nekoyama

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