第29話
身体を打ち付けた痛みなど一瞬だった。濁流がわたしの体を槍のように刺し、刀のように切り裂く痛みは気にすることなどなかった。それ以上に、息ができない苦しみの方がつらかった。鼻と咽頭に土砂がつまり、内側から私の体を苦しめる。
だが、これも一瞬のはずだ。
一瞬で終わるはずなんだ。
頭を空っぽにしろ。
何も考えるな。
何も感じるな。
そうすれば、全てが──
◇
どうして、そうなったのだろうか。
わたしは覚えていない。
気が付いたら、ここにいた。
水に包まれた、この都に。
「生きて──いるのか……?」
わたしは分からなかった。
あの濁流にのまれて生きているとは、自分のことながら思えなかった。けれど、死んだと言われても、どうもピンと来ない。生と死は花が咲いて散ることのようにはっきりと違うモノだと思っていたが、コレはそうではなかった。ただ
「……」
お菊がくれた着物も、彼の髪飾りも、ちゃんとあった。傷一つなく、艶やかで滑らかな感触が、わたしの心を温かく、そして急激に苦しく包み込んだ。
水の中の音は、全て自分の内側へと響く。
それが、とてつもなく孤独だった。
泣き叫べば叫ぶほど、もう一人なのだということを思い知らされる。
その日は、ただ一日中泣き続けた。
水の真ん中で、ただ一人、泣き続けた。
◇
街には、だれもいなかった。ただ、それは住人が消え去った、というのではなく、
真新しい。
この水中にある家々はどれも新築のようだった。わたしは困惑した。本当にわたしはいま、どこにいるのだろうか。もしや流され続けて竜宮城にまでたどり着いたかとも思ったが、街に果てがあり、果てには切り立つ崖があったから、海ではないのだろうと考えた。
そしてやはりあの世というものなのだろうと考え始めた頃、わたしの前に、突如アレは現れた。
竜だ。
泡でできた、白く透明な竜だ。その体は大河のように大きく、この水の都を覆い尽くすほどだった。轟音と共に地を割って現れたアレは、何度かわたしの周りを泳いだ後に、こういった。
“我はスイ。流水の神、スイである。”
竜はその山のような巨大な顔を、わたしに近づけた。
“
◇
訳が分からなかった。
あのスイとかいう竜はそう言ったきり、二度とわたしの前に現れなかった。
だから、自分がどういう状況にいるのかは、自分で突き止めるしかなかった。
そして、それを理解する間もなく、またしてもよくわからない現象が私を襲った。あのスイの“宣言”の後、突如として街に住人が押し寄せたのだ。
何がどうしてそうなったのかはさっぱりわからない。けれど、その住人の誰もが“人”ではなかった。魚やカニのような生き物から、子供のように水中を泳ぎ回る妖精、言葉を発さぬ異形のモノ、会話のできる動物たちなど、ありとあらゆる“生き物”が雪崩のように押し寄せた。
そして、自分がこの街──水源京という都の“主”であるということは、やってきた“生き物”達の言動からも分かった。
彼らは私の前にやってきては口々に言うのだ。
“水源京の主よ、どうか、お見知りおきを”
と。
──誰だ。
誰なんだ、お前たちは!
そもそも、水源京とは何だ!
主とは何なのだ!!
それと、なぜ、誰もわたしの言葉に耳を傾けないのだ!
休む間もなく続くその同一の呪文を無限に聞かされ、わたしは正気を失いそうだった。
その時の困惑と恐怖は3日も経てば怒りへと変わった。何も分からないことへの怒り、だれも教えてくれないことへの怒り、そして何もできないことへの怒りが頂点へ達しようという時、異形のモノたちの中でも最も年老いたナマズが、わたしの怒りに応えた。
「水源京とは、あらゆる命が集う都。川、湖、池を創り出す水が湧き出る“源泉”につくられた都です。神が住む場所には
「あれが、神──」
「……『神』とは、現象に近いものです。あなたはどうやら人間だったようですが、あなたが持っている”神”という概念よりかは、
「そう、なのですか……」
ナマズの言う『人間だった』という言葉に、わたしは寒気を覚えた。
「やはりわたしは──死んだのでしょうか?」
「はて。それはどうでしょうかな。」
ナマズは目を閉じ、その長いひげをたなびかせた。
「『生き物』としては生きているのでしょう。ですが、生きているかどうかは、あなた次第でしょう。」
「?」
よくわからなかった。
もっと詳しく教えてほしかった。けれど、その白く濁ったナマズの瞳を見ていると、無言でいることが怖くなった。考えている“間”が、恐ろしかった。だから、話題を変えた。
「……源泉につくられた──ということは、ここは
「左様。」
このような異形の存在がいるから妖が住まう世界だとは思ったが、まさかそれが水源にあったとは……わたしは驚いた。洞窟の向こう側や木の虚の中には別の世界があると聞いたことがあるが、水源にあるとは思いもしなかった。
「わたしは、谷に流れる濁流に落ちたのです。ですが、何故このような場所に?」
「……さぁて。それは儂にはわかりませぬなぁ。」
ナマズはそういうとわたしの前から去ろうとした。
わたしは慌てた。この三日間でようやく会話のできる生き物に会えたのだ、出来る限り自分のことについて知っておきたい。
「ま、待ってください、管理とは、一体なにをするものなのです?この水源京でわたしは、どうしたら──いや、わたしはこの先どうしてゆけばよいのです!」
「水源京──儂はもういくつもの水源京を見てきましたが、管理するとは、この街を街として成り立たせること。そういう役割を持った存在だと、そう思っております。」
「街として成り立たせる──役人のような仕事をせよと、そういうのですか?このわたしに?」
「……左様。『神』は、生きていることを実感したがるのです。だから、スイは自分の住まう場所──都で、『生き物』が生きていることを見たがるのです。」
「生きていることを見たがる?」
「……ええ。都が都として成り立つにはそれなりの指導者が、管理する者がいる。故に、スイはそれを真似て、誰かを管理者として指名する。それが、今回あなたであったということです。」
「……」
よくわからなかったが、とりあえずは街を街として成り立たせる役目が私にはあるのだと、それだけは分かった。
「流水の神であるスイは、水の流れる場所に常に居る。この水源京に水が湧き出ている限り、この世界そのものは安泰です。あなたはこの街を、管理すればよいのです。
……あなたの住まいは、足元に見えるあの塔のどこかにするとよいでしょう。」
「……もし、管理できなければどうなるのです?」
わたしの言葉に、ナマズは眉をひそめた。
「特に何もありません。」
「──え?」
「管理しなくても、別に構わないのです。ただ──」
「ただ?」
「管理者は──水源京の主
水源がなくなった時、あなたも消えるでしょう。
◇
わたしはそれから、管理者としてふるまった。
いや、なんとなくそうあろうとした。
特段なんの目的もあるわけでもなかったし、どうして行けばよいかもわからなかった。だから、あのナマズが言うようにしようと思った。
それに、「水源がなくなった時、あなたも消えるでしょう」という言葉は、少なからず不安を覚えた。──そもそも、人柱になると決めた時点で、自身の生など捨てた身だ。何をいまさら恐れているのかと、そうわたし自身思った。そう思ったけれど、それでも、何かが心の中でざわついた。心の奥底から、何かが沸き上がってくる気がした。
わたしは『水源京』に差し込む光に、この白い手を毎日かざした。
「もしかしたら、いつか、いつか──」
◇
水源京に来てから5年がたった。
気が付いたときにはわたしは水を操る不思議な『術』を手にしていた。
うまくは扱えなかったがそれでもその新鮮な力にわたしは興奮を覚えた。
他とは違う、何か特別な力を得たことが、少しうれしかった。
それに何より、この力があれば、この光が差し込むあの『穴』から外の世界へ出られるかもしれない。その思いが、わたしに力を振るわせた。
そんな時だった。この水源京に、妙な衝撃が走った。
わたしは心臓を鷲掴みにされたような気がした。
地震が起きた時に全身に感じる、あのただならぬ気配への悪寒が、わたしを部屋の外へと動かした。
水源京の端。
透き通る水の一角が積乱雲のように砂埃が舞い上がっている。その薄茶色の雲の上では、天まで続く細やかな泡がきらめいていた。
何かが上から降ってきた。そう思ったとき、その雲の中から、あの狐は現れた。
見上げるような巨体の狐だった。水草のように滑らかに揺れる銀の毛並み。家屋を紙切れのように切り裂く鋭い爪。その四肢は力強く、されど美しい。湖底の都に立つその姿は山のように雄大で荘厳だった。これが『畏怖』というものかと、そうわたしは思ったのを覚えている。
その銀弧は都の端からわたしを見つけると、家を踏み砕き、石畳の道を割り、すさまじい速さで水中を駆けた。その一歩は屋根を十は越え、水源京を震わせる。その跳躍は千里を超えるのではないかと思うほど力強く、そして猛々しかった。
「人間の
「──」
水源塔の最上階。その窓と壁をぶち破り、その銀弧はわたしの前で深紅の口を開いた。
「やめろ、お銀。彼女を食らったところで、何にもならんよ。」
「……ッチ。分かっておるわ、さようなこと……」
銀狐は自分の背中を一度睨み付け、再びわたしを見下ろした。
「──命拾いしたな、水源京の主よ。お主が人間のままであったなら、その首ねじ切って腹に収めてやったところよ。」
「おい。」
「フン、二度も言う必要はない。」
その銀弧は目を閉じ、体制を低くして背中をわたしに向けた。
「とんだ挨拶になってしまったな。許せ。水源京の主よ。」
「……お前たちは、誰だ。」
わたしの問いに、銀弧の背から降りた者は答えた。
「我は千恵。梅の木の神霊、千恵だ。
──ああ、そうだとも。我らは汝と同じ、神霊だ。」
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