第26話
◆
昨日、碧はわたしに見せたいものがあると言った。
それが何とは言わなかった。
ただ、「明日は夕方に来る」と言ったから、多分そうなのではないかと思っていた。
「じゃーん、持ってきたよ!」
碧はわたしに持ってきたそれらを見せる。異様なほど彩色の豊かな1尺ほどの棒が、何十本とその透明な袋に入っている。
「翡翠、確か水源京の街中にちっちゃな広場があったよね。あそこに連れて行ってくれない?」
彼を望み通りその広場に連れていった後、早々に退散すればよいものを、わたしはそこに踏みとどまった。
そんなことをすれば、どうなるか分かっていたくせに。
思えばずっとそうだ。
あいつが水源京に行きたいと言った時、彼に“来るんじゃない”と、そうは言えなかった。そう言わなければ、どうなるか分かっていたくせに。
あの手紙が投げ込まれた時、手を伸ばさなければよかったと、そう後悔することが分かっているのに、手を伸ばしてしまった。
──あいつが名前を知りたいと言ったとき、名乗らなければ、こんな思いはするはずがなかったのに。
ああ。息苦しい。
なんて、自分勝手なやつなんだ、彼は。
わたしが、どんな思いでいるかも知らないくせに……
……ああ、息苦しい。
なんでこんなにも、痛いんだ──
◆
夜の水源京は昼間よりももっと静かになる。この世すべての生き物が眠りについたようで、僕たちの息遣いだけが世界に響く。
星の明かりはこの街には届かない。松明がなければ鼻をつままれても分からない暗闇だ。この広間から見る水源京は、ひどく冷たくて寒い。吐く息が白くなっているような、そんな気さえしてくるほどに。
「……」
僕は暗闇の水面に映る、翡翠を見た。
松明の光に照らされて、その泡の表面は蝋燭のように揺らいでいる。その中心で、見えない星を探すように、彼女は泡の天井を見上げている。
「――じゃあ、やろっか。」
僕は松明を広間の隅にある桶に入れた。そして持ってきた大きめの花火の袋を少し乱暴に破く。静かな世界に、バリバリと異質な音が響いた。その音に驚いたのか、翡翠は僕とハクに視線を移した。
「はい、翡翠。」
僕はいくつかの花火を選んで彼女に差し出す。けれど彼女は広間の端から動こうとはしなかった。
「……私は……」
「……」
僕は差し出した花火をもとに戻し、小さく微笑んで見せた。
「じゃぁ、先に僕が見せるね!翡翠が昔やった花火と同じかは分からないけれど、もしかしたら翡翠の知らない危険が潜んでいるかもしれないし。」
「いや、そんな危険はないだろ……」
ハクはボソッとつぶやいたが、僕が頬を膨らませているのを見ると、「へいへい」と言って花火から距離を取った。
「こうやって、松明の火を花火につけて……ほら、ついた!」
僕は数メートル離れた翡翠に花火を見せる。
その光は、最初こそ淡く、静かにくすぶる松明の炎だった。しかしそれは次第に勢いを増し、白く輝く光の束を創りだした。まるで轟々と火を噴くドラゴンのようだ。
「おいおい、いきなり激しいヤツ選んだな。真っ白じゃねーか。」
ハクは僕の花火を見て苦笑する。
「だって暗闇でよくわからなかったんだよ!」
「あはは、なんだそりゃ。おい、オレにも選ばせろ。」
「はいはい。……って、ハク、どうやって花火するの?」
「口で。」
「口で!?」
ハクは暗闇の中、目を凝らしながら一本の花火に舌を伸ばす。
「こいつだ、こいつ。」
彼は黄色い縞模様が書かれた花火に火をつける。
その
「はっはっは。これぞ花火!お前の猫じゃらしとはちげーぞ。」
「猫じゃらし!?なんか悔しーなー。次だ、次!」
僕は別の花火を手に取って火を灯す。
今度はさっきのような真っ白に光る花火ではなかった。暖炉のような温かい光を放つ、穏やかな花火。その音はとても静かで、川を流れる水のように、僕の手から美しい弧を描いていた。
「ね!綺麗でしょ?翡翠!」
「──」
◆
あれは、稲穂だ。
赤く垂れさがる火の粉は緩やかで、夕日に照らされた稲のようだった。とめどなく流れる火の流星は、地面に当たって消えるように砕け散っていく。明るいのは碧の手元だけで、其れより先はただの暗闇だ。
けれど黄金色に輝くその光の束は、薄くともこの暗闇の広間を明るく照らしている。
どんなに弱くとも、わたしの顔に熱を感じさせる。
どんなに淡くとも、わたしの後ろに影を創りだす。
ああ、わたしがやった花火は、あのようなものだったのだろうか。
──いいや、あそこまで強くはなかったろう。
「あ、終わっちゃった。」
碧は輝きを失った花火を、残念そうに見ている。
……仕方があるまい。花火とは、そういう物だ。所詮それがどんなに強く輝こうとも、最後には消えてなくなってしまう。うたかたの夢だ。
「はい、翡翠。」
碧はわたしに“ソレ”を持ってきた。彼の手に握られた青い棒は、わたしに握られることを待っている。
なぜ、“ソレ”を持ってくる。持ってきても、意味はないのだ。
わたしが“ソレ”を受け取ったところで──すぐに、消えてしまうんだぞ。
「ん?でも、その一瞬を観ていたいってものでしょ?花火って。」
……。
碧はわたしに花火を握らせて、ハクの下へ駆け出していった。
……なぜ、こうも自分勝手なのだ、碧は。わたしがこれをもっていても、意味がないだろう。わたしは水だ。花火など、持ったところで、湿気らせるだけだ。
でも──
その稲で、碧は上に下に、円を描く。
その軌跡はまるで空を飛ぶ燕のようだ。
その火の粉は宙を舞い、蛍のようにわたしの前に漂っている。
その音は淡く、薪が燃えるよりも穏やかだ。
もう少し近くで観たら、印象が変わるのかと思った。
碧のもつ“ソレ”は、わたしが知る“ソレ”とは、だいぶ違うような気がした。
思えば、最後に花火を見たのは、いつだったのだろうか。
確かに、花火をした。300年前だったか、それくらいに……
そうだったに、違いない。どんな花火だったかは覚えていない。
──けれど、間違いない。
近づいてみて、よくわかった。
「はい、じゃあ僕から火を分けてあげよう!」
碧はわたしのもつ花火に、自分の花火を重ねた。
そんなことが出来るモノであったのか、花火というものは。
わたしは知らなかった。
熱い。
こんなにも熱いものだったのだろうか。
顔を照らす炎も、手に伝わる熱も、まるで太陽に触れているようだ。
なのに、太陽よりも手が届く場所に、光はある。
随分と、不思議なものだ。
やっぱり、違う。
わたしの知っている“花火”とは、確かに大分違ったようだ。
こんなにも、“花火”とは、強いものだったのか──
◆
◇
「じゃあ、やっぱり最後は線香花火だね!」
僕は袋の中から最後の花火を取り出そうと思った。けれど──
「あれ?あれれ!?ない!線香花火がない!」
いくら探してもそれが見つからない。全部一緒くたに入っていたはずなのに……
「そういや、お前、蔵からそれ出す時、穴が開いているって言っていなかったか?」
「あ……もしかして、落ちちゃったのかな……」
僕はがっくりと肩を落とした。
だって、線香花火だ。あの刻一刻と姿を変える、不思議で暖かで見ていて飽きない線香花火だ。手持ち花火の中で一番綺麗で美しくて面白い、僕が好きな花火だった。最後にそれを翡翠としようと思っていたのに、まさかそれが無いなんて。
「うう……」
「まぁ、そんなにしょげるなよ。もしかしたら蔵の中に落ちているかもしれないだろ?」
「……そう、だといいなぁ。」
僕ははぁ、とため息をつく。そうだとしても、花火の面白さを翡翠に見せるには線香花火が一番いいと、そう思っていた。それに昔からある花火の一つだったから、彼女が打上花火を見てみたいと、強く願うきっかけになるんじゃないかとも思っていた。でも、仕方がない。ないものは無い。
それに、確かに線香花火は無かったけれど、翡翠は花火を手に持ってくれた。数本だけだけれど、花火に自分から火をつけた。そこには曇りはなく、嫌だと思っている様子もなかった。その藍色の瞳は、じっと花火を見つめていた。花火に照らされた彼女の顔は、穏やかで、美しかった。
「……ねぇ、翡翠。」
僕は翡翠に振り返る。
「花火、楽しかっ──」
「エッ?」
僕とハクは、自分たちの目を疑った。そして固まった。ちょっと理解できない状況がそこにあったからだ。
「……?なんだ?」
翡翠は僕らが固まっている理由がよくわかっていなかった。それもそうだ。彼女は悪くない。悪いのは僕だ。きっと彼女は、まだ花火が残っている、そう思ったのだろう。自分から花火を手に取ろうとしてくれた、僕にとってとっても嬉しいことだったけれど、状況が最悪だった。説明していなかった、僕が悪い。でも彼女が握るそれは、流石にやめておこうと思った花火だった。
理由は2つ。
1つは、古かったから。そもそも全部古い花火だけれど、大きなものは何が起きるか分からなかったから、やめておこうと思ったんだ。
そして2つ目。それは、ここが泡の中だったから。泡の外は水で満たされている。泡の高さはせいぜい3メートルほどだ。ちっちゃい“打上花火”なんて、打ちあがっても水に突っ込むだけだ。
で、困ったことに、翡翠はその打ち上げ花火を
「な、なんでそんなもん持とうと思ったんだよ!?」
「?なぜだ?」
「だめだ、翡翠、その花火は捨てて──!」
導火線の火が、花火の筒へとのびる。
間に合わない。
そう思うよりも先に、僕は体が動いた。翡翠の持っている花火は、もう“爆弾”だ。そんなものが爆発したら、どうなるかなんて分かっている!
僕は彼女の手から花火を奪い取った。そして彼女を突き放し、つづいてその“爆弾”を泡の外へと放り投げようとした。
外は水だ。水の中に入れてしまえば、火が付くことはない。
だけど、導火線に引火した火の速度に、僕が叶うはずがなかった。
手を離したその瞬間、その筒は軽い炸裂音を響かせながら、その場を真っ白に輝かせた。
「──碧!」
そう、叫んだのは、誰だったのだろう。ハクなのか、それとも──
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