一番近い君

小鉢

第1話 旅立ち

「怪我なんて我慢して来たらいいのに、お兄ちゃんのバカ」

 この春、中学生になったばかりの三つ歳の離れた妹が口を尖らせて悪態をついてきた。

「ねぇ、行こうよ」

 先日、買ったばかりの新しいワンピースを着て後ろ手に組みながら前かがみで僕の表情を覗いてくる。

 シャンプーの新鮮な香りが辺りに広がり、空気が変わる。


 くそ!


 悔しいが少し可愛い……かもしれない。


 だがしかし、お兄ちゃんは負けないっっ!


「ギブスが外れないんだ仕方がないだろ」

 僕は前髪をかきあげ、椅子から立ち上がり、片足で立つとこれ見よがしに右足を指差した。


 だいだい家族旅行だなんて、今更、楽しいのかよ!


「きもっ」

 妹は汚物のように僕を見ながら、ちょこんと足を前に出す。

「お兄ちゃんが鈍臭いからよ」

「いたっ」

 彼女の足がギブスに触れ、反射的に出てしまった悲鳴。


 だいだい、「きもっ」って何だよ!


 少しムッとするも、ニカッと笑う彼女の笑みに負けてしまう。

 くそっ、やっぱり可愛い……。

 兄とは、なんと損な生き物なのだろうか!


「おーい、美里、行くぞ!」

 父さんの声がした。珍しくかなりイラついている様子だ。

 この時間もそろそろ終焉ということだろう。

 そもそも、僕が交通事故に遭ったせいで、春休みに行く予定の家族旅行は五月の連休にずらされていた。


 声につられ部屋を出た妹を片足で追いかけるようにして出た。


 扉枠に手を添えて、彼女の後ろ姿を見た。


 小窓からの朝日が廊下を照らす。

 妹の肩まで伸びた黒髪が白く輝き、お下げが揺れた。


「ホントに行かない気?」

「ああ、ごめんな」

 もともと人混みが苦手な上、面倒くさがりの僕にとって怪我は丁度良い理由だった。


 それに、今生の別れではない。

 たった三日だ。


「おーい、美里、もう出ないと間に合わんぞ!」

「はーい、じゃあね、お兄ちゃんのバカ、バイバイ」

 妹の美里は、慌てて振り返るとお下げを揺らし元気よく階段を駆け降り、姿が見えなくなった。


「おい、美里抱きつくな」

「お父さん、ごめんなさいっ」

 相変わらず、妹はあざとい奴だ。

 父さんの嬉しそうな悲鳴、そして、

勇樹ゆうき、戸締りはしっかりな」

 と不機嫌そうに言い玄関を出る二人の足音が聞こえた。


ゆうくん、冷蔵庫にご飯あるから、ちゃんと食べるのよ」

「大丈夫だよ母さん、もう高校生なんだよ」

「何を言ってるのよ、まだ高校に行ったことないでしょ! いいから、ちゃんと食べるのよ! じゃあ行って来るわね」

 母さんはそう言い残すと扉が締まり、家に鍵がかけられた。


 それが、家族と過ごした最後の記憶。


 海辺の町を見下ろす丘の頂上付近に建つ我が家からの眺めは最高だ。

 朝靄に霞む町、その奥には広大な海が広がり、やがてそれは水平線で空と混じり合う。


 慌ただしい日々が終わりを告げ、陽光を浴びながら一人庭先に佇む。


「一人暮らし、いや……」

 孤独という言葉を飲み込み、冷たい色の朝日を浴びた。


 春に芽吹いた木々の葉が、新緑に色づき、初々しい香りを醸し出す。

 そよ風が生命力溢れる木々の枝を揺らし、サラサラと音を奏でた。

 梅雨前の乾いた風は、一緒に潮の香りを微かに運び、肌を優しく撫でる。


 妹の幻影が僕に手を伸ばしてきた。


 あの日、最後に別れを告げた服装で、

「ねぇ、お兄ちゃん、海に手が届きそうよ」

 と耳元で囁いた。


 懐かしい姿、遠くには父さんと母さんが微笑んでいた。

 繋ごうと僕も伸ばすが妹の手をすり抜けてしまう。


「ほんと、お兄ちゃんは鈍臭いわね。もっとシャキッとね。じやぁ、先に行ってるわ、バイバイ」

 そう言い残し、姿を消し、そよ風に揺れた草木が僕の足元でさめざめと揺れている。


 駅から遠く、坂道が急な不便な立地。

 それでも、父さんは、この景色が好きで、ここに家を建てたと言っていた。


 買い物が大変と不満を漏らしていた母さんも満更では無い様子、いつも一緒に家を出た妹も、今日の風景を見たら目を輝かせたに違いない。


 違いないのだ。


 しばらくの間、学校に行く決心がつかないでいると、隣の家から賑やかな声が聞こてきた。


 先週末に越してきた見知らぬ人々。

「行ってきます」

 女性のみずみずしい声、慌てて家に戻ろうとするも、その姿に思わず立ち止まってしまう。


 同じ年頃の娘が居たのか……、それに、あのブレザーの制服、いや、それよりも……。

 長い黒髪、スラッと背の高いモデルの様なスタイル、清楚で大人しそうな雰囲気の美少女は周りの風景と相まって一つの完成された絵画に見えた。


 目が合い、彼女は驚いた表情を見せ僕を凝視する。

 戸惑いながら僕は頭を下げ、

「こんにちは」

 と挨拶をした。


 彼女は、ツンと横を向き、

「行ってきます」

 と告げた。後から出てきた彼女の母親が僕に申し訳無さそうに苦笑しながら頭を下げた。


「今日は無理だな……」

 そうぼやき、学校に行くのを諦め玄関のノブに手をかけた時、ガチャンと門が勢いよく開く音が耳に飛び込んできた。


「西崎くんで良いかしら」

 振り返ると先ほどの女性が息を切らし僕のそばにいる。

 よほど慌てて走ったのか美しい髪は乱れ、膝を曲げ、そこに手をつき、可愛らしい口は息を整えるのに必死の様子。

 前かがみで開いた胸元から白い肌、その奥の下着が目に入り、顔が熱くなる。


 顔を背け伏し目がちに必死に返事した。

「西崎だけど……」

 懐かしいシャンプーの香りを風が運んでくる。

 早く、解放してくれ!


「そう、はじめまして、西崎くん、私は、神崎さやか、一緒に学校に行きましょ」

 もう一度、彼女を見ると、

「それに、今日は良い天気、ほら、海に手が届きそうよ」

 空いた手で遥か彼方の大海原を指差した。


「いや、今日はちょっと……」

「もうっ、意外に鈍臭いわね……。ほらっ、シャキッとして、私が連れてってあげる」

 彼女は強引に僕の手を引くと、家の敷地から外へと連れ出した。


 僕は、彼女に手を引かれ丘の上から真っ直ぐ伸びる坂道を駆け下りて行く。




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