第114話 飾り玉の青年

 シュンの言葉に、場が凍りついた。


 ヒュッと息を呑む音が聞こえた。取り巻きのどちらかが驚いて喉を鳴らしたのだろう。それは恐怖からだった。


 ユウへの恐れから取り巻きの二人が後ずさる。それは——シュンの放った言葉が、ユウの前で『絶対に触れてはならない話題』だったからに他ならない。


 ——この女、本気で殴られるぞ。


 普段からユウにおべっかを使っているのはご機嫌とりだが、自分達にユウの怒りが向いていなければ、こういう騒ぎはいくらでも楽しめる。


 恐れと好奇の目で、二人は揃ってユウの顔を見た。


「……」


 取り巻きの二人は慌てて目を逸らす。そこには怒りで顔を赤黒く染め上げたユウの姿があった。






「貴様……」


 ユウの憎悪の声に、シュンは引かなかった。


 確かに怖い。


 怖いがシュンの中にも怒りの血が巡っている。自然と彼女は右手を強く握りしめた。今、自らが持つ武器はこれしかない。この右手で受けて、殴り返す——。


 シュンはわずかに身体を斜めに向けて、ユウに対する面積を少なくする。左手はやや前に出し、盾をにする。


 講義室内でその仕草しぐさに気がついた者はただ一人——。


 それは対面するユウでも取り巻き連中でもなかった。ユウが怒りで拳を振り上げた時——その人物はもてあそんでいた玉飾りの豆粒ほどの珠石たまいしを、彼に向かって放った。


 それはあやまたずユウの額に見事に命中する。


「痛っ!」


 ざわっと講義室内が揺れる。皆の視線が、その石を指で弾いた当人に集まった。




 ユウの怒りは今度はその青年に向けられた。自然とユウと彼との間の人混みが割れ、道が開かれる。シュンはようやくその青年の顔を見る事が出来た。


 頬杖ほおづえをつきながら、まだ他の飾り玉を弄び、不遜な笑みを浮かべてこちらを眺めている。


 ゆるく纏めた長髪がややだらしなさを感じさせるが、整った顔立ちは役者を思わせる雰囲気を持っていた。


 身なりも悪くない。ユウの着ている物が悪趣味なゴテゴテとした仕立てだとすれば、彼は流行りのものをわざと地味に仕立てた風情である。


 ——見た事がない顔だ。


 シュンはユウの殺気がれたので、ふっと握り締めていた右手を緩め、窮地を救ってくれた青年を観察する余裕ができた。


 にやけた顔の青年はその顔に似合う含みのある声で、


「よしなよォ」


 と半笑いで言った。


 これでも一応、ユウを制しているつもりらしい。


「その何家かけに連なる、本物の張家ちょうけの子だからねェ」


 喉の奥で「くっくっく」と笑っているところを見ると、本気でユウを馬鹿にしているのだろう。


 笑われた方は——当然、先程とは比べ物にならないほど激昂し、辺りの椅子を薙ぎ倒しながらその青年に詰め寄った。


「誰だ貴様⁈」


 椅子に片膝を立てて座る彼の胸ぐらを掴みつつ、ユウは凄んで見せた。青年は平然として答える。


「俺? シリュウ——藩紫龍ハンシリュウ、よろしく」


 最後の「よろしく」が自分に向けられたもののような気がしてシュンは驚いた。しかし怒りに燃えるユウはそれには気づかず、


家派の者かっ⁈」


 と怒鳴り散らす。


「なに? あんたの頭の中にはお大臣様の派閥しかないわけ? 俺はどっちでもないよ。しがない商人の息子だからね」


「しょ、商人風情が……!!」


「おっと、紫珠しじゅにはそういう者も少なくないぜ。馬鹿にしたもんじゃないと思うけどなァ」


 商人の子息と聞いて、皆が納得する。必ずしも派閥に属さずとも、己の才覚で世を渡り得る者——。家の若君に楯突いても、ものともしないところを見ると、かなりの大商人か或いはその逆でどうにもならない低い身分の商人かどちらかであろう。


 人をくったようにのんびりと話すシリュウにきれたユウは拳を振り上げた。


「あっ!!」


 誰もがシリュウが殴られると身構えたその瞬間、突き出された拳は掴み取られ、ユウはその勢いのままシリュウの後方へ放り投げられた。


 泡を食ったのはその辺で事の流れを傍観していた者達だ。慌てて避けたので、投げ飛ばされたユウはそのままそこにあった机に背中から落ちた。


 ガタンと大きな音がして机ごとひっくり返る。


 あまりにも見事な投げ技に、その場にいた皆が目をみはる。たいして強そうには見えない青年だ。少しなよっとして見えるし、ずっとへらへらと笑っている。そして誰もが、今までこの講義に彼が出ていたのか定かではなくなっていた。このような生徒がいただろうか——自分に見覚えがないだけか? 


 そのかすかな疑問を各人が覚えた時、それを打ち消すように、彼は明るい声で言った。


「ほらほら、誰か助けてやんなよォ」


 シリュウはユウの取り巻きの二人を指して揶揄からかう。はっと気がついて二人は慌ててユウを助け起しに行く。しかしユウはその手を振り払った。自ら立ち上がると、怒りに燃えた目でシリュウを睨む。


 睨まれている方は平然として相変わらず頬杖をついている。ユウは無言で手を伸ばすと、彼の胸ぐらを掴んで半ば無理矢理に立ち上がらせた。


 今度こそ狙いを外さぬよう相手を捕まえておいての攻撃だ。


 ——この平民が!!


 ユウが再び拳を振り上げる。


 それでもシリュウは平然としていて、にやにやと笑っていた。それを目にしたユウは更にいきどおる。


「——この!」




 一瞬、シリュウの目が光った気がした。


 それは実践に近い鍛錬を積んできたシュンにのみ感じられたものであった。


 シリュウの右手がぴくりと動く。


 彼が何かする——!


 と、シュンが息を呑んだが、それより早く聞き慣れた声が講義室に響いた。


「止めよ、二人とも」


 楊丁ようていに連れられてやって来たのは『白兄』であった。




 つづく



 次回『藩紫龍という男』




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