第90話 シュンの覚悟


 カイは隠れ家の上に居た。家屋の上は眺めが良い。しゅう家の私有地の端が遥か彼方に見えた。


 それに今日は心地よい風が吹いている。


 片膝を立てたまま、カイは眼下に広がる草原を眺めていた。


 風が彼の前髪を吹き散らす。その瞳は果てない空と大地の境目を見つめているようであった。


 そこへ下から声がかかる。


「カイ、そこに居るのか?」


 ケイの声だ。


 カイは少しだけだるそうに立ち上がり、登って来た樹を伝って窓から室内に戻る。突然窓から現れたカイに、ケイはやや驚いたようだった。


「いたのか」


「ああ」


 あれ以来口数が減ったカイだが、シュンが講義に出ず実家に戻ったと聞いてから、更に無口になってしまった。


 殊更ことさら一人になりたいらしく、ほぼ此処へ入り浸りになっている。


 ——そこまで落ち込むなら、引き留めれば良いものを。


 ケイは心の中で一人呟く。


 まあ、引き留める間も無く家へ帰ったのではあるが……。


 ——あちらはあちらで早い判断であったな。もう少し紫珠ここにいると思ったが。


 実家で泣き暮らす性分で有れば心配はないが、おそらくシュンは違うだろう。


 ケイがそう考えていると、カイが苛立たしげに声をかけて来た。


「何か用か?」


「いや、講義が終わったから来ただけだ」


「じゃあ、上に居る」


 カイはそれだけ言うと、再び窓から出て行こうとする。その背に向かって、ケイは呼びかけた。


「カイ」


「なんだ?」


 彼は振り向きもせずに答える。


「なんならちょう家へ迎えに行くか?」


 それを聞いたカイは振り向きざま声を荒げる。


「馬鹿な事を言うな。なんで俺がそんな事——」


「どこの張家か、わかっているんだな」


 ケイが微笑む。

 カイはしまったという表情を一瞬見せると、黙って背を向け、窓辺に脚をかけた。


「カイ!」


「うるせえってんだ。ほっといてくれ」


 眉を吊り上げながらケイへの怒りをぶつけようと顔を向けると、ケイのそばにシュンが立っていた。


 カイは窓枠にかけていた脚を慌てて下ろす。


「お前、なんだって戻って来た?」


 驚きと——久しぶりに彼女の顔を見た喜びとで、カイは二人に駆け寄る。


 シュンもまた、少し緊張した面持ちでカイとケイの顔を交合に見ている。


「おい、ケイ。何か知っているのか?」


「いや、私も驚いた」


 ケイも隠れ家の戸を開いて入って来たシュンに驚き、つい大声でカイを呼んだのだった。


「おい、お前……何故またここへ来た?」


 カイが強い口調で問いただす。シュンは唇を少し震わせると、黙ったまま懐から布に包んだ何かを取り出す。


 そっとそれを手に乗せ、包みを開く。


白兄はくけい、これを……」


 そこには、翡翠の玉と飾り緒の付いた漆塗りの板があった——。





 ケイは一瞬でそれが何であるかを悟った。どくんと、鼓動が強くなる。


 その一方で、カイは「何だ?」と気が付かない。


「カイ、これは——割符わりふだ。お前が取り損ねたあれだ」


 カイの表情が見る間に変わる。もともと悪い目付きが更に悪くなる。


「馬鹿な……!あの夜以降、警備は輪をかけて厳重になったんだぞ。どうやってあれを掻い潜って忍び込んだというんだ⁈」


 シュンは顔を伏せた。


「実は、大臣の目の前で盗って来てしまいました」


「お前……⁈」


 シュンは何家の宴での出来事を二人に話して聞かせる。それを聞いたカイとケイは驚きの表情を隠せない。


 無理も無い。


 この年下の少女がそんな大胆な事をするなど思っても見なかったのだ。


 シュンは顔を伏せたまま、声を絞り出した。


「まだ気づかれてはおりませぬが、事が露見するのも時間の問題です。私は最早もはや張家へは戻れませぬ。どうぞ此処ここに居させて下さい」


 カイは険しい顔でシュンの肩を掴んだ。その激しさに、シュンは顔を上げて彼の顔を真正面から見た。


 ——怒っている。


 シュンは胸の奥に氷の塊を押し込まれたような気がした。



 つづく




 次回『浅慮』

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