老いたカラスと青い僕。

@kazunoob

老いたカラスと青い僕。

 僕は朝の電車が大っ嫌いだ。


 まあ大人で好きな人なんてあまりいないと思うし、当たり前の感情なのだろう。


 昔は好きだった。中学生の頃は、大人の仲間入りをしたような気分で、とても楽しかった。


 今は電車が嫌いになった。

 でも、単純に人混みが苦手とか、いつも隣にいるおじさんが汗をかいているからだとか、そういうことじゃない。


 なんというか、朝の電車では、みんながこれから罰ゲームを受けに行くような顔をしていて、イライラしているのが垣間見えるんだ。それが嫌なんだ。


 僕は高校生だ。


 受験の際に少し遠くの学校を受けて、そこに入学した。だから、毎朝通勤ラッシュの時間帯に電車に乗らないといけない。


 朝は弱いので、早起きするという手段はとりたくない。


 そうして、仕方なく満員電車に乗り続けて一年ちょっと。


 ある日、駅のホームで、一羽の不思議なカラスに出会った。


 ***


 暑い夏の日だった。


 僕はテストを終え、夏休みを目前に控えていた。自分でもわかるくらい、気分が高揚していた。


 最終登校日。うだるような暑さの中、僕はゆっくりと小石を蹴りながら歩いていた。地面から立ち上る熱気が見えるようだった。


 そういえば、空気っていうのは太陽に直接温められるんじゃなくて、太陽が温めた地面が温めるっていうのを聞いたことがある。なんてことを考えながら、ゆっくりと歩いていた。


 朝の八時。


 終業式と成績表の配布だけすめば、それでお開きだ。だから、学校はいつもより遅い朝の十時から。


 この時間に家を出れば、余裕で間に合う。


 人通りのまばらな道を歩き、橋を渡り、公園を横切る。


 そこかしこに緑が顔をのぞかせ、蝉のかすかな鳴き声が静かな空間に響く。太陽はさんさんと照り付けて僕を焼き、真っ白な入道雲がむくむくと膨れ上がっている。


 夏だ。


 僕はそう思いながら、ぼんやりと歩き続けた。ちらりと腕時計を見る。


 八時十五分。


 僕は小さな駅に着いた。ホームは一つしかなく、人のいない今は、どこか寂しげだ。


 あと十分ほど待たないと次の電車は来ないだろう。僕は荷物を下ろし、ベンチに座った。


 そこでスマホを取り出した時、一羽のカラスがホームにいることに気が付いた。


 カラスがホームにいても別にそこまで驚くことじゃない。だから、僕は特に何の反応もせず、スマホを開いた。


 そしたら、カラスがくちばしを開いて、カァと鳴いた。


 思ったよりその鳴き声が近くて、少しびっくりして目をやると、カラスは僕の足元まで来ていた。

 そして、僕をじっと見た。


 「なんで人間ってそんなに生き急いでいるんだい」


 カラスが口を開いた。


 カラスの言葉を僕が分かるなんてありえない。今から考えればそうなんだけど、その時は別に不思議にも思わなかった。どうしてだろうね。


 「そんなに生き急いでいるかな」

 「ああ。少なくとも、わしの知る友人たちは皆そう言うよ」

 「友人って?」

 「すずめ、ねずみ、さる、あとは仲間のカラス」

 「カラスってネズミとか食べないの?」

 「おぬしらが朝に置いてくれる、ごみとかいう食べ物のほうがよっぽどうまいさ」

 「へえ」


 ごみの意味を教えてあげようかと思ったけど、やめた。


 「お前さん、これからどこへ行くんだね?」

 「学校さ。みんなが集まって勉強するんだ」

 「勉強? はて、なんだそれは」

 「うーん。生きていくための知恵を身に着けるところ、かな」

 「ほう。狩りや、天候の読み方とかじゃな」


 訂正しようかと思ったけど、なんだかこんがらがりそうだったので、やめた。


 「おぬしは学校が楽しくないと見える」

 「まあ、嫌いじゃないけど好きでもないよ」

 「じゃあ、なんで行くんだ?」

 「それは、将来自分が困らないためさ」

 「人間とはよくわからない生き物じゃのう。そんなこと、教わらなくてもできるじゃろうに」


 カラスが言っているのは、動物の本能ってやつの、狩りの事とかだろうな。僕はぼんやりとする頭でそう考えた。


 とりあえず、カラスにどれだけ物理が難しいかを教えようかと思ったが、やめた。


 カラスは首をかしげる。


 「さっきから口をひらいては閉じ、口をひらいては閉じ。いったい何をしているんだ?」

 「言おうとしたことがうまくまとまらないのさ」

 「ふーん」


 それきり沈黙が訪れる。


 どこかで、アブラゼミが鳴き始めた。


 「それで、僕に何か用?」


 沈黙に耐えられなくて、僕が先にそれを破った。

 カラスは瞬きをする。


 「そうじゃなあ。じゃあ一つ質問、いいかい?」

 「いいよ」


 暇だったので、僕はそう答えた。


 「なんで人間はそんなに急いでいるんだ?」

 「それ、さっきも言っていたね。ボケてるんじゃないの?」


 カラスはカァカァと鳴いた。

 どうやら笑っているらしかった。


 「まったく、もっと老人を敬わんか。もちろんさっき聞いたということは覚えていたぞ」

 「そう」


 老人と自称したカラスをよく見ると、ところどころ羽が抜けていたり、白くなっていたりする。


 もうすぐこのカラスも死ぬのか、と思った。


 「速い乗り物があるだろう」

 「電車のこと?」

 「ああ、多分そうだ。あれはたしかに速い。我々の翼では到底追いつけないだろう」

 「そうだね」


 電車より速いカラスなんて想像できない。いや、実際は速いのかもしれない。……さすがにそれはないか。


 「なんで人はあの箱に入ろうとするんだ?」

 「目的地に向かうため、かな」

 「じゃあなんで、次の箱を待たんのだ。なぜぎゅうぎゅう詰めになってまで速く行こうとする?」


 満員電車のことか。


 「それは、時間を作って自分のやりたいことをするため、かな」


 僕はそう言った。

 時間を短縮して、空いた時間で遊ぶ。学校にはぎりぎりで登校して、終わったら即座に帰る。帰ったら家でゲームして遊ぶ。


 僕は今、ゲームのために生きている。


 「それだけ寿命があるのにか?」

 「そうだね。やりたいことが多いのかもしれない」

 「でも、お前さんはやりたくないことをこれからやろうとしている」

 「……」

 「なぜ、人間はやりたくないことをやろうとするんだ?」


 そんなに単純な話ではない。それができたらだれも苦労しないだろう。それを言おうとして、やめた。


 僕の顔を見て、老カラスもそれきり、黙った。カラスの黒い瞳が濡れた真珠のように輝いている。


 アブラゼミの声が途切れる。


 電車の時間は刻々と近づいてくる。


 線路が太陽に照らされて鈍く光り、色あせたフェンスに巻き付いた何かの植物の花が開く。


 電車が来ることを知らせるアナウンスが鳴った。

 それと同時に、カラスがくちばしを開いた。


 「なあ、人間の若者」

 「なんだい、カラスの長老」


 ちょっと仰々しい言い方で僕は返した。なんだか、そうするべきだと思った。


 「おぬしの時間、少しわしにくれないか」


 カラスは、そう言った。


 「時間を?」

 「ああ。おぬしを目的地に送らせてくれないか」


 僕は少し考えた。


 「それって、どのくらいかかる?」

 「ざっと一時間半、くらい」


 それなら学校にはぎりぎり間に合う。

 僕はもう少し考えて、うなずいた。


 「ああ、いいよ。僕を目的地まで連れて行ってくれ。だけど、一時間半だけだよ」

 「わかった」


 そう言ったカラスが、電車のベルみたいにカァカァカァと鳴いた。


 僕は、翼を広げたカラスの背に乗った。


 普通に考えて、僕がカラスに乗れるわけがない。でも、なぜか乗れたんだ。


 「じゃあ、出発じゃ。若者、落ちるでないぞ」


 そう言って、カラスは大空に飛び出した。


 ***


 「空ってあんまり寒くないね」

 「まあな。むしろ気持ちいいだろう?」


 僕はうなずいた。夏の日差しは直接あたるけれど、空気が冷たいからまったく気にならない。

 ひんやりとした風が僕の制服をすり抜けていく。


 「若者、見ろ、下を」


 カラスの背から身を乗り出すと、眼下にびっしりとした町が広がっていた。


 あの一軒一軒に人々がそれぞれの意思をもって住み、暮らしているのか。


 そう思ったら、なんだか空恐ろしくなって僕は見るのをやめた。


 「人間は栄え過ぎたのかな」

 「わしらカラスとしては余り不便なことはないな。むしろごみを食えるようになったから、便利になったとさえいえる」


 そんな風に考えられるカラスがうらやましいと思った。


 「カラスってさ、今やりたいことやってるの?」

 「もちろんだとも、若者」


 カラスは上に乗る僕をちらりと見た。


 「おぬしを運ぶというのは、わしの今一番したいことじゃ」

 「そう」


 僕はカラスの真意が読み取れなくて、もう一度下を見た。電車が市内を蛇のように進んでいくのが見える。

 緑の深い小さな山がいくつか見え、大きなビルもたくさんある。市街地だ。


 「あそこにいる人間のほとんどはいつも悲しい顔をしている」

 「あの市街地?」

 「そうだ」


 もちろん例外はたくさんいる、と付け足しながら、カラスはそう言った。


 「あそこが僕の学校がある場所だ」

 「そうじゃのう。あと数十分もすればつくさ」


 カラスの背にしがみつきながらまっすぐ前を見た。ひときわ大きな山が地平線から飛び出していて、その背後の空に真っ白な雲が噴き出ている。


 「カラスはいつもこんな景色を見ているの?」

 「まあな」


 僕はずるい、と思った。こんな景色、お金を払ってもそうそうみられるもんじゃない。


 「若者」

 「なに?」

 「おぬしの言葉で、この季節の事を何というのだ?」


 季節は知っているのか、と思いながら、僕は口を開いた。


 「夏っていうんだ」

 「夏、か。いい響きだ。やはり人間の考えることは興味深い」


 僕を乗せたカラスは、町へと一直線に向かった。


 ***


 「カラス、ありがとう。すごい楽しかった」


 カラスから降りた僕は、そう言った。実際、すごく楽しかった。

 景色は素晴らしかったし、電車に乗るという、毎日行っているつまらない行動ではなかったということが、僕の心を少年のように沸き立たせていた。


 「そうかい。じゃあ、最後に一つだけ」

 「なに?」


 カラスはゆっくりと僕を見て、翼を広げた。


 「自分のやりたいことがあったらとことんやるがいいぞ。近頃の人間の顔はいつも辛気臭い。おぬしはそうなるな」

 「……わかったよ」


 カラスは一声鳴いて空へ飛び立った。


 白い羽根が、数十本舞い散った。


 「では、若者。あの駅で待っている。帰ってきたら感想を聞かせてくれ」


 カラスは夏の空へと吸い込まれた。


 僕はそれをじっと見送った。


 涼しいところから暑いところへ来たせいか、無性に気持ちが悪い。


 少し体を震わせた瞬間、別の自分が飛び跳ねた。


 ***


 「あれ……夢か」


 僕は夢の僕と同じく、町の駅前に立っていた。僕と同じ制服の人たちが学校へと歩いていく。

 時計を見る。


 九時四十五分。


 きっかり一時間半。

 きっと電車に乗った時に眠ってしまったのだろう。僕はそう思った。


 だけど、夢の中で先ほど別れたカラスがなぜか恋しくなった。追いかけようと思ったけれど、やめた。


 やめてしまった。


 僕はカラスが消えた方向の空を一瞥してから、ゆっくりと人々の流れに加わった。


 ***


 十二時十五分。


 僕は電車に揺られながら、夢の事を考えていた。

 カラスの背に乗って空を飛んだ夢の事だ。


 カラスは本当に居たのだろうか。そこまでは本当だったように思えた。


 でも、カラスが話すとか、カラスの背中に乗るとか、ばかばかしすぎて思わず鼻で自分を笑った。


 カラスは僕に何を求めていたんだろう。

 最後に、カラスは僕に「やりたいことをやれ」と言った。


 どういう意味なのだろうか。

 それをなぜ、僕に言ったのだろうか。


 それから、カラスは「駅で待つ」とも言った。

 じゃあ、駅にカラスがいれば夢じゃなかったってことがわかる。

 そしたら、最後の言葉の意味も分かるだろう。


 僕は少しわくわくした。


 窓から流れる景色を見て、僕は電柱を数えるゲームをした。気が少し紛れる。


 電車は町を抜け、山をこえ、トンネルを抜け、川を渡り、市街地を超特急で駆け抜ける。


 それを眺めていると、少し見覚えがある景色だと気付く。


 「これ、カラスと見た景色だ」


 僕はぼそりとつぶやいた。上空から見ていたけど、間違いない。あの夢では僕はこの町を確かにカラスと見ていた。


 いままで車窓から景色を見るなんて一切やってこなかった。顔を上げることなんてしなかったから。


 窓から流れる景色をじっと見ていると、やがて見慣れた駅に着いた。

 最寄り駅だ。


 僕は電車のドアをすり抜けて飛び出し、ホームの中を横断し、カラスと会った場所へと急ぐ。


 狭いホーム内だから、すぐに見つかる。


 僕が朝座っていたベンチ。


 そこには、しゃがみこんだ二人の駅員さんと、何人かの大人が集まっていた。


 なんだか嫌な予感がして、僕はできるだけゆっくり歩いた。


 「カラスがホームで死んでる」


 そんな声が聞こえた。


 僕は駅員さんの手に握られたカラスの亡骸を見た。


 間違いない。あのカラスだ。羽根の抜け具合とか、そっくりだ。


 「さあ、どいてください。これはこっちで処理しておきますから」


 そう言いながら駅員さんが立ち上がった。


 僕は、その前に立った。自分でも、驚いた。自分の心が、止めろと言った。でも、僕は口を開いた。


 「すみません、そのカラス、僕にください」


 いま、自分がやりたいこと。僕は、カラスが最後に言ったことの意味が分かったような気がした。


 「僕、そのカラスを埋葬したいんです」


 カラスの言った通り、自分のやりたいことはやるべきだ。

 駅員さんの眉間にしわが寄る。僕は慌てて口を開いた。


 「そのカラスとは、友達なんです」


 僕がそう言うと、周りから失笑が漏れた。顔が赤くなるのがわかる。


 だけど、カラスの閉じた目を見たら、そんなことはどうでもよくなった。


 それから数分、僕は駅員さんと話した。

 何とか願いを聞き届けてくれて、僕はカラスの亡骸を家に持ち帰った。


 そして、庭に穴を掘り、亡骸をうずめて墓を作ってやった。泥だらけになったけど、関係なかった。


 木の棒を墓に突き立てて、手を合わせ、目をつぶる。


 「今日、僕は自分のやりたいことをしたよ、カラス」


 瞳の奥に、カラスの背中がいっぱいに広がった。


 昼下がりの青くて白い空を、一羽のカラスが横切った。

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