蓋をすることが得意なぼくと感情に寄りそう彼女の話

森 梨々惟

第1話

 僕はよく感情に蓋をする。

 子供のころは家族に怒られたときや友達と喧嘩したとき、学校で泣きたくなるくらい嫌なことがあったときにそうしていた。大人になってからは大抵が仕事でストレスを抱えたときだ。大きなプロジェクトを担当してプレッシャーがかかりトラブルが発生してその対応に追われているとき、とにかく忙しくて毎日のように終電まで働かなければならないときに、蓋をする。

 といっても機械のように非人間的になるわけではない。ただ感情的になるのをやめる。なにかに対して心を動かされるのをやめる。心配したり後悔したりせず理屈で考えて動く。そうすることでどんなに辛い状況でもずいぶん楽にやり過ごすことができた。

 僕が彼女に出会ったのもそうやって感情に蓋をしていたときだった。

 上司が鬱病になって会社に来なくなり直属の部下だった僕に大量の仕事が降ってきていた。もちろん他のチームの上司や同僚は気に掛けてくれたけれど、だからといって代わりの人員がすぐに配属されるわけもなく、僕は上司が受け止めきれずに潰れてしまった大量の仕事を肩代わりしてこなしていた。

 その上司が胃潰瘍で入院したと聞いたときも僕はとうに感情に蓋をしていたから、ああそうなのかくらいにしか思わなかった。部長直々に呼び出され見舞いに行く気はないかと訊かれた。誰かしら会社から様子を見にいく者が必要だったのだろう。そんなことをしている暇などないくらい忙しかったが、仕事のうちには本人に直接尋ねたいことも山のようにあった。だから引き継ぎをするつもりで見舞いに行くことにした。

 久しぶりに仕事を定時で切り上げて目的の病院へ向かう道すがら、僕はふと気づいて立ち止まった。そういえば手ぶらだった。こういうときは見舞い品のひとつやふたつ持っていくものだろう。バスケットに盛られたフルーツでも買っていくべきか。でもあの上司はたしか特定の果物にアレルギーがあると言っていた気がする。なんだったのかは覚えていない。本や雑誌というのも精神的に参っているひとにとってはなにがストレスになり嫌味になるかわからない。個人的な趣味も知らなかった。

 困ったなと思案していると通りの角にあるこじんまりとした花屋が目に入り、迷うまでもなく最もリスクが低そうなそれにすることにした。

「お見舞いに行くので花束を買いたいんですが」

 ドアを開けると軽いチャイムが鳴り、店の奥から黒いエプロンをした女性が顔を覗かせた。茶色い髪を後ろで結わえてさっぱりした佇まいをしている。

「予算はおいくらですか?」

「ええと、入院している人に渡す花束ってどれくらいが相場なんですか?」

「そうですね」

 彼女は少し考えて、次いで様々な質問をした。

 その方の好きな花は? どんな雰囲気を好まれる方ですか? 明るい方? 繊細な方? などなど。

「よく知らないんです」

「あまり親しくない方なんですね」

「そういうわけでもないんですが」

 毎日のように顔を合わせて昼飯を食べに行っていたのに仕事以外の話はほとんどしたことがなかった。

 僕の気まずい内心を察してか彼女は慌てて言った。

「ごめんなさい、色々訊きすぎましたよね」

「いえ、四十歳くらいの男のひとに渡しますんで適当な花を見繕ってください」

 適当になどと言ってしまい気を悪くしないか心配になったが、彼女は優しい笑みを浮かべた。

「承知しました」

 待つこと十分弱。魔法のように創りあげられた花束を受け取って会計をすませると、待っているあいだ気になっていたことを尋ねた。

「ああいう質問ってみんな応えられるものなんでしょうか?」

「そうですね。わざわざお花を渡したいと考える相手ですから結構みなさん話されますよ。もちろんひとによりますけれど。このお客さんはなにか想いがあるのかな、ないのかな、という見分けが私はいつも上手い方なんですが」

「僕は花束を渡す相手に特別な想いを抱いてそうに見えたってことですか?」

 彼女は僅かに首を傾げた。束ねた髪の下で銀色のイヤリングが小さく揺れた。

「そういう想いを閉じ込めていらっしゃるような気がしたんです。だからお尋ねしてみたんです。気に障ったらごめんなさい」

「とんでもないです。きれいな花束をありがとうございました」

 店を出て数歩行ってから改めて彼女が作った花束を見た。名前はよくわからないが明るい発色の花と葉が活き活きと束ねてある。

 春の生命力そのもののような花束を手に、僕は病院へ向かった。

 そういえば季節は春なのだった。

 あの上司は頑張りすぎだった。責任感も人一倍強かったし、少し休んでからまた元気に出社してもらいたい。とそのときになってやっと人並みの想いを抱いた。

 結局その上司の見舞いに行ったのはそのときだけだ。けれどその花屋には何度も通うことになった。

「今日は友達の誕生日だから」

「親の誕生日に贈ろうと思って」

「同僚の送別会に」

「なんとなく部屋が寂しいから」

 ほかの店員がいるときも彼女を指定して花束を作ってもらった。そのうちに僕が現れると「お得意さんよ」と彼女が呼ばれるようになり、嫌がられていないかという僕の不安を溶かすような笑顔で迎えてくれた。

 僕らが付き合い出すのに時間はかからず、すこしずつ関係を築きあげて数年後に結婚をした。そうして一年、二年、数年、十数年。長いこと彼女と時間を共にしてわかったことがある。許容量を超えたときに僕が蓋をしていたものは僕自身の感情ではなく他人の感情だった。僕は自分に届いてくる泣き声や悲鳴やときには悪意が耐えられなくて、それらを遮断していたのだ。そして彼女は反対に、他人の感情をどこまでも汲みとろうとするひとだった。

 周囲から染みてくる感情に蓋をして乾いた四角四面のなかで僕が蹲っていると、彼女がそっと寄りそってきてくれるから、僕はほんの少しその蓋をずらして人の気持ちを想うことができるようになる。僕にとって彼女はなくてはならない存在だった。けれど彼女にとっての僕はそうではなかった。

 最初、僕には彼女の苦しみがわからなかった。職場で、通勤途中に、近所付き合いで、親戚の集まりで知り合うひとたちの心を忖度して疲れ果てる。相手がどう思っているかを知りたがり想像し、一喜一憂してときに傷つく。そんな彼女に僕は、蓋をすればいいとは言えなかった。見えないことは見なくていい。ひとの気持ちなんて気にしたって仕方がない。そんなものに揺さぶられる筋合いはない。そう促したら彼女は僕のように変わっただろうか。

 僕は歳を重ねていくほどに生きやすくなったけれど、彼女は反対に生きにくくなっていくようだった。

 そのうちに彼女は唐突に泣き出すようになった。何があったわけでもなく食後のお茶を飲んでいるときにふと涙が頬を伝っている。

「どうした?」

「今日お店に来たお客さんがお墓参りのお花を注文したの。無表情でつっけんどんなひとだったけれど、よほど大切なひとを亡くしたんだろうなって思って」

「君がそのひとに花束を作ってあげたの?」

「そう」

「それじゃあ君はもうそのひとに充分なことをしてあげた」

「確かにいただいた代金に見合うお花は使ったけど」

「そういうことじゃなくて、君は花束を作るときに心をこめているはずだからそれで充分だと思う。一緒に悲しんであげるのはやりすぎだ」

「悲しんであげるだなんて、そんな偉そうなつもりじゃない」

「つもりがなくても実際そうしているだろう?」

 彼女は曖昧に頷き、ほんの少し憂鬱そうな顔でお茶を啜り「そうね」と呟いてため息をつく。

 彼女の優しい感受性を失いたくない。彼女が壊れないほどに、潰れないほどに、その純粋さを保てるように見守るのが僕の使命だ。

 そのために彼女が苦しみ続けるとしたら僕は酷い伴侶なのだろう。

 それでも。日々の生活のなかで大きく小さく揺さぶられ、すべてが磨り硝子のように鈍く曇っていくなかで奇跡的に他人の心をすべらかに反射し続けるひと。そんな彼女のことが、僕は好きなのだった。




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蓋をすることが得意なぼくと感情に寄りそう彼女の話 森 梨々惟 @morilily

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