友達を幸せにして王子さま
森 梨々惟
第1話
手のひらひとつのぶんの距離をあけて夏菜子が寝ている。抱えた枕に押しつけられて潰れた頬があどけない。無造作に散らばった髪の向こうに閉じられた睫毛と薄くあいた唇。
息づかいが聞こえる距離。
すこし手を伸ばせば体温が伝わる距離。
だけど手は伸ばさない。
夏菜子は私を必要としているけれど、好きなわけじゃない。
私は夏菜子のことが好きだけれど重たく感じている。
だからこれくらいの距離がちょうどいい。交わらない平行線のようにずっと寄り添っていたい。
「もうイヤだ、どいつもこいつも考えてることは同じじゃん。あんなやつら殺してやる」
夕方に夏菜子からかかってきた電話だ。
家でだらだらテレビを見ながら夕飯の手伝いをしていた理沙は「さっきから鳴ってるのアンタのじゃないの?」と母親に指摘され、慌ててカバンに入れっぱなしだった携帯を取りだしたところだった。
着信履歴は10件を超えていて、すべて夏菜子からだった。
「どうしたの。ごめん気づかなくて」
「理沙ぁ、オオコウチが……」
嗚咽混じりの言葉はなかなか要領を得なかったけれど、オオコウチという付き合い始めたばかりの夏菜子の彼氏が、なにかやらかしたのだけはわかった。
宥めながら話を聞きいているうちにでてきた「殺してやる」という言葉で、理沙は立ち上がった。携帯を手で押さえて台所にむかって声をはる。
「お母さん、ちょっと出てくる!」
「なに言ってるのこんな時間に。どこ行くのよ?」
「夏菜子んとこ」
「また夏菜子ちゃん、あの子またなにかしたの?」
「行ってくるから!」
呆れ混じりの母親の声を背に家を飛びだした。
冬になりかけの寒い日で、マフラーに顔をうずめるようにして自転車を飛ばす。頬が切れるように風が冷たい。
夏菜子は小学校からの幼馴染みだ。こうやって電話で呼び出されるのも初めてではない。
20分ほどかけて目的のアパートにつく。合い鍵を使ってドアを開ければダイニングキッチンがあり、隣に繋がった六畳ほどの部屋にベッドがある。そのむこう側、窓との隙間に隠れるように座りこんでいるちいさな姿があった。
青白い唇が声を立てずに動いて理沙の名を呼ぶ。よく見れば口の端が切れて痣になっている。乱れた髪の毛。はだけたブラウスからピンク色の下着がのぞいている。
「相手はオオコウチ君なんだよね?」
胸元をぎゅっと握りしめて夏菜子は頷いた。
それならよかったと内心息をつく。形だけでも付きあっていた者が相手であれば、そこまで酷い暴力ではなかったはずだ。
驚かせないようにゆっくりと跪く。唇の端に指を伸ばすと夏菜子が顔を顰めた。
「なにがあったの?」
「理沙の言うとおり相手を好きになってみようとしただけ。好きなひととやるのは違うって言うから頑張って試そうとしたけど、でも……。ベタベタ触って興味本位でいじくって反応楽しんで。なんで私がそんなものを受け入れなくちゃいけないの? おかしいよあんなの!」
激昂した拍子に歪んだ瞳から涙がこぼれ落ちた。
つきあっている彼に迫られて拒否してこうなったらしい。口元の痣と裂けたブラウスがそれが穏やかなものではなかったことを示している。
ほそい肩が震えていて、思わず腕をまわした。
でもここでかわいそうにと甘やかしたら、夏菜子は誰ともつきあえなくなる気がする。
暴力を振るうやつなんて地獄に落ちればいいけれど、まともなひととも向き合うことができなくなる。
「こんなことするやつは許せないけど、でもそういうひとばかりじゃないよ」
「じゃあどんなひとがいるのよ、あんたが恋愛はいいなんて言うから私は。もうわかんない。もうイヤ、あんなの。私は誰にも支配されたくない!」
抱きしめた夏菜子の腕が背中を強く叩いてくる。
優しさとか労りとか共感とか慰めとか、そういった愛情をなんでこの子は感じとれないんだろう。なんでセックスを支配としか受け取れないんだろう。過去に関係しようとした男とことごとくこういう結末になるのだから、夏菜子の側になにかしら問題があるのだろうとは思っている。
けれど理沙にできるのは、もっと気楽に考えなよと愚にもつかないアドバイスをすることと、ひとを好きになるのはいいことだよという理想論を口にすることと、この意固地で潔癖症な友達の殻を壊してくれる誰かを待つことだけだった。
夏菜子の両親は小学生のときに離婚している。夏菜子を引き取った母親は離婚の翌年に再婚した。義理の父親という存在がどういうものなのか理沙にはわからない。けれど夏菜子はその義父の目を常に気にしながら育った。「夏菜子はかわいいからね、こっちの服の方が似合うよ」「この方が夏菜子らしくていいんじゃないか?」
幼かった少女は向けられた言葉や関心をすべて受け入れようと努力した。気に入られたかったのだ。それはどんどんエスカレートしていって、そのうち夏菜子のすべては義父に規定されるものになった。それでもそれを嫌だとも変だとも思っていなかった。それが壊れたのは高校生になった夏、酔った義父に手を出されたことがきっかけらしい。らしいというのは、そのことを夏菜子はいつもぼかして話したからだ。
とにかくそれが引き金となり夏菜子の人格は一度崩壊した。あんな男の理想どおりになっていた自分に虫唾が走ると一旦すべてを捨てた。
大人しく楚々としていた友達が劇的に変化していく。趣味じゃなかったと地味な服を捨て化粧をするようになり花が開くように垢抜けていく。
もともと容姿はいい方だったら男子の注意も引くようになった。夏菜子は気軽につきあい簡単に別れた。理由は大抵が、決めつけてきたから。高校生のときはそれでもよかった。幼い付き合いは幼く終わることができた。理沙が聞くかぎり夏菜子はキス以上のことはしていなかったし、清純ぶればいくらでも誤魔化しようはあっただろう。けれど大学生になるとそれだけではすまなくなった。毎回誰かとつきあうたびに揉める。夏菜子は誰のことも好きではなかった。ただ好きと言われるのが好きなのだ。そんな相手にからだを許す覚悟もなければ義理も感じていなかった。
理沙と夏菜子は別の大学に進学して会う機会は減ったが、夏菜子が彼氏と喧嘩別れをするたび電話がかかってくるようになった。今回はなかでも酷い部類だ。
「殴るなんて最低だよね」
幼い子をあやすように強ばっている背中をさすると徐々に力が抜けていき、理沙の肩に顎をのせてもたれかかる。子供のころ飼っていた犬みたいだ。ひとが大好きだった甘ったれの子犬。あまり長くは生きなかったけれど。
「顔みせて。口、血が出てる」
夏菜子が素直に顔をあげる。
ハンカチを出してそっと押し当てると「痛い」と呟いて夏菜子はまた理沙に寄りかかった。乱れた髪を指で梳いてあげれば微かに甘い香りがする。。
「結局、私を支配しようとしないのは理沙だけだよ」
ぽつりと夏菜子が落とした言葉に胸が締めつけられるように苦しくなった。
それはそうだ。だって私は恋人でもなければ家族でもない。ただの友達だから。夏菜子の数少ない人間関係のうちでは限りなく他人に近いから。
本当は、このきれいで繊細でプライドの高い友達を私が幸せにしてあげたい。でも私は女で、好きになるのは男で、夏菜子のこれからを背負ってあげることなんてできない。
「ね、着替えよう。その格好じゃ風邪をひいちゃう」
「理沙、今日泊まってく?」
縋り付くような眼差しに頷くと夏菜子は安心したように息を吐いた。
「大丈夫。そのクソったれ暴力男が戻ってきたらぶん殴ってあげるから」
夏菜子が傷ついた口の端引き攣らせて微笑む。
まだ見ぬ王子さま。
白馬に乗っていなくてもいい、金持ちでなくてもいい、イケメンでなくてもいい。夏菜子の意固地さに根気よく付き合ってあげられるひと。傷つくのが怖くて凝り固まってしまった心をほぐしてあげられるひと。私はどんな協力も惜しまない。だからどうか姿をみせて、私の友達を幸せにしてあげてほしい。
了
友達を幸せにして王子さま 森 梨々惟 @morilily
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