待受画面

紫 李鳥

 


 俺の趣味はハイキング。


 特に、新緑の頃と紅葉の頃の滝や渓流が好きだった。


 日常の雑踏から解放され、自然の空気と風景に抱かれる、その癒しの時間が何よりも好きだった。




 その日は、絶好の行楽日和だった。


 小学生の頃のような遠足前夜のウキウキ感で、洗いざらしのジーパンを穿くと、リュックを背負った。




 時間経過と共に、ビルの寄り集まりから長閑(のどか)な田園風景に車窓の景色が変わる時の喜び、嬉しさ。実にホッとする。


 そんな車窓の風景を眺めながら、ペットボトルのブラックコーヒーを飲むのが好きだ。




 奥多摩に着くと、休日とあって行楽客が多かった。


 人込みを避けると、小高い山道を登った。カエデやイチョウが色づいた山道は、油彩画のように美しかった。崖下には川が流れ、そのせせらぎは尖った神経を和らげてくれた。



 ケータイで風景を撮りながら暫く歩くと、崖の端に腰掛け、駅前のコンビニで買った弁当を食べた。


 せせらぎをBGMに、紅葉を堪能しながら食べる弁当は格別だ。


 川辺に目を落とした時だった。落ち葉の中で何かが光った。もう一度確認した。また、光った。


 ……なんだ?


 俺は割り箸を置くと、傾斜の緩い崖を下りた。




 落ち葉を掻き分けると、シルバーのケータイが現れた。光っていたのは、着信のフラッシュだった。


 ……どうしてこんな所に。


 俺はそう思いながら、女の持ち物と思われるビーズのストラップが付いたケータイを開いた。


 待受画面にあったのは、笑顔の若い女だった。


 ……この女性の持ち物かな?


 と思っていると、突然、その顔が歪み、スローモーションの動画ように動いた。


「ハッ!」


 目を丸くしていると、


『……た・す・け・て~』


 画面の女が喋った。


「ぅえーっ!」


 俺はケータイを放り投げると、走り去った。


 必死に走った。逃げるように走った。




 ……見間違いだろうか、気のせいだろうか。……画面の顔が動くはずがない。


 俺は電車の中で、見間違いだ。気のせいだと自分に言い聞かせていた。




 それは、帰宅しても尾を引いていた。


 ケータイを使えない母にも話せず、俺は一人悶々とした。


「どうだった、息抜きできた?」


「ん? ああ。……紅葉が綺麗だった」


 撮った山道の紅葉を見せた。


「あら、ほんとだ。綺麗だね。なんで同じモミジなのに、都会のと違うんだろ」


 大根の皮を剥いていた母が、俺が開いたケータイを覗いて、そう言った。


「そりゃ、車の排気ガスにまみれた紅葉と、大自然の中で見る紅葉は違うさ。じゃなきゃ、わざわざ遠出する意味がないじゃん」


「だね。今度母さんも連れてって」


 母が可愛く笑ってみせた。


「嫌だよ。一人ハイキングが好きなんだから」


「ケチ」


 母は子供のように口を尖らすと、大根を切った。



 自分の部屋に入るとまた、待受画面の女の顔が頭に浮かんだ。




 入浴中も、食事中も、布団の中でも。


 顔を歪めて、『た・す・け・て~』と言った、女の顔と低くて鈍い声が、頭の中で走馬灯のように駆け巡っていた。




 熟睡できず、何度も目が覚めた。


 睡眠不足の翌朝。スポットのバイトが入っていた俺は、電車の時間を気にしながら出掛ける支度をしていた。


『――次のニュースです。奥多摩の山中で殺害されていた女性の身元が判明しました――』


 何気にテレビの画面に目をやった俺は、愕然とした。




 その顔は、あの、待受画面の女だった。

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