税込百八円の夢
吉備糖一郎
第一話 暑さのせい
暑い。それも、今日は特別に。
天気予報を見ていないので正確なところは分からないが、そうと決めつけなければ、この先やっていけそうになかった。
立ち上る陽炎はよろよろと歩く僕を嘲笑い、蝉達は今日も元気に大合唱。そして少し顔を上げれば瞳に突き刺さる日光。夏は嫌いだ。自己主張が激しいだけならまだいいが、嫌がらせは勘弁願いたい。
しかし、夏にも良い所がない訳ではない。代表的な例を挙げれば夏休み。今がまさにそうだ。これは素晴らしい。普段なら週二日しかない休みが一カ月余りまとめて手に入るのだ。これなら週七シフトでカウチポテトしても親にしか怒られない。
これも暑さのせいだろうか。何か重大なことを見落としている気がしたが、僕は気にしないことにして先を急いだ。
目的地は駄菓子屋。無論、テレビを見ながら貪る駄菓子を調達するためだ。そこは自宅からだとコンビニよりも近所にあるものだから、五分と経たないうちに到着した。
クリーム色の塗装が為されたコンクリートの建物。屋根には大きく「
幼い頃はよく親と一緒に来たものだ。たまにだがアルバイトで収入を得ることもある今、思い返すと感慨深いものがある。
プレハブ小屋のような、金属枠にガラスがはめ込まれた引き戸。そこには、営業時間や休日を記載したラミネート加工紙が貼られている。
僕は店が営業時間内であることを確認して、引き戸に手を掛ける。立て付けが悪く、開けるのに苦労した。
「ごめんくださーい」
つい誰にともなく声を掛けたのは、明かりが点いておらず、カウンターにも人が見当たらなかったからだ。明かりがないといっても、窓から差し込む強い日差しだけで店内は十分に明るいのだが、閑散とした雰囲気だけは拭い切れない。
しかし僕は、店主もそのうち出てくるだろうと判断し、商品を物色し始めた。店の鍵が開いていたことも大きいが、何より店主の爺さんがまた自由な人なのだ。営業中に居間で食ことをしていたとか、食べだしたら止まらなくなって、商品のうまい棒コーンポタージュ味だけを全部食べ尽くしてしまったとか、早食い勝負でうまい棒やさいサラダ味を五十本平らげたとか、面白い話には事欠かない人物だ。店主、うまい棒食い過ぎじゃない?
棚に並べられた商品を端からざっと見ていくと、色とりどりのパッケージが目に入る。
うまい棒、十円。ポテトフライ、三十円。キャベツ太郎、二十円。女の子、百円。ゼリーボール、十円。各種ガム、十円。
――――今、明らかに妙なものが紛れていた。
数歩後退し改めて確認すると、やはり体育座りの形で段ボール箱に納まっている、髪の長い少女がいた。そして箱の手前側には「百円(税抜)」とある。
「買ったあああああぁぁぁぁぁ‼」
やはり、僕は暑さでどうにかしていたのだろう。気が付けば僕はそんなことを口走っていた。言ってしまってから、激しく後悔した。見る限り少女の年の頃は十二、三歳といったところ。言わずもがな事案である。
少女の顔は影に沈んでいたが、端正な顔立ちが微かに見て取れた。円らな双眸、その
彼女は可愛かった。可愛いと、迷わず言えるくらいには可愛かった。僕にはそう見えた。顔がどうこう以前に、それは自然なことだ。自分よりも遥かに小さくか弱い子供を守りたいと思うための、当然の仕組みだ。しかしそれが、暑さというノイズによって狂ってしまった。それもかなり妙な方向に。
百円玉を高らかに掲げたまま、硬直する。少女もまた、顔を青くして固まっていた。
そのままどれほどの時間が過ぎただろう。時折近くを通過する車のエンジン音にさえ、言いしれぬ気まずさを感じた。
ごめんね、どうやらお兄さんは頭がおかしくなってしまったらしいんだ。ただ、一つだけ訊かせて欲しい。それは一体どういう状況なのかな?
非常に気になるが、嬉々として幼女をワンコインでお買い上げしてしまった手前、そのようなことを訊ねるのは憚られた。
「あの」
纏まらない思考を遮ったのは、目の前から掛けられた声だった。
「……はい、何でございましょう」
かなりぎこちないものの、僕もなんとかそれに答える。
「税込で百八円になります。……ですから、八円足りません」
それは苦し紛れの出任せかもしれない。だから、これは都合のいい考えかもしれない。だがひょっとして、彼女は僕に助け舟を出してくれたのだろうか。
なんにせよ、今はそれに縋るしかない。
「あー、ひゃ、百円しか持ってないやー。残念だけど、すみません。別の物にします」
なんだ、残念って。何言ってんだ。
終始失言ばかりの最悪な出会いとなってしまった。どれもこれも暑さのせい。そう思わなければやっていられない。
暑さのせいなのか、緊張のせいなのか、意識は常にふわふわとして、奇しくもそれは夢を見ているような感覚だった。
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