明日まで雨宿り

伊可乃万

第1話 始まり

 

          1  


 乾いた夜風が雨戸から入り込んできて、私の心を潤していた。八月も十日も過ぎれば過ごしやすい陽気になってくる。昼間家に侵入したミンミンゼミは、今は外で泣いている。今年も大切な人と再会できるお盆の時期がやってきた。

私のお母さんはふんわり甘いパンケーキのように素朴な優しさを持った人だった。そんなお母さんが死んだのは、私が中学三年生の夏の暑い時だ。演劇部の部活動から帰ってくると母さんがリビングで倒れていた。死因は心不全。救急車が熱中症の患者で埋まっていて到着まで三十分かかり、私はどんどん冷たくなっていくお母さんと一緒にいた。お母さんは病院で帰らぬ人となった。

母さんが死んでから、私とお父さんの生活は激変した。売れっ子芸人としてTVに引っ張りだこだった父は、葬儀の際に号泣したことがきっかけで視聴者に薄っぺらい同情を買うと同時に芸人としての命を絶たれてしまった。父親がテレビに出るたび、笑ってあげないと可哀想という謎の空気が生まれ、父親は滑り倒す日々を過ごすうち口数が少なくなり、傷付いた動物が群れからはぐれていくように少しづつ業界からフェードアウトしていった。今の父親の人生は雨宿りと同じだ。永遠に来ない明日に縛り付けられて降り注ぐ呪縛の如き死の雨から嫌われ続けているのだ。

 父さんにはまだ芸能界に未練がある。あの世界は麻薬と同じだから、一度甘い汁を吸ったら逃げられない。私は芸人として活躍していた父さんを尊敬していたし、羽振りの良い生活も気に入っていた。でも今は経済的に苦しい生活を余儀なくされている。浅草から埼玉県A市に一軒家を買って現在は生活をしているが、生活は楽とは言えない。私は大学資金を稼ぐために、周三日駅近くのショッピングモールでバイトをしている。コンビニでのバイトも考えたが店が少なく覚えることも多いので遠慮した。今のバイト先ではレジ係をやっている。POPレジ導入店舗なので仕事は楽チンである。

埼玉県A市は駅が二つ重なっているのが特徴だ。東武東上線のA駅と武蔵野線の北A駅の二つに分類することができる。北A駅方面の方がお店が多く発達しており、私は主に北A駅を利用している。街の商店街は機能しておらず、大きなショッピングモール数店舗が街に住む人びとを飢えから救っている状態だ。浅草も文句のつけようがないほど良い街だったが、今のこじんまりとした畑と川もあるこの町も私は気に入っている。

 そんな私の父親は風呂から上がると必ず半裸で、両乳首に洗濯バサミを挟んで出てくる。子供の頃は笑えたけど、高校生になった今の私には不愉快でしかない。何故芸人という人種はこうも下品で浅ましく、そして笑いに飢えているのか、私には理解できない。

「オカヅ、バスタオルどこ」

 オカヅというのが私の名前だ。私が生まれたときに私をオカズにご飯をかき込めるぐらいに可愛いと感じたのでそう名付けられたらしい。何だか気恥ずかしいけれど、この珍しい名前のせいで友達も出来やすくなったので私は気に入っている。

 「棚の2段目」

 私はソファでテレビを見ながら後方のタンスを指さした。父さんは言われたとおりに棚を開けて腰に回すと、バスローブを着込んで私の右向かいのソファに座って来た。TVでは父の後に人気タレントとなった人物が司会の番組をやっていた。TVを一瞥すると、父はおもむろにチャンネルを代えた。

 「ちょっと観てたのに」

 「バラエティなんか見てると馬鹿になるぞ。せっかく偏差値の高い高校に入ったんだ、もっと勉強しろ」

 「何それ、むかつく」

 「親に対してむかつくとはなんだ」

 「うざい、しね」

 私はソファから跳ね上がり、父親の足を意図的にふんづけて自分の部屋へと向かった。

 「おい、痛いじゃないか、話はまだ終わってないぞ、オカヅ、オカヅ」

ベッドに仰向けになり、私は天井を見上げた。母さんが死んで自分が芸能界から身を引いてから、父さんはバラエティ番組そのものを嫌悪するようになった。番組を観る度に出演者の悪口を言うようになった。昔の父さんはメモを取るほど熱心にバラエティを観て大笑いしていたのに、そんな父の影は欠片もなくなってしまった。特に父さんの後輩芸人に対する当たりはきつく、あいつはいんきんたむしだの、肌が汚いなど言いたい放題で、聞かされる私は非常に不愉快になり、今のように口論になってしまう。芸人の頃の父親は輝いていて尊敬しているが、今の抜け殻のような父親の姿は観るのが辛い。何か良い方法はないものだろうか。


「なら僕とお父さんが漫才コンビを組めばいいんじゃね」

「は?」

 夏のある日の休日、交際中の彼氏から奇妙な提案があった。ファーストフード店内ででかでかと馬鹿な事という彼の睦夫は阿保で礼儀知らずの芸人志望。高校卒業したら吉本に行くと息巻いている真正の阿保だ。彼は私が中学の時に所属していた演劇部の同期で、高校が同じになったのをきっかけに付き合うようになった。

 「いや、は?じゃなくて。芸人に未練ありありなんでしょ、心のどこかでは再起を誓っているはずだよ。自分より年下の高校生と漫才やるって面白いしTVも食いつくよ」

 「そういうもんかなあ」

 「そういうもんだよ」

 「でもお父さんが首を縦に振るかな。芸能界の悪口ばっかり言ってるんだよ」

 「それこそ未練のある証拠だよ」

 睦夫は眼を輝かせて私に顔を近づけた。

 「それに僕もオカヅのお父さんに会ってみたいし」

 「後悔するかもしれないよ」

 私は元々低い声を更に低くしてドスを効かせて言った。

 「それならまず僕とコンビ組んでお父さんの前で漫才やってみない」

 「えー、嫌だよ」

 「いいじゃん。人の漫才を観ることでお父さんも奮起するかもしれないよ。ネタは僕が考えるから」 

  結局、睦夫に押し切られる形で私は漫才をやることになった。

  漫才の練習は高校の近くにある目黒川の河川敷で行われた。春になると桜で満開になるこの砂利道は平日でも 夏でも人が多く通るので、ここで漫才をやるのは非常に恥ずかしい。しかし睦夫曰く「漫才は人に見られてなんぼ」という信条を受け入れて、私は必死にツッコミを頑張った。

 「ふーあちち」

 「少し休まない?」

 私と睦夫は近くのコンビニでスポーツドリンクを1本買ってきて互いに交換して飲み合った。そして河原で二人で寝そべって天を仰いだ。睦夫のボケは分かり辛く私もツッコミを続けるのが大変だった。汗で髪の毛が濡れたけどショートカットなので被害は少ない。本当は伸ばそうと思っているのだけど睦夫も父さんもボーイッシュな私が好きだから中学生の頃からこのまま髪形を変えないでいる。

 カバンからタオルを取り出して、私は髪を拭き、Tシャツ姿の体の汗を拭った。その後睦夫にそのタオルを貸した。睦夫も汗だくで唐突に上半身を脱ぎだし拭き始めた。身に着けていたTシャツをひねると汗が大量にしぼりだされてくる。お盆時期の今は涼しいので熱中症の危険は少ないものの、私たちが危ない橋を渡っていたのかもしれない。昼間の時間は既に畳の目ほど短くなっている。あと十日も過ぎれば十八時にはだいぶ暗くなるはずだ。

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