第32話 エヴァン・ブライアンと色彩の魔術師
エヴァン・ブライアンはドラクルの攻撃を躱すことだけに集中していた。時間稼ぎには丁度いいし、彼の術式に必要な油彩絵の具が底をつくはずだ。
「貴様を捕らえればあのお方もお喜びになろう!」
当の魔術師はエヴァンを捕まえることに躍起になっていた。絵筆を使い、塗料を馴染ませ、様々な術式を瞬時に編み出しては化け物や稲妻を生み出す。
俊敏な狼。
蠢く茨。
稲妻を纏った大蛇。
瞬間移動をしているような錯覚に陥る俊敏な狼をまず初めに斬り伏せた。蠢く茨は触手の如く柔軟に枝を震わせてエヴァンを襲い、大蛇が牙に稲妻と毒を垂らして噛みつこうとする。それらを紙一重で交わし、まずは茨を伐採する。油彩の煉瓦の壁を胴で叩いて飛び跳ねた大蛇が真っ直ぐエヴァンに大口を開けた。
飲み込まれることはなく、エヴァン氏は持つ手をギュッと握りしめる。
「響け!」
ただ一言叫ぶと大鎌から甲高い音が鳴る。女の悲鳴に似た姦しい音に大蛇は口を閉じて苦しげに身悶えした。尾と頭部を大きく震わせてのたうち回っている隙に首を容赦なく跳ねる。
「ぐぅ……っ」
ドラクルは苛立ちに満ちた顔を晒す。
「お前たちはどこまでも愚かだ」
吐き捨てるように呟き、エヴァンはドラクルに近づいた。アメジストの瞳に怒りが宿っている。苛烈な光に思わずドラクルの足が一歩下がる。
「私の右腕はどこにある? ヨアンは? あいつはどこにいる?」
「教えるなど、するものかっ」
「!」
エヴァンの歩みが止まる。ドラクルはとうとう絵筆を投げ捨ててあるものを取り出したからだ。丸い形のそれは一瞬果物のようであるが金属でできている。そして中身はビフレフト鉱石や火気厳禁の様々な薬を混ぜたもの。円形の取手を取れば数秒後に爆発する──ヴィクトリア帝国が発明した鉱石手榴弾。
エヴァンはその構造をよく知っていた。まさか、そんなものを魔術師が出すとは思わなかった。完全に意表をついた魔術師の行動に一瞬動きが取れない。
迷わずにドラクルは取手を外した。
「馬鹿なことを──!」顔を蒼ざめてエヴァンはドラクルから離れる。
その時。
「エヴァン先生!」
オスカーの喜色の混じった声が近づいた。慌てて振り向く。ドラクルが不気味な哄笑を響かせる。
「逃げろ、オスカー!!」
虹色の発光。
そして空気を金属が叩く音。
崩壊の音が一つの絵画から通り抜け、工房を震わし、それは工房の外を抜け出した。
校舎の一部である美術棟が崩壊した。瓦礫の山と化した周囲は砂塵が舞う。そこをアーネストが駆け回り、鼻先で目的の人物たちを探し当てる。
幽霊のウォルターはすぐに見つかった。すでに死んでいるのだからあまり無意味だったのだろう。
次に見つけたのはシャーロットとベンジャミンだ。入り口の異形を倒したベンジャミンはそのあとずっと射影機による結界維持を保っていたが、鉱石手榴弾の余波を受けた。だが工房の外にいたためあまり大きな怪我はなく、ボロボロのシャーロットを横に抱えてなんとか体勢を立て直した。
「いったい何があったのよ……」
シャーロットが額から流れる血を手で押さえて呟く。
「虹の、発光が起こって突然吹っ飛ばされたわ……最悪……このドレス、一番気に入ってる仕事服なのよ」
「また直せばいいさ。……君の言う特徴を聞く限りなら鉱石手榴弾を使ったんだね」
「魔術師が? 鉱石手榴弾を? 嘘でしょ」
ベンジャミンの腕から降りて周囲を見る。
「エヴァンとあの坊やは、どこ……?」
「アーネストが探しているよ」
ベンジャミンとシャーロットに構わずにアーネストは鼻先を踊らせた。瓦礫によって混ぜられたたくさんの匂いから、ご主人さまを探し当てる。一つの瓦礫の山の頂点に座り、わふわふと二人を呼んだ。
「そこね」
シャーロットがベンジャミンの服の袖を引っ張る。
苦笑して彼が取り出したのは小型の射影機。アーネストが指し示す場所を撮影すると、下の部分の平べったい口から紙が取り出された。瞬時に撮影したものをすぐに投影する。写真を手にとってベンジャミンは瓦礫を手で優しくぬぐった。
すると、瓦礫が突然宙に浮いて別の場所に退かされる。
その下に折り重なって倒れる、二人の姿。エヴァンが咄嗟にオスカーを庇ったのだろう。
「内臓が潰れた……当分肉は無理だな」
見つけ出されたエヴァンの第一声は寝起きのような声だ。シャーロットは小さく安堵し、エヴァンを強引に起こす。
「そんな馬鹿みたいなことが言えるなら大丈夫ね。坊やはどうなの? まさか死んだ?」
死神の三つの視線が一人の少年に向けられる。
丸い眼鏡はヒビが入り、目は硬く閉じられている。土埃によって服はボロボロで破れてしまった。
死んだか、否か。
ならば魂の回収をして然るべき処理を施さなければいけない。その小さな胸にシャーロットが手を伸ばす。しかしその手は温かな心臓を触れることはなく止まった。少女の細い手首を白金に輝く義手がしっかりと掴んでいる。
「どうして止めるの、彼は死んだのよ」
「落ち着け、シャーロット。彼は死んでいない」
「は?」
見ろ、と顎で促され、シャーロットは心臓からオスカーの口元を見つめた。よくよく観察すれば彼の口元が空気を吸って排出している。胸も、弱々しいが上下に動いていた。
生きている。
魂へと伸ばしていた手を引っ込める。
「私の弟子を勝手に殺すな」
エヴァンの恨み言にベンジャミンが小さく笑みを噴き出し、シャーロットが顔の悪い猫のように二人を睨みつける。
優しい安堵の時間は束の間で終わる。
空気を切り裂いたのは遠吠えだった。
アーネストのものでも、野犬のものでもない。
夜はさらに底冷えし、都会の一部を狩場に変える。忌々しい禍々しさを放つ唸り声に死神たちは息を呑んだ。そして誰もが粟立つ自身の肌を宥めた。
瓦礫の底から人の形をした獣が現れる。ドラクルという魔術師だったものは、ゆっくりと這い上がると空に再び咆哮を轟かせる。身体中にビフレフト鉱石の破片を浴びた体は膨張し、形を変えていった。脚は俊敏さを称えるように、毛深く、そして大きく獣のものと変わった。残された左腕もまた凶暴性を抱き、鋭い爪を持つ。狡猾な表情はいつしか狼とも猫とも区別がつかないほど豹変する。
「自爆したことで吸血鬼化したか……ッ」
苦々しい呟きをドラクルだった吸血鬼が大きな口から涎を垂らしてオスカーを見つめた。
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