第30話 少年、真名と傑作
探す間、一番嫌な予想ばかりがよぎった。
見つけた絵画が真っ二つに壊れていたら?
サトゥルヌスの攻撃がこっちにきたら?
エヴァン師がもしも死んでしまったとしたら──死神に死とはあるのだろうか。
とにかく嫌な予想のせいで思うように手は動かなかった。隣でウォルター氏が生き生きと絵画を漁っては、後ろに投げ捨てる。忌まわしい絵画に愛着はないのだろう。嫌々書かされていた部分もあっただろうし。
芸術家は自分の好きなものを書きたがる。
僕だってそうだ。小説家を目指すと言っても思いついたものや書きたいものを書く。読者が求めるものなど書きたい気がしない。
大きな木材が折れるような音がしたあとに僕の真横に大きな触手が落ちる。タコかイカのような触手は未だに蠢いており、僕は慌てて飛び退いた。
「あっ」
足が戦闘の瓦礫に引っかかり、尻餅をついてしまう。
「いたた……」
足先に当たった絵画に目がいって、驚愕の声をあげた。何かが落ちて絵画がダメになってしまう前に慌てて拾い上げる。そのすぐあとに絵画があった場所に化け物首が落ちて潰れた。
間に合ってよかった。
改めて見るとまさしく僕たちが求めていた部屋の絵画だ。
「ウォルターさん! 見つけました!」
「えっ、何? 聞こえない!」少し距離があるところでウォルター氏が必死に耳を澄ます。
「こ、こ、に!」
いてもたってもいられず、絵画を掲げる。意味が分かったウォルター氏の顔に喜色が溢れた。幽霊であるにもかかわらず瓦礫たちを気にしながら踊るように僕のもとに駆け寄った。途中絵画の異形の残骸が雨のように降り注ぐ。
完全な合流をする頃には、僕とウォルター氏は油絵具をたくさん被ってしまっていた。
「うぇ……鼻が曲がりそう」
アーネストはというと、サトゥルヌスの首を噛みちぎっていた。完全に屈服されてしまった絵画の化け物は汚い断末魔をあげて絶命する。
「アーネスト!」
安堵して手を振ると大きな体躯のアーネストが尾を激しく振った。壁を強く打った尾のせいで広間が激しく揺れる。
「うわっ」
僕の体がバランスを崩してしまった。床に手を付き、立ち上がろうとするとウォルター氏の悲鳴が聞こえた。上、としきりに言うので僕は立ち上がるよりも上を先に見る。
とんでもないことに、なんと、工房の天井の素材であっただろう瓦礫と大きな異形が落ちてきているではないか!
多くの触手と目蓋のない体量の目玉の集合体──集合体恐怖症の人間がいたら一発で失神する──ぬめぬめとした深緑の体躯は人間と獣、魚介を足して割ったかのようだった。それらが落ちてきている。しかも尋常じゃないほど大きい。
潰される──。
僕は顔を両腕で庇い、降りかかってくる衝撃と死を覚悟した。
しかし聞こえたのは生肉を斬り刻む音だけ。
衝撃と痛み、そして死は来なかった。
「あら生きてたの」
猫のようなつんとした声音に僕は腕を下ろす。
真紅の波打つ髪に吊り上がったピーコックグリーン。黒いレースのワンピースドレスは古典的な喪服のものだ。ブーツで細い脚を隠した姿。前に会った時と違った服装のシャーロット嬢がゆっくりと重力などを無視して降り立つ。
漆黒の刃についてしまった油臭いヘドロのようなものを振り払う。おそらく血だろう。
「やっと終わったわ。ねえ、坊や。エヴァンはどこ行ったの? アイツ、絶対あたしのスカートのなか見たに違いないわ。記憶から消すために殴ってやらないと」
「えっ……今。それ今必要?」思わず口にしてしまう。案の定シャーロット嬢はさらに猫のように目を吊り上げた。
「男ってほんとそう──」
「そんなことより!」
「そんなことよりですって?!」
尖った犬歯を剥き出しにしてシャーロット嬢の顔がズイ、と僕に寄る。迫力のある顔にたじろぐが、今は課題をしなくてはいけないのだ。
「そんなことよりです! ドラクルの真名を探すように言われてるんだよ、僕! 先生はドラクルと戦ってる!」
「真名? あるの、ここに」
パンツを見られたかどうかの疑念はすぐに消えてしまったらしい。真名のことを伝えればピーコックグリーンの瞳が狡猾に輝いた。
「真名って意味を知ってて探してるの?」
「え……大事なものだということは分かってる」
「駄目ね、新米」
時間がないので僕たちは見つけた絵画に入り込んで探し回った。その間シャーロット嬢は真名について詳しく教えてくれた。
「真名っていうのはその名の通り本当の名前よ。名前は魂に直結しているって考える人たちは多いわ。名前があれば魂に干渉できるから。ただね、隠されたら魂に干渉できない。──ほら、見たでしょう、ジゼル・クレセントにエヴァンがしたこと」
「魂を取り出した、アレ、ですか?」
脈打つ心臓を取り出したあの光景を忘れるはずがない。
シャーロット嬢は満足げに頷いた。そして絵画の一つを邪魔な塵みたいに後ろに放り込む。ウォルター氏よりも雑な扱いだった。
「つまりああいうのができないのよ。真名を隠されたら。私たち死神が魂を迎えに行くことも難しい。だから魔術師ってやつはそれが分かってるから真名を隠す。偽名を使うの」
ただね、と付け足す。
「長く一つの偽名を使うと真名になっちゃうの。なんでかはよく分からないけれどね。だからあの魔術師は何度も名前を変えているはず。一番古いものに真名があると私は思うわ。それかそれなりに大事なものにね」
「じゃあ、絵は難しい、かな」
自信がなさそうにウォルター氏が呟く。
もうすでに絵画たちは調べきった。けれどもサインの記された絵画は何もない。
「スケッチブックはどうでしょう。あの実験室みたいな、ところ」
ガラス瓶の子宮を思い出して身震いする。
「次はそこを見ましょう。だって、大事ですよね、魔術師にとって研究しているものって」
「それはそうだけど……」
「それに気になっていたものがあって」
僕たちは部屋を出た。広間はすでに油絵具の匂いが充満していて、異形たちの死骸でいっぱいだった。アーネストだけが元気そうにその上を闊歩している。もちろん大きさは元に戻っていた。あのままだったら工房が崩れてしまうことだろう。
アーネストは死骸の瓦礫に埋もれた絵画を口で器用に咥えて額縁を奥歯でガリガリと噛み締める。犬らしい行動がやっと見れた気がした。
「あ」
その絵画を見て、僕は喜色に染まる。何故ならアーネストが噛んでいる絵画こそ、僕が探していた絵画だったからだ。転けそうになりながらも僕はアーネストのもとに駆け寄って絵画を手に取った。
「アーネスト、ありがとう!」
何に対しての礼なのだと言わんばかりに首を傾げるアーネストを無視して僕は絵画に飛び込んだ。
あの忌まわしい実験室。相変わらず意味不明の形をするフラスコがたくさんある。その机の前を素通りして、子宮が壁一面に埋め尽くされている部屋に入った。
恐らく、大事なものはアレしかない。
一等美しい作品だと思ったからだ。
どの絵画の部屋よりも一番力を入れていた。
手術台に寝かせられたあの女性の立体の油絵。女性の人体を本物と見間違えるほど描き込まれている。
「うっわ、気持ち悪い」
美しい立体油絵をシャーロット嬢は容赦なく眉根を寄せて不快感を露わにした。魔術師によって造られたものは全て嫌悪の対象なのだろう。
「これ、これが僕はずっと気になっていたんです。ここの工房の絵は必ずキャンパスの上なのに、これだけは立体的で……もしかしたらこれが、ドラクルの最高傑作だと思うんです」
「確かに」ウォルター氏が頷く。「世の画家たちがこれを見たらひっくり返るだろうね。油絵でできているだなんて誰も思わないし、ここに至るには苦労する。悔しいけれど、僕には無理だ」
「至らなくていいのよ、こんな紛い物」
シャーロット嬢は大鎌を振り上げた。刃先は立体油絵の女性に向けられている。
「壊していいわよね? 当たり前よね? だってこんなのあったらいけないんだから」
容赦なく大鎌は振り下ろされて女性の体を縦に真っ二つに切り裂いた。問答無用の彼女の所業にウォルター氏の小さな悲鳴が聞こえた。手術台ごと斬られたことで派手に音が響く。
「あっ……」
切り裂かれた油絵の肉の断片から古い紙片たちが無数に溢れる光景を目にした。噴水の如く、それらは溢れて僕の目の前に降ってくる。
文字が。
文字が──文字が僕の目に映る。
飲み込まれる。
飲み込まれる。
文字が溢れて僕を飲み込んだ。
「愛してるわ……愛してるの、ずっとよ」
女性のか細い声が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます