第22話 少年、自殺と残虐

 自殺は絶対にしない、と母と何度も教会で話し合った。


──何があっても、お願いよ。犯罪と自殺だけはしないで。


 母は過去に僕の叔母にあたる姉を若くして自殺で亡くしている。許嫁の結婚前夜の裏切りに叔母は心を閉ざし、そのまま誰にも泣き縋ることもなく、頼ることもなく、十九歳の人生を自ら降ろしてしまった。

 母はずっと悔いて、日曜日になると教会で叔母のことを祈り、叔母のことを僕に語った。姉の心と命を守れなかった後悔を僕が幼い時から刷り込んだ。おかげで自殺に対しては全く持ってやるべきものではないと信じている。吸血鬼を見てから尚更だ。



 僕たちは螺旋階段を登って気になる絵画を片っ端から掴んだ。全てをウォルター氏が描いたものではないらしく、ただの人物画だったり、風景画だったり、ただの絵画が混ざっていることもあった。これらは全部手に取って物置の絵画のなかに入れて除外していった。


「それなりに減りましたね」

「そうだね。まだあるけれど……」


 顔を見合わせてもう一度浮かぶ絵画たちを見上げる。排除していったとはいえ、まだ数十枚は浮かんでいる。


「たくさん描かされたせいで、どれが私の作品でどれがなんのために描かされたか、思い出せない。時には同時に三枚も仕上げたことがあった。いくら画家でも、あんな苦しいところで描く日々は二度とごめんだね」

「退屈な日々ですね。いくら僕でも、キャンバスをへし折ってます」

「君って筋力なさそうなのに?」真顔で問う。

「馬鹿力っていうのなら、出るときは出ます。多分」ラグビーもできない貧弱眼鏡の僕の口元が引きつる。


 僕の貧弱な──これでも健康体なんだぞ──体を頭の天辺から爪先までジロジロと見たあと、ウォルター氏はすぐ近くの絵画を手に取った。


「とてつもなく曰くありげじゃないか?」


 興味深く彼が言うのも無理はない。

 彼の持つ絵画はいかにも魔術師の工房にふさわしいものだった。大きなテーブルの上を支配するフラスコや試験管。壁の戸棚には鉱物や宝石の類が納められている。天井から吊るされた東洋を醸し出すランプたちに混じって揺れるのは真鍮素材の華奢な鳥籠たち。なかにあるのは小動物の剥製と標本。

 ニセモノのウォルター氏──ドラクルという魔術師の研究が分かるかもしれない。


「行きましょう」


 もう一度ウォルター氏と顔を見合わせて絵画のなかに足を踏み入れる。越えた先は魔術師の研究室。

 改めて内装が明るみになる。

 外から見るまでは分からなかった。

 大きなテーブルはおよそ七フィート(約二メートル)ほどの長さを誇っている。幅も大きく、フラスコ、試験管の他に、インク汚れが隅にある羊皮紙や使用済みのマッチやアルコールランプ。ヴォイニッチ手稿写本に載っていた見たこともない色の混ざり具合をした植物に、曲がりくねって複雑に絡み合う細いガラスの管がついたガラス壺。

 まさしく、実験室。

 ただし僕の識る実験室とはかけ離れている。

 テーブルの隣にある、どう見ても骨格がおかしい動物の標本が目に入った。まさかと思うが、馬のような下半身の骨格に人間の骨格がついているこれは人馬ケンタウロスじゃないか?

 まじまじと見て関節におかしい点はないか顔を近づける。


「すごい……繋ぎ目が自然だ。人馬って本当にいるんだ!」

「こっちには一角獣ユニコーンの頭部があるぞ!」


 僕たちの目は、宝石よりも輝いていたことだろう。


「ここでは、素材を作ってたんだろうね」ウォルター氏がテーブルの上のノートを広げる。「ここにインクの作り方、とあるよ。もしかしたら、血液以上の素材を、あの男は求めていたんじゃないかな」

「血液以上の素材?」

「私はよく分からないけれど、部屋の家具はだいたい──なんていうか──わかりやすいだろう? 本物じゃないって」


 僕はそれに頷いた。本物じみているけど分かりやすいほど違うと認識できてしまう。


「そこがドラクルは気に食わなかったみたいだ。いつも私や彼自身の作品を不満がっていた」


 そういえば油彩の化け物と遭遇したとき、模倣に過ぎないとエヴァン師が言っていた完全ではない、と。

 ドラクルは完全無欠の油彩術式の魔術を完成させようと企んでいる。


──いったい何故?


「何に完成させた素材を使うつもりなんだろう」


 分からない。今でも十分、油彩術式は素晴らしいとともに、恐ろしい魔術だというのに。何かを再現したいとでもいうのだろうか。

 再びテーブルの上の羊皮紙や手帳、古臭くて垢汚れの大きい本を退かしながら有益な何かがないか探る。


 一際目に入ったのは、これまた汚れのひどいスケッチブック。

 開くとまず現れたのは女性の裸体。これまた細部にまでこだわりを感じる。閉じられた目蓋の下の黒子。僅かに形が均等ではない乳房──思わず手で隠す。足の爪先の形まで。

 次のページは眼球。色の指定まである。

 その次のページは鼻の形。

 手の形。指の長さの指定。

 口の大きさ。歯の並びと数がきっちりと記されている。

 骨格。


 めくっていくたびに生々しさは激しくなった。


 最後にあったのは、子宮のスケッチ。生々しいほど、色んな角度からの子宮を描いている。そしてそれらの下には必ず、名前が書いてあった。

 恐る恐る、目が最初の名前をなぞった。日付は五〇〇年弱ほど前で──一八八八年八月三一日メアリー・ニコルズ。


 切り裂きジャックの最初の犠牲者だ──!


 目眩がした。

 寒気がした。

 背筋がゾッとして、僕の手の末端たる指先が震えた。


 スケッチブックを持つ力はいっきになくなって手のひらから滑り落ちる。油彩の床に簡単に落ちる。


「オスカーくん! オスカーくん!」


 僕を呼ぶウォルター氏の声が遠くに聞こえて、近づいてくる。

 肩を掴んで揺らされた。


「オスカーくん!」


 必死の叫びに僕はようやく我に返った。


「み、ミスター・ウォルター……」声が上擦った。

「ああ……よかった。大丈夫かい、手が震えていた」

「大丈夫です」真っ青な顔になっていたかもしれない。

「これは君のような子どもが見るものではないね。いや、子どもも、大人も、見てはいけないものだ。おぞましい。こんなものを芸術の一派に加えてはいけない」


 言い切るとウォルター氏は、僕から切り離すようにスケッチブックをぞんざいに投げ捨てた。眉を強く寄せて怒りに満ちた眼差しでスケッチブックを睨む。

 弧を描いたそれは油彩の質素な壁に打ち当たる。

 それだけで良かったものの、壁から扉が幽霊のように現れた。

 音もなく、ただ静かに存在を主張する。


 ただあるだけのように。

 ウォルター氏のように友好的でも、吸血鬼のように害を為そうとする訳でもなく、ただあるというのは、ひどく不気味さが際立つ。

 最初に扉に近づいたのは僕だった。


 これまた恐る恐る。

 ハンドルに手を伸ばし、ゆっくりと押す。

 鍵はついていなかった。


 それが、僕にとって最悪だった。




「あ、あああっ!!」



 結果、僕は発狂した。

 悲鳴が反響して僕の耳に戻ってくる。

 また手が震えて悲鳴を溢した僕の唇を覆った。


「あ……ああ……ああっ」


 ウォルター氏を呼ぼうとした声が嗚咽を産む。

 後ろを振り向こうにも目は釘付けだ。

 目に見えた内装はこうだ。

 中央に数台のベッドが横に平行しており、その周りを戸棚がガラスの瓶たちを抱えて立っている。内装を明るくしているのは天井に近いほど大きな無影灯。


 それだけじゃない。

 それだけじゃないんだ!!


 戸棚の瓶のなかを、見てくれ。見てくれ。

 お願いだから、僕と同じ目線でいてくれ。


──お願いだから、嘘と言ってくれ!


 数百以上にも及ぶ数のガラスの瓶のなかには、肉の塊が浮かんでいるのが見えた。

 ぷかぷかと泳ぐ、あの肉の塊は──見たことがある。さっき、あのおぞましいスケッチブックのなかで。


 もう分かっただろう。


 嘘だと言ってくれ。


 あの肉の塊たちが、だなんて嘘だと。


 ……

 ……


 僕は部屋に入ることができなかった。入り口の近くであまりの凄惨さに小さく震えた。今頃僕のところにやってきた黒妖犬がそばに座る。

 部屋に入ったウォルター氏が息を呑んだ気配がした。


「これは……なんてことだ」


 ドタバタと彼は絵画と外を往復して画材を持ってくると、「良いと言うまで部屋の扉を開けてはいけない」と言ってあのおぞましい部屋のなかに籠ってしまった。

 筆使いの音が長い長い間、ため息さえも氷河期の冷気のように。

 どのくらい経っただろう。

 部屋に時計などない。時間は全く分からない。


 気が遠くなるほどの時間が過ぎて、ようやくウォルター氏が部屋から顔を出した。


「もう大丈夫だ。あれらは全て隠したよ」

「……」

「オスカーくん?」立たない僕にウォルター氏が首を傾げる気配。

「……立てません」

「どうして」

「僕が異常だからです。僕は、異常なんです」


 心臓が早鐘を打つ。


「僕には、家族が、いました……父と母の三人家族で……フラットはロンドンにあります。母は家庭的な女性像の模範で家事が……料理が得意でした」

「オスカーくん」

「父は社交的で色んな国に友人がいます」

「オスカーくん!」


 突然喋り続ける僕をウォルター氏の喝が響く。

 目の焦点がふらふらと合わずに彼を見る。


「二人とも死にました! ついこの前!」


 僕はその声に被さるように大声を張り上げた。お腹から吐き出すように。


「僕が勧めた! 旅行に、キング・クロス駅のビクトリア号で行くことを!」


 僕が勧めたのだ。

 覚えている。

 覚えている。

 覚えている。

 僕が、キング・クロス駅始発の大陸横断豪華列車ビクトリア号に乗って行くことを、帰ることを。今だって鮮明に思い出せる。

 二人が行くとき何をお土産にねだっただろう。覚えている。写真を撮ってね、と小型射影機を持たせたことを。


「それなのに、僕はどうでしょう? 二人がドゥーバー海峡に落ちたというのに、僕は……僕は……一切泣かなかった!」

「それは、立派だ──」

「違う!」


 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!



「泣くことが分からないんだ!!」


 今も、僕は泣くこともなかった。

 分かっている。

 泣くということが麻痺しているということが、嫌でもわかる。

 ずっと考えていた。どうして自分は泣かないのだろう、と。

 両親のことをなんとも思っていなかったのではないか。考えがそこに行き着くと、証明されてしまう日が来るのではと怖くて仕方なかった。

 エヴァン師が弟子になるように言われたときも、僕の内心はそのことが不安の種になった。

 父母の魂を取り戻して僕は、僕の心はどうなる?


 僕は──。


「落ち着きたまえ、オスカー・ビスマルク」


 地を這うバリトンボイスが聞こえて焦点がゆっくりと一点に絞られた。

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