少年オスカーと死への旅路

本条凛子

講義、終末

第1話  死神、終末について講義す

 我が師エヴァン・ブライアンが言うには、この世界は二度、終末という事象に巻き込まれたらしい。


 僕の目の前でマッチを擦る長身痩躯の男──彼こそが我が師エヴァン・ブライアンである。ランプの蝋燭に火を点けて用済みになったマッチを備え付けの灰皿に置いた。

 爛々と灯る光を師は見つめて僕に語りかける。


「最初の終末事象は聖書にも載っている。君もプロテスタントならば何度も読んだはずだ」


 夜を駆ける師のバリトンボイスは梟の鳴き声のように厳かで、底冷えがする。

 ロンドンのフラット──アパートのこと──の一室を真っ暗にしてランプの照明のみしか視界を補助してくれるものがない。だから怖く感じるのは仕方がないのかもしれない。


 簡素なテーブルの上にランプを置いて、僕と師はそれを挟む形で向かい合った。椅子は師が適当に誂えたものでデザインに統一性はない。


 エヴァン師の特徴ともいえるアメジストとルビーのオッドアイが僕を見て笑った。ルビー色の右目は義眼なので動くことはない。その目の下は濃いクマができており、明らかに不健康な表情をしている。

 黒い髪は癖っ毛で鳥の巣でも作ったのではないかと勘違いするほどボサボサだ。時々師の頭を止まり木にする鳥もいるが、僕はそれを見るたびに鳥が糞を落としてしまわないかドキドキした。


 僕は師の言葉に答えた。


「ノアの箱舟、ですか?」

「そうとも。それを我々は第一次終末と呼んでいる」


 満足いく答えだったみたいだ。師は唇の片方の端を不敵に吊り上げて頷く。


「太古より昔」


 歌うように紡ぎ出された言葉の羅列たちは、僕にとって、否、人類にとってとてつもなく途方も無いものばかりだ。

 今日の講義も途方もなく、僕の常識をかき乱す。


「神たちは己の創り出したものが、自我を持つとは思わなかった」


 師はテーブルの上に漆黒のヴァイオリンを取り出し、これまた漆黒の革手袋をつけたまま弦に触れる。人ならざるものが作ったとされるヴァイオリンは果たして僕の識る一般的なヴァイオリンと構造は同じなのだろうか。

 気になってヴァイオリンに目を落とす。


「オスカー」


 エヴァン師が僕の名を呼ぶ。僕は慌てて背筋を伸ばした。


「耳を凝らし、目を澄ませ」


 なんて無茶苦茶な注文だろう。困惑する僕に、エヴァン師は早くしろ、と言わんばかりにヴァイオリンの弦を爪弾いた。

 この注文に成功したのは一度きりだ。

 全神経を集中するイメージで僕は前を視る。この注文の意図は簡単に言葉にすると、視て、利く。それだけのことらしい。

 全くもって理解できない。


「……まずは目を閉じるんだ、オスカー」


 痺れをきらしたエヴァン師が声をかける。僕は師の指導に素直に従った。

 目を閉じて深呼吸を一つ。

 もう一度。今度は呼吸する音を可視化するイメージで。


 イメージしたのは波紋だ。吐いた瞬間を白くて細く光る波紋が広がる。エヴァン師が響かせるヴァイオリンの音も同様に視た。

 目をゆっくり開けて、音だと思う。


 目を完全に開けた瞬間、一寸先を雨風が吹き抜けた。


「あ──!」


 驚いて僕は後ずさる。

 簡素な椅子に座っていたはずの僕の体は黒く荒れ狂う大海のなかに投げ出された!

 海水が激しく大地を喰らい、僕の体を打って口のなかに入り込む。


「あぅっ……せ、せんせぇっ!!」


 師の姿を探すも、視界を高波に揉まれて全く見えない。金槌の僕に海はあまりにも残酷すぎる。足をバタつかせて必死に酸素を取り込んだ。


「ふぅん? 感受性が高すぎるのも厄介だな」


 頭上で師の声が聞こえた。あまりにも落ち着き払ったバリトンボイス。


「せんせぇっ!!」

「落ち着け、オスカー。君は今、フラットの一室にいる。それを思い出すんだ」


 そう。

 これは師の持つ音による幻想の具現化に過ぎないのだ。


 底のない海だと思うのではない。あるのだ。

 僕はフラットのあの硬くて冷たい床を必死に思い出した。小さい頃、木目を人の顔だと思い込んでは怖がってカーペットを母にねだって敷いてもらった。嫌な思い出ではあったが、今、役に立った。僕の足先にあの硬い材質を靴越しに感じた。

 水面が膝下に下がる。

 安堵する僕の目の前にエヴァン師が降り立った。


「音楽術式幻想で弟子が死ぬところだった」


 軽やかな発音で物騒な内容を口にし、師はフロックコートを靡かせて笑う。青白い肌の下に隠された真珠色の歯が覗く。

 本当に死んだらどうするつもりだったのだろうか。

 しかしながら、本当に死んで欲しそうにも見えて僕は怒りでわなわなと震えた。今すぐにでも師を詰ろうとするが、その前に師は指を差す。


「ご覧、オスカー」


 革手袋の指先は荒波に揉まれる物体──船だ。大きな箱舟が波に幾度も喰われながらも必死に水面を泳いでいた。


「……ノアの箱舟、ですか」


 濡れて貼りついた髪を払い、怒りも忘れて箱舟を見た。


「そうだ。神は傲慢にも自分が作った人類の存在を否定した。悪意を持つことを許しはしなかった」


 苦虫を潰した顔で師は続ける。


「魂を持てば悪意は自然と持つ。善意ばかりで育成できるとでも思ったのか……とにかく、我々は神の大きなこの行為を許すことはない。これでいったい世界の均衡がどれほど揺らいだことか」


 腕を組み、師は僕の隣に立つ。エヴァン師は相当神という存在が嫌いなようだ。聖書を手にするときもあるがそれは稀で、単なる暇つぶしの読み物の一つとしか思っていないだろう。

 目の前の世界はゆっくりと色彩が薄くなり、あのフラットの一室に戻った。僕はテーブルの前で立っており、足元には座っていた椅子が横に倒れている。

 慌てて椅子を立て直し、隣に立つ師を見上げる。

 幻の海に落ちた僕の体は海水ではなく、冷や汗で濡れていた。


「先生。二回目の終末は、第二次終末という呼称で合ってますか?」

「いかにも」唇の端を吊り上げてエヴァン師はまた椅子に座る。


 ランプの光は未だ優しく灯っていた。


「第二次終末は今からちょうど五百年前に起こっている。一八六二年一月一日──英国人の君なら分かるだろう」

「ラグナロク世界大戦ですね」


 備え付けられた本棚に僕は何度も見返した歴史の教科書を引っ張り出した。何度も読み返した頁を開き、テーブルの上に置く。エヴァン師が前かがみの姿勢になって見出しの文字をなぞった。

 ラグナロク世界大戦を知らない人類は赤子のみだ。いずれも成長途中のなかで知ることになる。


「戦争の発端は知っているだろう?」


 アメジストの挑戦的な視線を受けて僕はムッとなった。

 一二歳でも知ってるのだ。僕は姿勢を正して師に今までの成果を見せつける。何度も読んだだけあって、単語と年数はスラスラと口から溢れてくる。


「インドでビフレフト鉱石が一八六一年の一二月二四日に見つかって、そのあとも温暖な地域で次々と発掘されました」


 ビフレフト鉱石というのは。


 師はフロックコートのポケットから小さな欠片を取り出した。

 教科書の上に置かれるたった一粒のそれは虹色に光り輝き、異様な美しさを持っている。成人男性の指の先から第一関節ほどの宝石は突然一回りほど大きくなった。

 英国人にとって、否、人類にとって見慣れた光景だが、僕はいつもこの宝石の生態には気味の悪さを感じていた。

 息を呑んで言葉を閉ざした僕を、師は続きを促すように顎で指示する。


「鉱石の特徴は?」

「……まず、虹色の発色をしています。そしてこの鉱石の最大の特徴は、自然的に自己成長をするということ」


 教科書の上で成長した宝石こそがビフレフト鉱石──そして大戦の原因となった悪魔の福音物。矛盾のある言い方であるが、悪魔の福音物とはとある評論家が名付けた的を得た名前だ。

 僕は目の前の鉱石を師の側へと押し付けて説明を続けた。


「削っても数日すればもとに戻ります。放置する時間が長ければ長いほど大きくなる……」

「その鉱石でどうして戦争が起こったのかを聞いているのだが、オスカー」

「はい。それは、鉱石が燃料として使用することが可能だと学者たちが気づいたからです」


 物理・化学者のマイケル・ファラデー氏が鉱石を蒸気発電機と組み合わせたことで灯台に明かりをつけることに成功した。

 害悪な空気も出ない、そして尽きることのない新たな資源の可能性に世界中が欲しがった。

 ただ問題なことに、鉱石の産出量の多くが南部や熱帯、温暖な地域に集中し、ヨーロッパではなかなか産出されない。

 鉱石の独占権、植民地の独立化を危惧した各国はそれぞれ動き出した。


 他国の植民地を強奪し、あわよくば本国さえも狙う国。

 どさくさに紛れて別の資源を奪おうと他国と同盟を組んで戦力差で襲う国。

 強者に食われないように恭順する国。

 中立だと言いながら、どう転ぶかを絵画を鑑賞するかのごとく沈黙を貫く国。


 我が国旧大英帝国が参戦したのは、一八六二年の一月一日。

 ヴィクトリア旧女王陛下の意向のもと、植民地を侵略した国々に対して宣戦布告を言い渡して本格的に戦争は激化した。


「つまりラグナロク世界大戦の原因は、鉱石の独占です。一八六五年の五月にオリエント世界協定で、鉱石の独占権は我が国旧大英帝国にあると正式に決定しました」


 鉱石の各国への輸出についてはあまりにも面倒だし、師は求めていないだろう。現に満足げに頷いて椅子の背もたれで寛いでいる。


「正解だ、オスカー」


 師は気だるげに僕に拍手を贈った。もう少し気持ちを込めてもらえないだろうか。


「君が勤勉家で助かるよ。教えるというのはストレスが溜まる」

「ならどうして僕を弟子にしたんですか?」

「さて、君は旧大英帝国と言っていたが──」


 あからさまに話をそらしたな。

 僕は師を非難がましく睨みつける。しかし、その視線は呆気なく流されてしまった。


「何故旧をつけるのかな?」

「それはヴィクトリア旧女王陛下が女帝と明言し、国名をヴィクトリア大帝国と改名したからです」

「一〇〇点満点だ。次の口頭試験に追加しよう」

「試験なんてないじゃないですか」

「いつか出す」

「それは絶対出さないという発言と一緒ですよね」


 痛いところを突かれた、とエヴァン師が口をすぼめる。


「それで、終末を講義に出すということはいったいなんの関係があるのでしょうか」

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