第350話 嗅覚の差

 グラディー山脈の地底洞窟―――休憩予定時間を1時間残す中、スレヤーは異常な「臭い」に目を覚ました。


 こいつは……ヤベェな……


 仮設寝所からそっと外へ出る。レイラが洞窟奥を見つめ、こちらに背を向け立っていた。長く真っ直ぐな黒髪の頭部左右から特徴的な「尖った耳」が覗き、気配を探るようにかすかに動いている。


「レイラさん……」


「しっ……」


 背後から声をかけたスレヤーを、レイラは振り向きもせず制す。スレヤーは大柄な身体から想像も出来ないほど静かに進み、レイラの横に並び立った。奥から流れて来る空気にスレヤーは鼻をヒクつかせる。


「……居ますわね……黒魔龍が……」


「ヤツの臭いですかい……こりゃ……ちぃとキツイですねぇ……」


 スレヤーは独特な言い回しで黒魔龍の脅威を言い表す。レイラはしばらく洞窟の奥を見つめた後、フッと息を吐くと笑みをスレヤーに向けた。


「寝汗の香りがキツくてよ、スレイ。拭ってらっしゃいな」


「は? え……そうすかぁ?」


 レイラからの指摘に、スレヤーは自分の両腋を嗅ぐ。


「お2人とも、早起きですねぇ……」


 気配を感じたのか、バスリムも仮設寝所から外へ出て来た。直後に、漂っている異様な空気に警戒する表情を見せる。


「もう、だいぶん薄れてましてよ、ミゾベさん。今はスレイの寝汗の香りのほうがキツいくらいですわ」


「そんなぁ、レイラさん……全然平気ですって! ほら、何の匂いもしてませんって!」


 自分の仮設寝所へ戻って行くレイラの背に、スレヤーが情けない声で呼びかける姿をバスリムは不思議そうに眺めていた。



―・―・―・―・―・―・―



「黒魔龍の『におい』ですか……」


 ドワーフのビガンを先頭に、レイラたちは朝の出来事を共有しながらグラディーの地底洞窟を進む。


「『におい』を嗅ぎ取ったのはスレイだけよ、ミッツバンさん。普通感じるのは『法力波』ですわ、ねぇ? ミゾベさん」


 レイラから話を振られたバスリムは、軽く笑みを浮かべて応えた。


「私が気付いた時には、探知をかけないと掴めないくらいに薄まってましたけど……あれは確かに、王都に現れたヤツと同じ波長の法力でしたね。とは言え、伍長が感じたヤツの『におい』ってのも、是非嗅いでみたいものです」


「俺だってにおいは嗅ぎ分けられるぞ!」


 同行している半獣人戦士のガウラが会話に加わる。


「やはりスレヤーさんは、獣人種に近いのでしょうね」


 エルフ戦士のライルが微笑みをスレヤーに向けながら言葉を繋いだ。スレヤーは苦笑いを浮かべ、いい加減に聞き飽きた評価を流す。ビガンが足を止めた。一行はゆっくりと先頭に集まる。


「冷たい洞窟と暑い洞窟の分かれ道だ。この先は法力灯も要らねぇ……壁が光ってるからな」


 小さな水路沿いの岩壁に、縦方向に裂けた「穴」が数ヶ所口を開いていた。もう1人のドワーフ戦士ズンが補足説明を入れる。


「ほとんどは行き止まりになってるが、2本はもっと下まで続いてるみてぇだ。俺たちも途中の道までしか分かんねぇ。……分かってんのは、どっちの先にも『危険なにおい』が漂ってるってことだ」


「お! ズンさんも『におい』が分かる人だったのかよ!」


 スレヤーは「嗅覚派仲間」を見つけ、喜びの声を上げた。だが、ズンとビガンは怒ったような冷めた視線をスレヤーに向ける。


「比喩に決まっとるだろ。で? どうするんだい?」


 ビガンはスレヤーの言葉を軽くあしらいレイラに尋ねた。


「2手に分かれますか?」


 示された2つの裂け目を静かに見比べ考えるレイラに、バスリムが声をかける。


「そうねぇ……」


 チラッとバスリムに視線を向けた後、レイラは後方で見守っているミッツバンに目を合わせた。


「ミッツバンさんが以前、お父様と共に水晶の谷まで行かれたお話をされた際、道中で『地熱を感じた』とおっしゃってましたわね」


 一同の視線がミッツバンに向けられる。注目されたミッツバンは「あっ!」と声を洩らした。


「熱は上に向かって流れて行きますわ。どちらかの道が地熱を感じる道につながってるのでしたら、当然その熱も上がって来てるものだと思われませんこと?」


 レイラはニッコリ微笑み、さらに言葉を続ける。


「それと……スレイ。あなたの直感では、どちらの道を進みたくて?」


「え? 俺っすか?」


「そう。頭で考えないで、あなたの直感で答えて下さいな」


 思いがけぬレイラからの指名にスレヤーは一瞬キョトンとしたが、すぐに合点がいったようにニヤリと口の端を上げる。


「そうっすね……直感で言えば、左側の冷たい道を選びたいですね。右側の暑い道にゃ、何か嫌な臭いを感じますからねぇ」


「という事よ。進路は右の『暑い道』に決まりですわね」


 先頭役のビガンに、レイラは顔を向けて指示を出す。


「あの……このまま全員で行きますか?」


 改めてバスリムが確認すると、レイラは再びスレヤーに視線を向けた。スレヤーは笑みを浮かべたまま目を閉じ、頭を掻きながら応える。


「黒魔龍の『臭い』はかなり強烈だぜ? バスリムさんよぉ。……本体ってのがどれほどの力を持ってんのか知んねぇが、この面子が分散して敵うような相手じゃ無さそうだって事さね」


「……今朝、君が嗅いだあの『におい』かね?」


 バスリムの問いに、スレヤーは肩をすくめて見せた。


「スレイの特殊能力は下手な探知魔法よりも優れてましてよ、ミゾベさん。さ、右の『暑い道』へ」


 確定した進路に向け、ビガンとズンが並んで進み出す。スレヤーの横に並び、ガウラが語りかけた。


「へっ! 北のエルフってのは種族至上主義の鼻もちならねぇ連中ばかりと聞いてたが、面白い姉ぇちゃんも居るもんだな?」


「あ? 馬鹿野郎……レイラさんは別格だよ」


 スレヤーは満足そうに笑みを浮かべながら歩を進める。背後からライルも会話に加わった。


「貴方にはやはり、かなり薄くではあるが獣人種の血が混じってますよね? スレヤーさん。非常に珍しい。レイラさんもそれに気付いてるんでしょ?」


「もういい加減にしてくれや!」


 ウンザリ顔でスレヤーが言い返す。


「ご先祖さんがどんな血筋を辿って来たのかなんざ、知りもしねぇし、興味も無ぇんだよ、俺は。『今此処に俺が居る』。それだけで充分だよ」


「そうよ、スレイ」


 背後で聞こえる会話に、レイラが楽し気に答える。


「ご先祖など関係無しに、いま貴方が一緒に居るだけで退屈しないで済むわ。それに、貴方の嗅覚は本気で頼りにしてましてよ、赤狼さん」


 レイラからの思いもよらぬ好評価にスレヤーは驚いた表情を浮かべた後、ふにゃりと頬を緩ませ1人で照れ始める。ガウラとライルは横並びになると、呆れ顔で苦笑を交わし合った。



―・―・―・―・―・―・―



「かなり深くまで来ましたが……水晶の谷とやらはまだ先ですか?」


 ライルからの問いに、ミッツバンはゼェゼェと息を切らし歩みながら首を横に振る。


「こんな……同じような景色……ばかりでは……何とも……」


「少し休憩を入れませんか? 前の休憩から2時間以上進みましたし……」


 バスリムは懐中時計を取り出し時間を確認すると、レイラに進言した。


「あら? もうそんなに経っていましたの? 景色も道も単調ですから、時間の感覚が狂いますわね。ズンさん、ビガンさん、休憩しましょう!」


 レイラの指示で先頭のドワーフ2名が歩を止めると、一行は思い思いに手近な岩や地面に座り身体を休め始める。


「2回の休憩を入れて6時間……この道でホントに大丈夫ですかねぇ……」


 先の見えない旅に、バスリムが不安げな言葉を小声で漏らす。その声を聞いたライルがそばに寄り小さく語りかけた。


「スレヤーさんに対するレイラさんの信頼はとても強いものを感じますが……所詮は彼の『勘』を頼りに道を選んで来ただけですからねぇ……。こんな地底深くまで来て道に迷ってしまっていては、黒魔龍本体を倒すどころか私たちが倒れてしまいますよ。貴方からもう一度レイラさんに……」


 そこまで語った時点でライルはハッと言葉を切ると、周囲を見回した。バスリムも視線を周囲に巡らせる。


「なんだ……この空気は……」


「全員、身を隠して!」


 バスリムが動き出す前に、レイラから鋭い指示が全員に伝達された。その声質から、事は急を要すると誰もが感じ取りそれぞれ周辺の岩陰に身を隠す。


「ありゃ……一体……」


 岩から様子を覗いたガウラが、すぐ横の岩に身を隠すスレヤーに小声で尋ねる。


 幅10メートル、高さ5メートルほどある洞窟の先のほうから、何かが宙を移動して来ていた。壁の法力含有石の光にボンヤリ照らし出される姿は、王都上空に現れた黒魔龍と同じ姿……しかし、体長は10メートル程度の小型なものだ。


 スレヤーはガウラに顔を向け、人さし指を唇に当てた。まるで綿毛が漂うように音も無く宙を進んで来る「小型の黒魔龍」の目的が分からない以上、やり過ごすに限る。レイラをはじめ、他の者たちも同じように判断したのか、全員が息を殺して身を潜めていた。


 シュー……シュー……


 静寂の洞窟内、宙を這うように漂う黒魔龍から「警戒音」が響く。スレヤーは注意しつつ岩陰からそっと顔を出した。黒魔龍は1つの岩にジッと顔を向け、警戒音を発し続けている。


 あそこは……ミッツバンとバスリムが隠れた岩か?


 スレヤーは腰に下げている剣柄を握った。ふと視線を向けると、ガウラも同じように剣柄を握っている。2人は互いの呼吸を確認するようにうなずき、視線を黒魔龍に向け直した。


 シュー……


 黒魔龍が宙でゆっくり鎌首を持ち上げると、警戒音が止んだ。


 行くしか無ぇな……


 スレヤーはガウラとの呼吸が同調している空気を感じつつ、タイミングを計る。黒魔龍の動きが止まった。


「うわぁ!」


 突然、バスリムが岩陰から転がり飛び出す。持ち上げた鎌首の頭部で今まさに目標の岩を打ち砕こうと構えていた黒魔龍の身体が、一瞬、警戒のために硬直した。


「バァーロー!」


 剣を抜き飛び出したスレヤーの声が響く。ガウラも同時に剣を抜き、宙にとどまる黒魔龍へ2人で斬りかかる。


 ピシュー! パシュッ!


 法撃音が2つ聞こえ、黒魔龍の頭部が攻撃魔法の光に包まれた。スレヤーとガウラの剣は、法撃とほぼ同じタイミングで黒魔龍の胴体を斬りつける。


 ありゃっ?


 しかし、その手に何の手応えも感じなかったスレヤーはすぐに異変と危険を嗅ぎ取ると足を踏ん張り、跳びかかった勢いの反動を利用し脇へ転がり避けた。


 回転する視界に、法撃光に包まれた頭部を背後に回し、その口から黒い矢のような影を無数に吐き放つ黒魔龍の姿が映る。無数の黒い矢は、もう一人の襲撃者に集中している。黒矢の雨に全身を射ち抜かれて行くガウラの姿を呆然と見つめながら、スレヤーは地面に身体を打ちつけ転がった。

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