第2話 名

 次の日の午後、ミディの姿は森に入った場所にある湖畔にあった。


 ユニに、評判の香茶店を教えて貰ったので、昼食後、一人で出掛けたのだ。そこの主人に帰り際、この場所を教えて貰ったのである。


「地元の者でもあまり知られてないので、とても静かないい場所ですよ」


 彼の言葉通り、鳥の鳴き声などが時折聞こえるだけで、とても静かな場所だった。もちろん周りには、誰もいない。

 

 ミディは紙袋を草の上に置くと、力なくそこに座り込んだ。そして、どこか空ろな瞳で湖を見ている。


“どうして……、またこの日が来たのかしら”


 酷く霧の掛かった心の中で、自問する。


 今日は1年でミディが最も嫌う日――彼女の誕生日だった。


 誕生日は、ミディにとって苦痛でしかなかった。


 四大精霊の予言が彼女の心に、一番圧し掛かる日。

 予言と、四大精霊と対峙した記憶が彼女を苛み、酷い眩暈が彼女を襲う。しかし、そんな重い心を引きずりながら、誕生祭で笑顔を浮かべなければならない。


 これが、苦痛以外に何といえるだろう。


 ミディはゆっくりと体を起こすと、湖に近づき、水面を覗き込んだ。少し濁った水面には、少し揺れるもう一人の自分が見返している。

 不意に像が、口端を上げにやりと笑った。現実には起こりえない現象に驚き、ミディは反射的に少し体を起こした。


 像は笑いながら、口を動かす。


『いつでも帰ってきていいのよ』


 それは、ミディがボロアの葉に囚われた時に出会った、もう一人の自分の言葉。


 その言葉を聞いた瞬間、ミディは乱暴に手を水面にぶつけた。何度も何度も手を水面に打ちつけながら、唇は何かを呟く。


「駄目……、こんな事では駄目……。強くならないと……。強くならないと……」


 ミディの手が止まった。ゆらゆらと水面が揺れ、再びミディの姿を取り戻す。


 まるで、未来を恐れる彼女を、あざ笑うかのように。


 ミディは水中から手を出すと、水滴を拭う事もせず再び空を見つめた。そして、ため息と共に言葉を吐き出した。


「どうして……、私なの……? どうして……、私一人なの……?」


 予言の事を知った時から、ずっと繰り返し問いかけた言葉。

 しかし、未だに答えは得られていない。


『……本当に、それでいいの? 一人で、世界と戦うというの? あなたにそれが出来るの?』


『あなたは、再びこの地に降り立つでしょう。来るその時までこの檻は、このままとっておくわ。いつでも帰ってきていいのよ』


 消滅したはずのもう一人の自分の声が、ミディの頭の中に響き渡った。声と共に不快な耳鳴りが鳴り響く。


 声と耳鳴り、そしてそれらによって引き起こされる眩暈。


  ――本当にそれで……。


   ――世界に秩序を……。


    ――いつでも帰って……。


     ――強くなりなさい……。


 ミディは、全てを拒絶するように両耳を押さえた。


"ボロアの葉に囚われていたあの時……、全てを乗り越えられると思っていたのに……"


 その時、手に当たる硬い感触に、少し顔を上げた。存在を再確認するかのように、指がそっとそれに触れる。 


 黒石のイヤリング。

 去年、旅中にジェネラルから贈られた、誕生日プレゼントだ。


『19歳のお誕生日……、おめでとう!』


 そう言って、少し照れたように笑うジェネラルの姿が思い出された。


 そっと耳からイヤリングを外すと、変わらず美しい光を放つ黒石を見つめる。

 

 胸が、何故か締め付けられるように苦しい。その苦しみから逃れる為、ミディはイヤリングを強く握り締めた。唇が、無意識のうちに名を呼ぶ。


「……ジェネ」


 何故今ここで、ジェネラルの名を呼ぶのか、ミディには分からない。

 だが、唇はミディの意思に逆らい、何度も彼の名を呟く。


 自分を守ると言ってくれた、魔王の名を。


「……ジェネ、……ジェネ」


 呼んで、彼がここに来るなど有り得ない。

 だが、唇は何度も名を呼び続けた。


 彼の名が、あらゆる不安を振り払ってくれるかのように。

 そして彼の名が、自分に安らぎを与えてくれるかのように。 

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