中村太一の一日

鳥小路鳥麻呂

中村太一の一日

 大学生の中村太一は、この日も彼のこれから過ごす一日に対して何の希望も抱かずに登校した。彼は毎日淡々と日々を過ごしていた。朝は七時半に起き、一時間勉強をしてから家を出、無名の労働者たちを詰め込んだ京浜東北線の車内で黙々と本を読み、労働者たちの、魂の抜けたような砂漠を越え、この学生街へやって来る。学生とて干物のようだ。彼らは自らが大いなる計画のほんの一片に過ぎぬことを知らない。そして、日々を単調に、無益に、まるで鉛筆でも削るように浪費していることを、知らない。


 彼は駅を出た。労働者たちの群れが、一つの河のような流れを作り、中村を導く。彼は赤信号で止まり、学生たちを見た。

 見よ! 彼らの姿を! その疲れ切った目を! それは魂のない肉体! そして、偽りの充実! どこもかしこも、スマホ、スマホ、スマホ! 嗚呼、哀れなるかな、軽薄なる関係に自己を埋没させ、しかもそれを知らざる者たちよ!

――信号が変わった。彼らは歩き出す。彼も歩き出した。渡って右手には、コンビニエンスストアがあり、彼はいつも新聞を買う。この日もそうし、それを小さく折りたたんで読みながら歩いた。


 大学の日常は、高校時代のようにクラスというものをほとんど持たない。彼はその日の最初の授業がある教室へ行き、適当な空席に座り、新聞と本とを交互に読む。この日は『イワン・デニーソヴィチの一日』を読んだ。彼はしいて友達を持たなかった。だから、彼はほとんどの授業でいつも一人切りであった。時々は隣に人が来ることもある。運がよければ、彼はとても気さくで、中村に対して親切にしてくれる。もっと運がよければ、それは女性だ。

 この日は、果たして女性であった。

「ここ、いいですか?」と彼女は聞いた。

 彼は驚いて顔を上げた。

「ええ、どうぞ。」どもりながら言った。

 何てざまだ。――しかし(嗚呼、何ということか!)、彼女はそれ以降一言も口にしなかった。

 中村は黙って本を読んだ。


 一体大学生活に何を期待していたのだろう、と中村はいつも思う。彼は今までの人生を、後悔や恥辱の念を抱かずして振り返ることを成し得ない。彼の人生は、いつでも耐え難いほどに醜悪であった。彼は怠惰で、高慢で、嫉妬深く、無能であった。ために大学生活においては少しでもその罪を償わなければならぬと感じていたのだ。彼は毎日勉強した。自分の中の劣等感や嫉妬の念を打破するため、一心に勉強した。しかし、それももう疲れた。彼はある日を境に卒然にやる気を失った。一種の絶望に似た感情が、彼を襲った。その日、彼は人生の指針を失ったのである。一体この俺は、何のゆえに、何を目指して生きるのか、と彼は自問した。そして、彼はやがて取り返しのつかない変化を知った。今や、彼は高校生ではなかった。あの未熟で、醜悪で怠惰であった彼の高校時代は、たしかに息絶えてしまったのだ。嗚呼、あの時の彼女の笑顔も今はもう永久に見られないのだ。

「葉子さん。」と彼は忘れなれぬ名を呟く。

 これは毎日30回はすることである。彼自身未熟と感ずることであるが、彼はいまだ不可能な恋愛下にいた。つまりは大学という新しい世界にいながら、高校時代の恋という過去の遺物を持ち込んでしまっているのだ。これではどうして大学生活を謳歌できようか。

「葉子さん。嗚呼、葉子さん。どうして君を忘れられようか。必ず再会し、今度は絶対に声を掛けてみせる! だから、君よ、僕が行くまできっと一人でいておくれよ。」と彼は独りごつ。

 この感情が――つまりは失われた過去への追憶が――彼を襲うとき、中村太一の頭脳は完全に停止する。彼はいつまでも深い悲しみの直中に安住しているだろう。この苦しみより脱する勇気を、しかし、彼は持ち得ないのである。


――

 次の授業の教室である。彼は再び適当な空席を見つけて座る。しかし、ここは広い教室なので、なるべく前を選んだ。後ろの方は私語が煩く、愚鈍な雰囲気が伝染して来て彼の頭脳を破壊しそうに思えたからだ。それに、彼の好まない話題を耳にすることもあり、その手の話題に不快感を覚えてしまう彼は、それを避けたのである。そして、またもソルジェニーツィンを読む。そこへ、

「やあ。」と彼の大学での友人の一人である小山という男がやって来た。

 彼は怠惰な愚劣漢であったが、その天性の楽天主義ゆえ自らの悪癖をまったく恥じてはいなかった。のみならず、今まで何らの努力や挫折、恋愛すらも経験してこなかった彼は、ちょうど温室で餌を貰って育った陸亀よろしく、外界の酷寒に対して何一つ知恵を持たなかった。彼の破滅は目前であったが、誰もそのことを教えてはくれなかったので、彼はいつまでものほほんとしている。

「今日も眠そうだな。」と小山。

「天罰だからな。」と中村はいつものように答えた。

 この<天罰>という言葉を、この頃彼は好んで使った。

「何なんだ、その『天罰』っていうのは? やたら言うよな。」

 これに対し、中村太一は思わず<はあ>と溜息をついた。<おいおい、君だって自分の姿を見てみれば分かるはずだろう? 我々の醜悪さが! この世に生を受けてより、我らはほんの一時でもその甲斐があったことがあるのか? 誰かのために役に立ったか? 感謝されたか? そして他人に(ひいて自分自身にさえ)認められるために、必死の努力をしたのか? いつでも甘えてきたのではないのか?>

――しかし、彼は答えた。

「天罰は、天罰さ。君に言っても分からんよ。」

「そうか。」と言って小山は中村の隣に腰掛けた。そして、すかさずスマホを出し、何やら画面を眺めながら答える。

「まあ、とりあえず例の習慣はやめることだな。」

「例の?」

「お前がこの一週間ばかり教会に通い詰めていることさ。信者でもないくせに。」

「まあ、宗教のごときは結局都合のいい欺瞞に過ぎないからな。」

「だのになぜだ?」

「外人が言うように、宗教が本当に人々を救えるのなら、それは素晴らしいことだと思うからさ。実際、あの教会へ入った時、僕は感動した。あの重い荘厳な雰囲気は、僕をして神の前では一人一人の人間の差異などは本当に取るに足りないちっぽけなものであるということを分からせてくれた。なあ君、神の前に人は皆平等なのだよ。」

「本当にやばいぞ。重症だぞ。もう絶対行かない方がいい。そんな風に現実を口先だけの美辞麗句によって歪めてしまうようでは、お前の破滅も近いぞ。」

「まあ、君には分かるまい。」


――授業が終わると、彼はまた教会に行った。


――

 家に帰ると、彼は先ず鞄の中身を机に開け、教科書類を棚に仕舞い、ノートをぱらぱら見て今日の授業を復習し、それからそれらをまた棚に入れ、溜息をついた。

「さて。」と彼は言う。

パソコンをつけて小説を書きたいと思ったが、何を書いたらよいものか。テレビをつけても仕方がない。結局、彼は中国語の勉強を始めた。それを一時間やり、次にマクロ経済学、それから英語、そして統計・・・・・・。


 勉強が一応終わると、一気に感情が湧き上がってきた。失われし過去への、抑え難い羨望の念である。彼は卒業アルバムを(これはあまりに感情を逆なでするので、二度とは開くまいと決意していたのだが!)開き、いつものように一枚一枚のページをじっくりと見回し、例の人を探した。

「しるしなき、ものをおもはずは、ひとつきの、にごれるさけを、のむべくあるらし」などと呟いて酒の代わりにお茶を飲む。

 葉子という、髪の艶やかな、細い鼻の、眉目秀麗な美しいその人は、中村太一という一個の掃き溜めをして大いに自己反省させ、もって<美にして崇高なるもの>への上昇という使命を自覚させた、非常に重要な人物なのである。彼女はあまりに美しく、そして冷たかったが、ために彼は自己の欠陥を否応なく認識させられ、その改良に従事させられたのだ。これは、愚劣な彼にとって比類なき幸運であった。のみならず、彼女はその天性の優しさから、一方的な感情を向けてくる劣等漢中村太一に対しても、何の差別もなく丁寧に接してくれたのだ。嗚呼、彼女の花のような笑顔が、何度彼を救ったことだろう!

――そのような思い出の人を(彼にとってはいまだ思い出とはならないが)見るとき、中村太一は果てしない後悔の念を禁じ得ない。もはや憂愁と共にある種の憎悪の念さえ感じた。それは自己への憎悪である(そして、時に彼女への怨恨にさえ変わった!)。決して取り返すことのできない過去は、当時を生きた過去の自分にのみそれを変える権力が与えられていたのだ。しかし、当時の彼はそれを知らず、ただひたすらに決戦の日を先延ばしにして運命に甘え尽くしたのだ。なるほど始めのうちは、彼女と近付ける機会は次々に現れた。しかし、時を経るにつれてそれは減っていき、ついにはすべての行動が裏目に出るようになってしまった。嗚呼、何たる不器用! 何たる無能!


 彼はアルバムを閉じた。


――

 しかし、人間の愛とは果たしてどの程度のものであろうか。そもそも、愛と恋と性欲と虚栄心とは、一体どこがどのように違うのであろうか。中村太一は、長らく自らの不可能な恋愛を<真実の愛>と称して正当化してきた。しかし、葉子という彼の三年間思い続けた初恋の女性を失った今、その思い出のみを源泉に、一体どれだけの間彼はその崇高なる理念を保持し得るだろうか。彼はだんだん不安になってきた。どうせ今となっては、彼女は絶対に微笑まないのだ。ならばいっそ棄て去って・・・・・・いや、駄目だ。それだけはできない。

――この日、彼は切ない夢を見た。


 そこは高校の暗い玄関ホールであった。彼はそこに机と椅子を用意し、一人受験勉強をしている。友人たちは教室に集まっていたが、彼はいろいろの複雑な心情から、あえてこの場所を選んだのだ。

彼はのんびりと数学を解いている。しかし、集中力は風の前の塵に同じだ。彼は等比数列の隣に歌を書く。

<紫の ひともとゆゑに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る>

 すると、彼女のまさに帰らんとするところを見た。途端、彼ははっとして顔を上げ、彼女と視線が合った。しかし、その瞳は一瞬で他へ逸らされた。彼女の表情は凍りついたように冷たい。

「お疲れ。」と彼は言った。

 その声は恐怖に震えていた。何の恐怖か? 彼女に拒絶されることへの恐怖である。それはすなわち彼自身の未来の喪失を意味したからである。

「お疲れ。」と彼女は答えて少し微笑んだ。

 嗚呼、何たる冷笑! 彼女はその美しい顔で、小さな口の両端をそっと上げて笑う。これは軽蔑を含んだ、儀礼的な笑みの中でも最も形式的な、近寄りたくない相手にだけ使う方法だ。――そして、彼女は去った。彼は、一緒に帰ろうなどと言う機会さえ与えられなかった。のみならず、彼女は風のように速足で去って行った。そんなに急いで逃げるなよ、もう追いかけたりするものか、と彼は泣きそうになって呟いた。


 目を覚ました時、彼はしかし幸福であった。夢の中とはいえ、そして、あのように冷酷な仕打ちを受けたとはいえ、今は決して会うことのできない葉子という女性に出会ったのだ! これは素晴らしいことだ。しかも、彼女の容姿はあの頃のままだった! 彼の意識の中に、彼女はいまだ生き続けているのだ。

 もう一度こんな夢を見たい、と彼は思って再び眠りに就いた。――しかし、彼女は二度と現れなかった。


――

 このような勤勉で、ささやかで物悲しい、そして息苦しいほどに不器用な一日が、彼の大学生活が始まってより実に九十日以上続いていた。そして、これからも続くに違いない。彼の不可能な恋愛は、それ自体消滅の機会を逃してしまったのである。永久に続く悔恨と追憶の中で、もはや欺瞞によってしか解決され得ないであろうその古い情熱は、癌のように彼の五内を蝕み、日々その精神を衰弱させていった。しかし、あるいは彼女と再会する日が来ないともいえない。されば、たといこの思いをばまったく封印し得たとしても、その時に思いが蘇ってこないとどうしていえよう。ゆえに、これはもう呪いなのである。彼の身体は不条理な怨恨によって呪われ、もはやなす術を知らない。


――

終わりに寄せて


  世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

(万葉集 山上憶良)


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