翼を広げて、シーラ。

水池亘

翼を広げて、シーラ。

 良いことなんて何一つない。


 普通の服は着られない。

 お風呂で洗うのも大変。

 舞い散る大量の羽も掃除しなければいけない。

 冬は風が冷たくて痛い。

 夏は羽毛のせいで無闇に暑い。

 動かすたびに風がおきて迷惑をかける。

 時々、重い。

 走るのも遅くなる。

 まわりの皆から奇妙な目で見られる。

 変な奴につきまとわれる。

 そもそも、一ミリだって飛べやしないのに、何の意味があるのかわからない。


 ほんと。

 翼なんて生えてたって、何一つ良いことはない。


   *


高瀬たかせ詩衣良しいらさんだね」

 初対面のその男子は、にこにこ笑いながら私のことをフルネームで呼んだ。

「……そうだけど」

 まだ暑さの残る九月初頭、昼休みの教室。喧騒の中、私たちのことを気に留める者は誰一人いない。

「誰? あなた」

真鳥まとり隼人はやと。昨日B組に転校してきたんだ」

「ふうん」

「興味なさそうだね」

「ええ」

 私は正直に答える。

「初めて会ったのよ。関心があるわけないでしょう」

「それもそうか」

 彼は一人で頷いている。

「高瀬さん。いや、シーラって呼んでもいいかな」

「駄目に決まってるじゃない」

「シーラ、お願いがあるんだ」

 人の話を聞かないタイプか……。

 無言の私に向かって、笑みを絶やさぬまま彼は言った。


「僕と付き合ってほしい。君のその翼に一目惚れしたんだ」


「は?」

 思わず声が出てしまった。

「僕もいろいろ翼を見てきたけどシーラのほど大きくて真っ白な翼は初めてなんだ。こんな美しい翼がこの世にあるのかって、雷に打たれたよ。隣でずっと眺めてたい、触りたい、頬ずりしたい」

「それ、本気で言ってる?」

「僕は本心しか言わないよ」

「へえ」

 こいつは変態か何かか。

「変わった人もいるものね。翼なんて、ただ邪魔なだけよ」

「何言ってるの! そんな素敵なチャームポイントなのに!」

 そう叫ぶ真鳥の顔に邪気はない。

「ふん、人の苦労を知りもしないくせに」

「知ってるさ。翼人よくじん関連の本はあらかた読み尽くした」

「本なんて馬鹿馬鹿しい。私は身をもって体験してきたのよ」

「そう言われると困っちゃうな」

 彼は苦笑いを浮かべる。

「でもさ、本当にシーラの翼は綺麗だよ。僕が言うんだから間違いない」

「あなた翼の権威か何か?」

「まあそれに近いね」

「自信があって良いことね」

「ありがとう」

「皮肉よ!」

「そうなの?」

 真鳥は少し首を傾げる。

「まあとにかく、その翼の大きさと白さに僕は惚れたんだ。ぜひ付き合ってほしいな」

「お断りよ」

「そう。わかったよ」

 彼は残念そうに首を何度か振る。そして不意に手を伸ばして私の翼の先っぽを掴んだ。

「っ!」

 私は咄嗟に体をひねる。彼の手はすぐに引っ込んだ。

「やっぱり、あったかい。触り心地もいい。最高の羽毛だよ」

「帰れっ!」

「帰るよ、今日のところは」

 彼はにっこり微笑んだ。

「また明日、シーラ」


 真鳥はあっさりと去っていき、私はまたクラスの喧噪に包まれる。やがて休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 ……綺麗な翼、か。

 初めて言われたな、そんなこと。


   *


 この世界では、ごく稀に、翼の生えた子が生まれてくる。

 始めは手のひらほどの小さな翼。成長と共に、だんだん大きくなっていく。最終的なサイズは人によってまちまちだ。ゆったりした服に隠れてしまうくらいの大きさから、両腕を広げたくらいの大きさまで。

 翼の生えた人間は翼人と呼ばれ、各種福祉も存在する。ひとつの個性として世間から尊重されているのだ。建前上は。

 個性?

 私に言わせれば、こんなものただの病気でしかない。


 真鳥は毎日昼休みになると私のところへやって来た。

「機嫌はどう? シーラ」

「今最悪になったわ」

「そんないじわる言わないでよ」

「本当のことなのだけれど」

 真鳥は相変わらずにこにこしている。私の軽口ひとつやふたつでめげるような男ではないのだった。

「今日の翼はいちだんと綺麗だね。何かしたの?」

「別に、何も」

「きっとトリートメントの種類を変えたんだね」

「……」

「正解でしょ」

「知らないわね」

「まあいいや。翼は美しいに超したことはないからね。いやすべからく翼は美しいんだけど」

「はいはい、そうですか」

「あっ、でもシーラの翼は特別だよ! これはほんと!」

 こんなふうに彼は臆面もなく私の翼を褒めちぎる。そのたびに私は奇妙な気分になる。

 例えば、自分は不細工だと信じきっている女性がいたとして、「君の顔は美しい!」と賞賛されたらどういう気持ちになるだろうか。

「ねえ、シーラ。頼みがあるんだけど」

「お断りよ」

「今週の日曜、一緒に出かけない?」

「……それって、デートの誘い?」

「そう捉えてもらってもかまわない」

「私がOKするとでも思ったの?」

 その言葉にも、彼は微笑みを絶やさない。

「お金は全部僕が出すよ」

「そういう問題じゃないわ」

「欲しい服とかない?」

「……あるけれど」

「じゃあそれを買おう」

「ブランドものよ? 数万はするわ」

「平気だよ。バイトして貯めたお金がある」

「あのねえ」

 私は彼の方へ向き直る。

「あなたにそんなことしてもらう義理はないのよ。むしろ困ってしまうわ」

「シーラがどうこうじゃない、僕がお金を出したいんだ」

「強情ね」

「素直なだけだよ」

 嘘のない彼の瞳を見て、私は「はぁ」と大きなため息をつく。

「……せめて食事は、割り勘にしてよね」


 抜けるような晴天の朝だった。

 もうそろそろ秋の気配が来ても良いのに、と思う。

「やあ」

 銅像に背中をもたれかけながら、真鳥が右手を上げる。

「私服姿も美しいね、シーラ」

「お世辞はいいから」

「僕がお世辞を言うと思う?」

 まあ、それは、思わないけれど。

「……待たせたかしら」

「ん、ああ、一時間くらいかな」

「いっ……!」

「楽しみすぎて、ちょっと早く着いちゃった」

「ああ、そう……」

 少し呆れつつ、ふと見ると、彼は首から大きなカメラをぶら下げていた。一目で高価だとわかるレベルのものだ。

「何、そのカメラ」

「ああこれ? いいでしょ。ちょっと高かったけど、これから必要になるからね」

「風景でも撮るのかしら」

「シーラを撮るに決まってるじゃないか!」

「……」

 案の定。

「シーラのその美しい翼を記録に残しておきたい、そう思うのは当然のことだよ」

「やめて、恥ずかしい」

「後でデータ送ってあげるよ」

「いらないから!」

 乗り込んだ電車はほとんど満員だった。

 私は電車が嫌いだ。翼のせいで座席には座れないし、立っていてもその大きさで周りに迷惑がかかる。露骨に舌打ちをされたこともある。私は何も言えずただ翼をすくめるばかり。自分はこの世の中にとって邪魔な存在なのではないかとすら思えてしまう。

「大丈夫?」

 真鳥が小さくささやく。

「顔色悪いけど」

「何でもないわ。気にしないで」

 目的地までは十五分ほど。それだけの辛抱だ。

 ……と。

 不意に、尻のあたりに何かが押しつけられる感触がした。一瞬、後ろの人の体に当たったのかと思ったが、その感触が肌をなで回すように動き始めて私は凍り付いた。

 あきらかに、人の掌だ。

 痴漢に遭遇するのは初めてだった。

 私は身動き一つとれずに固まる。

 どうしよう。

 ただ体を触られるだけのことが、こんなにも、怖い。

「ねえ」

 唐突に真鳥の声がした。先ほどとは違い、はっきりとした大きな声だった。

 私に投げかけられているのかと思った。が、真鳥の視線は私を通り越したその後ろに向かっていた。

「ねえおじさん、せっかく触るんだったらお尻じゃなくて翼にしたら?」

 真鳥は朗々とそんな台詞を放った。いつもと変わらぬトーンで。いつもと変わらぬ微笑みで。

 臀部から圧迫感が消え、ようやく私の石化が回復する。恐る恐る後ろを振り向くと、初老の男性があからさまな困惑の表情を浮かべていた。

「翼の方がよほど触り心地いいのに、どうしてお尻を触るのか理解できないな」

 周囲の視線が真鳥と、男性に集まっている。

「ねえ、どうして?」

 そこで電車が停止した。駅に着いたのだ。男性は何も言わず、逃げるように降りていった。「あらら、行っちゃった」

 真鳥はつぶやいて、私の方を見る。

 そして、歯を見せてにこっと笑った。


 それから私たちが一日をどう過ごしたか、詳しく述べる必要はないと思う。

 翼人服専門店で白のワンピースを買ったり(さすがに安物を選んだ)、ランチに熱々のピザを食べたり(一時間以上並んだ)、カフェで自家焙煎のコーヒーを飲んだり(真鳥は砂糖をしこたま注ぎ込んでいた)、まあそんな、ありきたりな内容だ。

「ねえ、シーラ」

 夕暮れの陽が射す中、私たちは公園の芝生に並んで座っている。

「何よ」

「そこに立って、翼を広げてみてくれない?」

「ええ?」

「一度きちんと見ておきたいんだ」

「……」

 私は憮然とした顔で立ち上がる。そして紅い太陽を背に、ゆっくりと翼を広げた。シルエットが長く長く、遠くの果てまで伸びている。

「これで良い?」

「最高だね」

 真鳥はとびきりの笑顔。おもむろにカメラを構え、シャッターを切った。


 結局、その一枚しか真鳥は写真を撮らなかった。


   *


「生徒会長に立候補しようと思うんだ」

 会うなり真鳥はそんなことを宣った。

 教室の外では雨がしとしと降っている。ようやく秋の雰囲気が漂ってきた九月の中頃だった。

「どうぞご自由に」

「スローガンは『翼のある未来を!』。公約は翼人優遇制度の確立。どう? いい案でしょ」

「あなたはこの学校をどうしたいの」

「将来は政治家になってもいいかと思うんだよね。ほら、世間にはまだまだ翼人差別が蔓延ってるでしょ。それをなくしていけたらいいなって」

「志は立派ね」

 私は弁当を片付けながら言う。

「まあ、頑張ってみたら良いんじゃないかしら。無駄だと思うけれど」

「無駄?」

「ぽっと出の転校生に票が集まるわけないでしょう」

「そこはほら、選挙運動如何でさ」

「一応アドバイスしておくけれど、翼人云々は言わない方が良いわよ」

「どうして?」

「翼人なんて嫌われている存在だわ。それを優遇するなんてもってのほかだと、皆思うはずよ」

「そうかな」

「そうよ」

「現実は厳しいなあ」

 真鳥は寂しそうに微笑んだ。

「ま、でも、それを変えるための戦いだ。頑張るよ」

 彼の行動は素早かった。迅速に申請を済ませ、てきぱきとポスターを作り上げると、それをそこら中で配って回った。A4サイズのつるつるした上質紙には、彼の笑顔とともに、大きなゴシック体で『翼のある未来を!』と印字されていた。

 人の忠告を無視してからに……。

 本当に他人の話を聞かない奴だ。

 彼は演説まがいのことも実行していた。朝、校門の前で、「ですから私は翼という存在に希望を見いだしているわけなのです!」などと喚き、すっ飛んできた教師に「演説は禁止だと何度言えばわかる!」と叱られていた。

 それでも、有志の中間アンケートではそれなりに良い位置につけていたのだから、この学校の生徒も大概である。

 噂を耳にする限り、「ルックスが良い」というのが一番の要因らしい。

 言われてみれば、確かに彼は整った顔立ちをしていた。客観的に見て、格好良いと言える容姿だろう。

「でもそんな理由で投票して良いものかしら」

「まあ高校生なんて普通はそんなものじゃない?」

 そう言って真鳥は笑う。

「で、シーラ。頼みがあるんだけど」

「また?」

「明後日に最終演説会があるじゃない」

「ええ」

「知ってると思うけど、あれ、立候補者の他に応援人の演説も必要なんだよね」

「お断りよ」

「そんなこと言わずに」

「嫌よ。他を当たって頂戴」

「シーラじゃなきゃ駄目なんだ!」

「何でよ」

「わかるでしょ、僕の政策にとって、翼人からの応援は必須事項なんだよ」

「知ったことじゃないわ」

「それに」

「それに?」

「僕がシーラに応援してもらいたいんだ」

 真鳥は私の瞳をじっと見つめる。

 ……はあ。

 私は何度か首を振った。

「……どうなっても知らないわよ」


 私たちの出番は最後だった。

 他の候補者の演説は、それはもう上手なものだった。将来のビジョンや政策について実にスムーズに語っていて、思わず投票したくなるような内容ぞろい。そしてそれは応援演説も同様だった。

「……やっぱり無理よ」

「ここまで来て何言ってるのさ」

「私、あんなに上手く話せない」

「上手い必要なんてない。重要なのは、それが本心かどうかだよ」

 真鳥は朗らかに言った。

「日頃思ってること、感じてること、それを素直に話せばいい。簡単でしょ?」

「難しいわよ……」

「ほら、出番だよ。頑張って!」

 ぽんと私の背中を押す。同時に私の名前を呼ぶアナウンスが流れた。

 私が恐る恐る壇上へ登ると、生徒たちがざわめきだした。全校生徒の中でただ一人の翼人である私が登壇したということへの驚き、あるいは単純に翼そのものへの驚き、それらが混ざっているのだろうと思う。

 足が震える。

 体が震える。

 今すぐ逃げ出してしまいたい緊張で胃がひっくり返りそうだ。

 私は思わず袖下の真鳥を見る。

 視線が合うと、彼は小首をかしげてにっこり笑った。

 人がしんどい思いをしてるというのに……。

 でも、まあ、シリアスな顔をされるよりはマシだ。

 緊張は収まらないが、とにかく。

 話し始めてみよう。

 そして私は大きく息を吸った。

「高瀬、詩衣良です。翼人です」


 惨敗だった。

 それはもう気持ち良いくらい圧倒的な最下位だった。

「何が悪かったのかなあ」

「あなたの演説に決まってるでしょう」

 こともあろうに真鳥はあの真剣勝負の場で、自分がどれだけ翼を愛しているか蕩々と話して聞かせたのだ。熱っぽく語る真鳥の目は、ほとんど狂信者のそれだった。生徒も教師も皆唖然としていた。本当に頭のおかしい人物を前にすると人はどのような表情になるのか、私は初めて知った。

 でも、まあ、実にこの男らしい。

 あのとき、笑いをこらえていたのは、きっと私一人だけだった。


   *


 走ることが大好きだった。

 小学校では、かけっこで誰にも負けたことはなかった。

 きっと私はこれからもずっと走ることをやめないだろう。

 そう思っていた。

 中学生になって、翼が急激に大きくなるまでは。


 私にとって体育祭とは、ただ一日ぼーっと座っているだけのイベントだ。

 通常、必ず一種目は参加しなければいけないのだが、私は特別に不参加を許されていた。翼を怪我する可能性があるからというのが理由だったが、それはもちろん建前上の話で、実際は大きな翼が他の生徒の邪魔になるからだろう。

 その待遇に、私は特に不満はなかった。

 私の勝手で皆に迷惑をかけるのは本意ではなかったし、そもそも私は団体競技が好きではないのだ。

「ほんとに?」

 真鳥はめずらしく真顔で言った。

「ただ遠慮してるだけじゃないの?」

「そんなことないわ」

「シーラはもう少しわがままになってもいいと思うな」

「しかたないでしょう。そういう性格なのだから」

「性格、ね」

 真鳥が少し顎を引いて、私の瞳を覗く。

「性格ってのは与えられるものじゃなくて、自分で作っていくものだよ」

「そりゃあ、あなたはそうかもしれないけれど」

「何か一種目くらいはやろうよ、シーラ。翼人でも、希望すれば参加できるでしょ」

「……」

 私は無言で目をそらす。

「うーん、残念だなあ」

「あなたには関係ないでしょう」

「大ありだよ! その真っ白な翼が日光できらきら輝きながら動き回る姿を見られないなんて、僕には耐えられない!」

「耐えろよ、それくらい」

 真鳥はその後も何度かこの話題を出しては私に参加を勧めてきたが、何を言われようと私は気を変えるつもりはなかった。

 土台、体育祭というものは普通の人間のためにできあがっているものなのだ。


 意外なことに、真鳥はてんで運動が駄目なのだった。

 赤色の玉をへっぴり腰で明後日の方向に投げる様を、私は反対側のシートに座ってのんびり眺めていた。

 昼食も終わり、体育祭は終盤にさしかかっている。

 号令がかかり、クラスの皆が立ち上がった。次の競技は基本全員参加の騎馬戦だった。もぬけの殻になるシートに、ただ一人私は取り残される。こういうとき、寂しさや空しさを少しも感じない、といえば嘘になる。けれど、そんな感情に素直になったところで、今更どうしろと言うのだろう。

 ピストルの音とともに無数の騎馬がぶつかり合う。その中には真鳥の姿もあった。騎馬の上で、奇妙なダンスのように体をくねらせている。何だあれは、と笑う間もなく鉢巻を奪い取られて姿を消した。

 やがて終了の合図が鳴り、各々がグラウンドから去っていく。と、一組だけ、中央から動こうとしない。よく見ると女子が一人、足を押さえてうずくまっている。同じクラスの、とびきり足の速い生徒だった。ざわめきの中、彼女は担任教師に背負われていった。

 シートに戻ってきたクラスメイト達は皆、穏やかでない表情をしていた。彼女はクラスの人気者だった。体育祭でも大活躍するはずだった。特に、最後の競技、全学年リレーでは。

 しばらくして担任がシートの前に現れ、彼女はただの捻挫であり骨などに異常はないことを告げた。安堵のため息があちこちから漏れる。

 しかしもちろん、彼女はリレーには出られない。

「代わりに出たい者はいないか」

 担任の言葉に、その場がしん、と静まりかえる。

 それはそうだろう。彼女の代わりが務まるほど足の速い女子はこのクラスにはいない。しかもリレーは最終競技だ。その成績如何でチームの勝敗が決してしまう。責任も大きい。

「誰でもいいぞ!」

 その声に応える者はいない。

「速くなくてもかまわない。誰かいないか、走るのが好きな者は!」

 走るのが好きな者、か。

 そういえば、昔は大好きだったな、かけっこ。

 不意に、なぜか真鳥の姿が脳をよぎった。

「おおっ、高瀬! やってくれるか!」

 担任のその台詞で、私は自分が手を上げていることに気づく。気づいて、しばし呆然とした。

 なぜ?

 全く理由がわからないまま、私は立ち上がり、列に並び、そしてけたたましいピストルの音を聞く。飛び出すランナー達を、グラウンドの中から見つめる。

 心の準備ができないまま、出番が近づく。

 現状は、最下位。

 客席の全体から声援が飛んでいる。

 必死に走る仲間の歪んだ顔が近づく。

 私は前を向く。

 逆さにした右手に、バトンが渡される。

 握る。

 そして。


 いつの間にか、走ることが嫌いになっていた。

 大きくなった翼は空気の抵抗を受け、私の走りを阻害した。

 翼を閉じるとフォームが崩れ、上手く走れなくなった。

 思うようなスピードが出なかった。

 誰より走るのが速い私は、いつの間にかいなくなっていた。

 私は、走るのをやめた。


 こんな翼、なければ良かったのに。


「何言ってるの!」


 誰かが叫ぶ。


「素敵なチャームポイントなのに!」


 そうかしら。

 心からそんな風に思える日が、私にも来るのかしら。


 走り出す。

 翼を畳んで、崩れたフォームで。

 それでも、私は走る。

 かつての記憶を取り戻すかのように。

 体の全てで秋の空気を裂く。

 ゆらゆら舞い上がる土煙を蹴る。

 外気に触れた瞳から一筋涙が流れる感覚がする。

 思考は止まっている、足を動かした瞬間から。

 いや、その前。

 中学生のころから、思考は止まっていたのかもしれない。

 わからない。

 ただ、今は、走る。

 体を傾けてカーブを曲がる。

 直線にさしかかる。

 突風が吹く。

 向かい風が体に突き当たる。

 瞬間、体が、バランスを崩す。

 あっ。

 倒れ、


「シーラ!」


 その声は脳内ではなくはっきりと耳に刺さる。

 スピーカーだ。

 実況放送を流しているはずのスピーカーから、それは全世界へ向けて、私ひとりへ向けて、発信されている。


「翼だ! 翼を広げて、シーラ!」


 そうだ。

 私には、翼が生えているのだ。


 両手を伸ばしたほどの大きな翼を。

 純白の羽に覆われた翼を。

 空へ向かって、力強く広げる。


 風が、翼を煽る。

 

 刹那。


 ふわりと。


 体が、

 宙に、

 浮いた。


 何だ。

 一ミリくらいは飛べるじゃないか、私。


 数日後、私宛に差出人の名のない封筒が届いた。

 中には一枚の写真が入っていた。

 バトンを持った私が、翼を広げたまま、前に転びそうになっている写真。

 思わず笑ってしまった。

 現実なんて、えてしてこんなものである。

 白い翼は、日光を浴びてきらきらと輝いていた。


   *


 高瀬、詩衣良です。翼人です。


 私はこの翼のせいで、苦労ばかりしてきました。

 普通の服は着られません。

 お風呂で洗うのも大変です。

 舞い散る大量の羽も掃除しなければいけません。

 冬は風が冷たくて痛みます。

 夏は羽毛のせいで無闇に暑いです。

 動かすたびに風がおきて、迷惑をかけます。

 時々、重いです。

 走るのも遅くなりました。

 まわりの皆から奇妙な目で見られます。

 変な人につきまとわれます。


 こんな翼、なければ良いのに。

 そう、何度思ったかわかりません。

 私にとってこの翼は呪いです。

 おまえは普通の人とは違うんだ、普通より劣っているんだ。そういう呪詛なんです。


 そんな私に、声をかけてくる人がいました。


「きみの翼は誰より綺麗だ」


 そう言って、その人はにっこり笑いました。


 認めたくはありませんが。

 きっと私は。

 その言葉が、嬉しかった。


 嬉しかったんです。


 だから今、こうしてここに立っています。


   *


「聞いたよ」

 弁当を食べ終えたばかりの私に向かって真鳥が言う。

「陸上部に入ったんだって?」

「ええ」

 どうして? とは訊かず、彼はただ「いいことだね、それは」と微笑んだ。

「シーラは足速いものね」

「そんなことないわ」

「いや、速いよ。それに、これからもっと速くなる」

「そうかしら」

「そうだよ、多分」

「何よそれ、無責任ねえ」

 私はふふっと笑う。

「まあ、せいぜい楽しむわ。走ることは好きだから」

「何だか明るくなったよね、シーラ」

「そう? 変わらないと思うけれど」

 私のその言葉に、彼は何かを言おうとする。だが、数秒ほど逡巡して、結局やめた。

 窓の外では紅に色づいた木々を風が揺らしている。秋もいよいよ深まっていた。やがて冬が来て、春が来て、季節が巡って、私たちは大人になっていく。

 そのとき、私はどうしているだろう。

 翼のことをどう思っているだろう。

 あとついでに、真鳥との関係はどうなっているだろう。

 わからない。

 今は全くわからない。

 けれど、翼のある未来も、悪くないかもしれない。

「ところでシーラ」

「何よ」

「お願いがあるんだけど」

 微笑む真鳥に向かって、私はにっこりと笑みを返した。

「お断りよ」

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翼を広げて、シーラ。 水池亘 @mizuikewataru

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