追悼、初めての恋人

第1話

 昔の恋人を久しぶりに見かけたのは、テレビモニター越し、夕方のニュース番組の報道だった。聞き覚えのある名前が聞こえてきた気がしてふと目をやったテレビには、確かに彼女の名前と顔写真が表示されていた。殺人事件の被害者として。

 初めて出会ったのは大学一年の頃、加入した映画サークルの先輩に当時三年生の彼女がいた。映画サークルといっても自主映画撮影をするわけではなく、誰かの家に集まってだらだらと映画を観たり観なかったりするだけの、平均よりは映画が好きというだけの連中の集まりだった。俺と彼女は映画の趣味が合い、何度か二人で映画館に出かけるうちに親密になり、付き合うことになった。大学一年の冬だったと思う。

 生まれて初めてできた彼女に、交際開始当初の俺はだいぶ舞い上がった。高校までは恋愛ごとに縁がなく、自分がそうした関係の主体になれるなんて夢にも思っていなかった。彼女ができたというその事実だけでずいぶんと幸せな気分になれたように思う。

 一方の彼女も、恋愛にはずいぶんと奥手であるようだった。俺の前に付き合ったことがあるのは一人で、それも短期間で上手くいかなくなり別れたらしかった。なぜ知っているかというと、昔の男がいたかどうか彼女に訊ねたからだ。わざわざそれを確認せずにいられなかったあたり、当時の俺の童貞臭さが如実に表れていて恥ずかしくなる。

 初めてキスをしたのは夜の公園だった。付き合い始めた頃は俺も彼女も大学の同級生とルームシェアをしていて相手を家に呼ぶことができなかったので(お互い恋人ができたことを周囲に打ち明けていない時期だった)、大学以外で会うときはどちらかの家の前で待ち合わせをして近場を散歩するのが定番だった。

 街灯が照らす静かな住宅街。寒空の下を手を繋ぎながら歩いていたことを思い出す。繋いだ手を自分のコートのポケットに入れたとき、彼女が照れたように笑った顔が街灯に照らされていたことも記憶によみがえってくる。そういえば、手を繋ぐに至るまでも付き合い出してから二週間くらいかかったはずだ。ずいぶんとウブなカップルだった。

 行く当てもなくぶらついて、誰もいない公園の入り口にあるアーチ型の車止めに腰掛け他愛もない話をする時間が愛おしかった。

 ある日、俺は意を決して「キスしていいですか」と訊ねた。そのとき俺はまだ先輩である彼女に対して敬語を使っていた。お互いの恋愛経験の浅さもあろうが、そのときの俺には自然な流れでキスに持って行くことはできなかったのだ。

 彼女の返事がくるまでずいぶんと間があった。二人並んで車止めに腰掛けながら、俺は彼女の顔を見ることができず、隣にいる彼女の呼吸を聞いていた。冬の住宅街の夜は寒くて静かだった。早くなっていく自分の心臓の鼓動を感じるほど静かな街は、なぜだかやけに綺麗な世界に見えた。

「いいよ」

 少し語尾を上げるような返事をした彼女の声。彼女のほうを見やると、彼女もうつむきがちに前を見ながらも、横目で見上げるような瞳を俺に向けていた。その仕草がいじらしかった。鼓動がさらに強くなった。

 初めての彼女との初めてのキス。女性の唇の柔らかさや、舌と舌がわずかに触れ合うだけでこれほど気持ちよいのかと感動し、そしてなにより、想像したよりもずっと幸せな気分に包まれた。こんな幸せがずっと続くといいと願い、そのための努力は惜しまないと決意した。

 彼女が卒業し新社会人として就職した頃から、俺と彼女の関係は不穏になり始めた。通勤のために彼女は引っ越し、慣れない土地で日々を送るなか、学生とは違う生活と仕事の負担が彼女をすり減らしていた。そして俺はその事実を甘く見ていた。自分自身、就活準備が忙しくなってきたことや、交際が長くなってきたことからくるマンネリ、そしてお互いのことを理解できているという慢心があったのだと思う。

 彼女が夜中に泣きながら電話をしてきて「今から会いたい」と言い出したことがある。俺は寝ていたところを電話のコール音でたたき起こされたため、寝ぼけた頭もあいまって不機嫌を隠さなかった。

「今からって……何時だと思ってるの。二時だよ。明日仕事でしょ」

「ごめん……でも、会いたくて。うちにきて欲しいの」

 夜中なので当然電車もバスもない。彼女の家まで原付バイクで行くことはできるが四十分はかかるうえ、間の悪いことに大雨が降っていた。

「この天気のなかを原付走らせて来いってわけ?」

「……会いたいよ」

 消え入りそうな彼女の電話越しの声。俺はしばらく黙り込んで、あからさまに大きくため息をついてから「わかった」と応えた。

 大雨の暗い夜道。以前百均で買ったちゃちなカッパを着込んで原付を走らせながら、彼女はなぜこんな非常識な要求をするのだろう、わかったなどと応えるんじゃなかったとそればかり考えていた。到着した頃にはカッパを着てても隙間から染み込んだ雨で全身ずぶ濡れだった。すっかりと身体は冷え、一方頭の中は怒りで燃えていた。

 扉を開けた彼女は俺の到着を喜んだが、すぐに俺が怒っていることに気づいて「こんな雨のなか来てくれて本当にありがとう。ごめんね」と気を遣うように言った。その謝罪に居心地の悪さを覚えた俺は、返事をしないまま無言で彼女の部屋へ上がった。ごめんと言うくらいなら初めから呼ぶなよ、なんて考えていたような気がする。「風邪をひくといけないから」と彼女がシャワーを勧めてきたので遠慮せずに借りて、終わったらそのまま彼女と一緒のベッドで寝た。

「今日は本当にありがとう。ごめんね。……おやすみなさい」

「……おやすみ」

 彼女が手を握ってきたので、それをわずかに握り返した。楽しい会話や気を紛らわす何をするでもない。本当にこれが彼女のしたかったことなのかわからなかった。

 それからも、こちらの事情を考慮しない彼女の要求の頻度は増していった。それに応えようと努力したり、「いいかげんにしろよ」とけんかしたりしながら、俺はだんだんとうんざりしてきていた。理解しあえているという勝手な思い上がりは消え、今度は「彼女のことがわからない」というこれまた勝手な悩みを抱き始めた。「別れたほうがいいのだろうか」という考えが頻繁に頭をよぎるようになった頃だった。彼女が休職したのは。

 適応障害。それが彼女の診断名だった。

 彼女は心の病を患った結果として、理不尽にも思える言動をしていたのだと理解し、自分のこれまでの言動を恥じた。病気によるものなのだから仕方がない。俺は可能な限り彼女の希望を叶え、期待に応えなければならない。俺は、病名を聞かされて以降ずっとそう考えて行動した。

 そうすべきではなかった。俺はまたしても思い上がっていたのだと、ずいぶん経ってから気づいた。人ひとり支えるということがどういうことか理解していなかった。いや、そもそも支えていたつもりになっていただけというのが実態だろう。俺は彼女と一緒になって自分をすり減らしていただけだった。自分自身も余裕がなくなり、追い詰められ、どうでもいいことで衝突することが増えた。相手のことが受け入れられなくなり、会えば毎回のように言い争った。俺たちの関係はどこから見ても末期的だったと思う。

「あなたは私が病気になっても何もしてくれなかった」

 彼女の病状が落ち着き、復職してからしばらく後、何かのきっかけで彼女とけんかになったときに聞かされた言葉だ。

「ははは」

 俺は笑った。笑わずにいられなかった。そのとき自分がどんな顔をしたのかは知らないが、彼女の表情が変わったことはよく憶えている。二人の関係にトドメを刺したことを、俺の表情から理解したんじゃないだろうか。それから程なくして俺たちは別れた。

 別れて数ヶ月後、街で偶然出会ったことがある。俺は単純な嬉しさから話しかけたものの、彼女は不快そうな態度を隠さなかった。俺たちはもはや友人にもなれないことを悟った。

 俺も大学を卒業し社会人としての生活を始め、怒濤の一年目を終えて二年目に入った頃。大学の先輩で彼女とは共通の知人でもある女性から、彼女が結婚して引っ越したことを聞いた。その知人は彼女の親友なので、結婚式に招待されて参加したのだった。

 自分は結婚式に呼ばれていない。そんなの当然だ。俺が逆の立場でも昔の彼女を結婚式になんて呼ばない。それでもなぜか俺は傷ついた。傷ついているくせに、「そうですか。幸せになるといいですね」なんて応えたような記憶がある。かっこつけているようだが本心だった。そのはずだ。どこへ引っ越したのか気になったけれど訊ねることはしなかった。彼女の消息を聞いたのはそれが最後だった。

 それから一、二年の間はふとしたときに思い出すこともあったけれど、いつしかそれもなくなっていた。彼女が死んだことをテレビ越しに知ったのが、八年ぶりに聞く彼女の近況となった。

 報道は淡々と、彼女は包丁で刺されそれが致命傷となったこと、容疑者がすでに逮捕されていること、それが彼女の夫だということを伝え、キャスターが「警察は動機の解明を進めています」と締めくくると次のニュースへと移った。俺はテレビを消してリビングの椅子に腰を下ろした。足元がふわふわしているような、落ち着かない気分だった。

 悲しいとは感じなかった。我ながら冷たいと思う。まだ混乱しているだけで、これからじわじわと実感していくうちに悲しくなるのかもしれないとも思ったけれど、現在の俺の生活のなかに彼女はそもそもいなかったのだ。彼女が死んでしまったことを実感するすべがないことに気づく。

 今はただ安らかに。そう祈ることくらいは許されるだろうか。とっくに失ったはずのものが改めてなくなったような感覚に寂しさを覚える。夜が更けていく。

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追悼、初めての恋人 @akatsuki327

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