STORIA 89

八尋さんが入院する、市立釧路総合病院へと向かう。

僕は支度を済ませ、机上に置かれた地図で目的地までの距離を再確認しているところだ。

都は既に私用で出掛けている。

彼の言葉通りなら、病院へは立ち寄らないはずだ。

ただ一つ、不便を受け入れなければならなかった。

この家には八尋さんが所持している車が一台しかない。

都は移動手段に必ず車を使うから、残された僕達は他の方途を選ぶしかなかった。





「電車で行くの?」

銀花が器用に髪を編み込みながら、地図を覗き込んでいる。

「うーん。電車だと病院までの道のりが長いし、遠回りになりそうだね。行くなら、バスを使った方が効率的かな」

こんな時、改めて実感することがある。

鉄道に関してはやはり、都心の様にはいかない。

病院周辺に幾つかの最寄り駅が点在するけれど、何れも徒歩だと片道三十分以上は費やすことになりそうだ。

阿寒バスなら病院前での下車が可能だし、他を選ぶまでもないだろう。

「バスの遠矢線を使って釧路駅まで出て、阿寒バスに乗り換えるのが良いね。遠矢のバス停までは少し歩くことになるけど」

「じゃあ、決まりね。レイ。私も支度出来たよ。遅くなって、ごめんなさい」

「いいよ。そろそろ、出掛けようか。バス到着の時刻が近付いてる」





戸締りを済ませ、僕達は春湖台を目的地に東南へと下る。

雪と無縁の地なら難なく通える道のりも、足場が悪い晩冬の道南では足枷となるだけだ。

冷え切った身体を縮めながら、暖房の効いたバスへ救いを求める様に乗り込む。

相変わらず、銀花は寒さに強張る様子を見せない。

僕は窓際の席に座り、曇った硝子を少しだけ指先で掻いた。

こんな風に一枚隔てた内側から雪景色を眺めていると、旅立つ以前の都心で雪に純粋な憧れを抱いていた過去を想い出す。

今でもその気持ちに変わりのない部分はある。

望めば触れることのできる雪景色でさえ、釧路を訪れて一年未満の僕には未踏の現象でしかなく、実際は濁りのない上澄みを掬っただけに過ぎなかった。

雪に対する知識は産まれた時から人生を、過酷な美しさを共にしてきた道民には敵うはずもなく。

未だに不明瞭なフィルター越しに覗き見るような、夢寐に身を置く眼差しが銀世界を憧憬化させている部分もある。

知らない方が良いこともあるとは、よく言う。

全てを知了してしまったなら「憧れ」という言葉は真実と出逢わずして掉尾を飾り、砕け散ることだろう。

それなら一層、波打ち際から穢れのない玉塵だけを追い求めていたいと、僕は無意識のうちに望んでいた。

この暖かなバスから眺める遠景のように。





ふと、傍らに目を遣るといつの間に眠りに就いたのか、銀花が僕の肩に身を預け心地良さげに瞼を閉じている。

暖風の温もりに誘われて睡る彼女の艶やかな頰は薄紅に染まり、仄かな安らぎに満たされていた。











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