STORIA 71

〝死んだりしないよ〝と、僕を遠巻きに宥める彼の言葉に安心したからじゃない。

理由も判らず、今はただ身体を任せて都の示す方角へと歩を進めている。

それでも波長の重なりを拒むように彼の背から半歩、一歩と速度を落としながら、僕は自身の中に潜む怯懦を隠しきれずにいた。

私服の上から一枚の厚いコートを羽織り、マフラーだけを纏った無防備な姿は全身に強い寒気を誘う。

なのに、眉宇の辺りが熱い。

日中は疎らな人の気配が薄めていた不安も、全ての輪郭を浮き上がらせてしまう静寂の袂では補うものが存在しない。

水辺特有の匂いと微かに脈打つ水滴の鼓動が、丹頂の塒が近付いていることを僕達に知らせていた。

やがて、神秘は幕を上げる。





月明かりが見える。

いつに間に姿を現したのか、厳しい寒さの中でも決して凍りつくことのない、塒の水面を青みがかった美しい石英色が照らしている。

水明は気休めにも似た安堵を、僕に与えてくれる。

大地を映す朧げな月色が、幻の温もりをこの身体に届けてくれている様にも想えた。

いつか世界に一人だけ取り残されるのなら、こんな秀麗な光景を撰ぶのも悪くはないと想えてしまう自分が少し、怖い。

感覚が麻痺していく。

哀情さえも癒しへと塗り替えてしまうかの様な、滅尽の美学に心が操られている。





死を美しい現象の一種だと唱える人が、この世界には存在する。

生からの別離は全てを解放へ導くと考える、審美的観点によるものなのかも知れない。

魄が得る桃源郷の有無や絶後の世界が醸し出す幽玄美ではなくて、死というそのものが鈍く放つ錆びた輝きだ。

常闇が支配する世の中なら、それさえも掛けがえのない賜と化すだろう。

普段の自分なら出逢えることのない感性が、滲み出ている現実に気付き始めていた。

だけど、僕は光を知る。

大地の暖かさも、目を逸らしたくなるほどの眩い陽射しが映し出す万物の鮮やかな本来の姿も。

人の温かさや愛情も、心を満たす火輪とともにいつの時代も息衝いている。

闇の神秘が僕を籠絡しようとも、決して見失ってはいけない物があるということを胸の内では感じていた。





「見ろよ。丹頂がこんなに近くにいる」

都の言葉で、僕は我に返る。

気付けば下流の川岸へと辿り着いていた。

「いいのか? こんな所まで来て。ここって確か、丹頂保護のための立ち入り禁止区域なんじゃ……」

「時には掟破りも必要さ。過去にも同じような行動を取った人がいたらしくて、丹頂が影響を受けた結果、怯えて自分達の塒の場所を変えてしまったっていう記録が残ってるんだってな。今回は、そうならないことを願うのみ。写真を撮らなければ大丈夫な気もするけど、考えが甘いかな」

彼は自身に言い聞かせる様にカメラ機材を足元に置くと、両手をコートの隠しに潜めて間近で眠る丹頂の美しさに魅入っていた。








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